九ノ環・氷の大公爵3

 夜とは、これほど暗くて静かなものでしたか。

 銀世界に夜の帳が降りて、辺り一面は静寂の闇に包まれました。

 陽射しがある昼間とは違い、空気が凍てつくような冷たさです。漏れる吐息は白くて、鼻がヒリヒリして少し痛いくらい。

 王都の城壁の外に幾つかの焚火の炎が灯り、それを囲むようにしてたくさんの難民が集っています。

 私たち一行はそれらの集まりを囲むような配置で馬車や馬を停め、兵士たちは天幕で休息を取っていました。

 私とイスラも天幕で夜を越えることになります。外のあまりの寒さに天幕の中もひんやりと寒いですが、これくらいなんともありません。こうして屋根のある場所で冷たい風を凌げるだけで充分です。

 でも、イスラには申し訳なく思ってしまいます。

 本当なら今頃は王都に入城し、暖かな部屋で休ませてあげられたはずです。それなのに、こんな幼いイスラにまで外で過ごさせてしまうことになりました。

 朝がくるのを待つばかりの時間、隣のイスラが居心地悪そうにもぞもぞと身じろいでいます。


「イスラ、どうしました? お腹が空いてるんですか?」


 先ほど夕食を頂いたばかりですが、それでも気になって聞いてしまいます。いつもとは違うので、なにか不自由はしていないかと心配なのです。


「すいてない」

「そうですか、では喉が渇いたんですか?」

「だいじょうぶ」


 大丈夫と言いながらもそわそわと落ち着きない様子です。

 柔らかな椅子は座り心地悪くないのに、お尻の収まりが悪いのか何度も座り直してもぞもぞしています。


「おトイレですか?」

「ちがう」

「では、なにか欲しいものでもあるんですか?」

「ない」

「そうですか……」


 困りました。なにか我慢しているのは分かるのですが、なにを我慢しているのか分かりません。


「少し外を出歩いてみますか?」

「いいのか?!」


 イスラの顔がパッと輝きました。

 どうやらこれが正解だったみたいです。

 この天幕は大型なので充分な広さがありますが、それでも子どものイスラには閉塞感があったようです。今まで文句も言わず我慢してくれていたんですね。


「いいですよ。皆がいる焚火の方へ行ってみますか?」

「うん!」


 イスラと一緒に天幕を出ると、近くの天幕で控えていたコレットが慌てて駆けてきました。


「ブレイラ様、イスラ様、いったいどうしました? なにかございましたか?」

「いえ、何もありません。少し外の空気を吸いたくなっただけです」

「お気持ちは分かりますがご辛抱ください。夜は冷えてしまいます」

「心配ありがとうございます。でも大丈夫ですよ、用意していただいた外套はとても温かいですから。ね、イスラ」

「うん」


 イスラも大きく頷きました。

 今のイスラはモコモコフード付きの毛皮の外套を着ています。まるでぬいぐるみみたいで可愛いですね。

 私も薄くて軽いのにとても温かい毛皮の外套を用意していただけて充分温かいのです。


「そういう問題ではなく、ブレイラ様には」

「分かっています。でもお願いします、少しだけイスラと二人で散歩させてください」


 遮って言いました。

 お願いしますとコレットを見つめると、彼女は諦めた顔でため息をつきました。


「……分かりました。でもなるべく早くお戻りください」

「ありがとうございます。はい、すぐに帰ってきます」


 コレットにも許してもらい、私はイスラと手を繋いで焚火の方へ向かいます。

 焚火を囲む人々の表情は昼間見た時よりも幾分か和らいでいるようでした。焚火の温かな明かりと、魔界の軍隊とはいえ守られている安心感に心穏やかな気持ちになってくれたのでしょう。難民の子どもたちも焚火の側ではしゃいでいて、その光景は疲弊しきったなかで癒しを齎してくれます。

 幸いにも今夜は嵐の気配もないようです。焚火の炎さえ絶やさなければ人々は城壁の外でも一晩乗り越えることができます。


「ひが、たくさん」

「もう少し近づいてみますか?」

「うん」


 焚火の側にはたくさんの難民が集まっています。

 その人々にイスラは気後れしてしまっているようですが、焚火の側で遊んでいる子どもたちが気になるようです。

 私の手をぎゅっと握りしめ、じりじりと子どもたちと距離を詰めていくイスラ。おかしなものですね。イスラは怪物と戦う時よりも、同年代の子どもたちと接する時の方が緊張するようです。


「あそこの子どもたちに声をかけてみますか?」

「えっ」

「ふふ、行きたいんでしょう? 私も一緒についていってあげましょうか」

「……う、うん」


 イスラがもじもじしながら頷きました。

 私とイスラはさっそく子どもたちがいる場所へ足を向ける。少しでもイスラの気晴らしになることを願います。

 でも不意に、大人たちの会話が耳に飛び込んでくる。


「どうしてこんな事になったんだ……」

「なにが砂漠の戦士だ。国を放ってあいつらはどこへ行きやがった」


 それは、子どもたちを見守っていた親たちの会話でした。

 焚火の前で大人たちが消滅した祖国を憂い、嘆いていたのです。

 その会話に咄嗟にイスラの両耳を塞ぎました。

「ブレイラ?」不思議そうにイスラが見上げてきますが、笑いかけて誤魔化します。

 イスラに会話を聞かせたくありませんでした。


「冥界を呼びこんだのはアロカサルのゴルゴスらしい」

「ああ、俺も聞いた。ゴルゴスのやつ、俺たちを騙してたんだ。最初からアロカサルや六ノ国をめちゃくちゃにするつもりだったんだ」

「だから砂漠の戦士団も国を裏切ったのさ。あいつら、いつも偉そうに忠義だなんだと言ってやがった癖にっ」


 ゴルゴスや砂漠の戦士団について語る大人たちの口調は恨みと怒りに満ちたものでした。

 私はイスラの耳を塞ぎながら唇を噛みしめる。

 だって、違うのです。そうではないのです。ゴルゴスは決して民衆を欺いていたわけではありません。冥界に企てられた罠の中で、少しでも人間界を救おうと必死に足掻いていました。

 そして最期は勇者の身代わりになって人間界の被害を最小限に食い止めてくれたのです。

 たしかに国の消滅という甚大な被害は出ましたが、人間界が消滅しなかったのは紛れもなくゴルゴスの功績です。

 しかしここにいる大人たちの言う通り、国は消滅し、ダビド王は行方不明になり、国を守るはずの砂漠の戦士団は崩壊しました。民衆を守るものは何もなくなったのです。残された民衆は難民になって他国の慈悲に縋るしかなくなり、その惨めさに嘆いて怒るのも当然でした。ゴルゴスは死して尚、民衆のやり場のない怒りを受け止めているのです。


「イスラ、やっぱり帰りましょうか。コレットが心配します」

「もう?」

「はい、帰りましょう。今夜は抱っこで眠ってあげますから、ね?」

「……やくそく?」

「はい、約束です」

「それなら、わかった」


 言い聞かせるように言うとイスラは渋々ながらも頷いてくれました。

 私はイスラの手を引いて足早に天幕に戻ります。誰かの言葉がイスラの耳に入ってしまう前に早く、早く。

 しかしそんな私の足が止まる。


「……あそこにいるのは、子ども、ですよね」


 焚火から少し離れた場所に男の子がぽつんと佇んでいたのです。

 イスラと同じ年くらいでしょうか。たった一人で佇んで、遠くから焚火をじっと見つめています。どの大人も近づく様子はありませんでした。


「まさか一人なんじゃ……。行ってみましょう」

「うん」


 私とイスラが近づくと、焚火を見つめていた男の子がゆっくりと視線をあげる。

 澄んだ蒼い瞳と濃紺色の髪が特徴的な男の子でした。


「こんな所でなにをしているのですか? お父様やお母様はどこですか?」

「……いない」

「えっ、迷子ということですか?」

「ちがう」

「……それじゃあ一人でここに……」


 驚きに言葉を失くしました。

 この子どもはいつから一人だったんでしょうか。ここに辿りつく長い道中で身内が息絶えたのか、それとも最初から一人で難民の集団に紛れていたのか。どちらにしろ幼い子どもにとって過酷な状況です。たった一人でここにいることがすでに奇跡です。

 見れば男の子は薄手の服を着ています。寒さに震えている様子はありませんが、この極寒の地で放っておける格好ではありません。


「これを着なさい」


 私は外套を脱いで男の子に羽織らせました。

 ふわふわの感触に包まれた男の子は驚いたように蒼い瞳を瞬かせる。


「名前を教えてくれませんか?」

「……ゼロ」

「ゼロというのですね。私はブレイラと申します。こっちの子どもはイスラ、あなたと同じくらいだと思います」


 そう言いながら安心させるように笑いかけました。

 ゼロは無言で私とイスラを交互に見ています。言葉少ない無口な子どもですね。少しだけイスラに似ている気がします。

 私はイスラに似ている幼い子どもを放っておけません。


「ここは寒いでしょう? 来なさい、今晩は私と一緒に眠りましょう」

「…………」


 ゼロは無言のまま私をじっと見つめています。

 返事をしてくれません。


「……一人、なんですよね?」


 こくり、ゼロが頷く。

 ならばとゼロを抱き上げました。

 いきなり視界が上がってゼロが目を丸めます。


「ふふ、驚きましたか? あなたは一人のようなので今夜は私が保護します。勝手に決めてごめんなさい。でも、あなたを一人にしておけません」


 今、難民の方々に身内以外の子どもを保護する余裕などありません。

 ならば今夜は私が預かって、身元確認は明日にしましょう。

 ゼロは驚いたように目を丸めていますが、私のローブを握りしめる手は離しません。ぎゅっと丸める小さな拳が愛らしいです。


「行きましょう。こっちですよ」


 天幕に向かって歩きだし、ふとイスラが付いてこないことに気が付きました。

 イスラは私を、いえ、私が抱っこしているゼロをじっと見つめていたのです。


「イスラ、どうしました?」


 声をかけるとイスラがはっとして「なんでもない」と首を横に振る。

 イスラは私の隣に戻ってきましたが、それでもじっとゼロを見上げています。

 私は片腕でゼロを抱っこし、もう片方の手をイスラへ差しだしました。


「ほら、イスラ。手を繋ぎましょう」

「……うん」


 差し出した手をイスラがぎゅっと握りしめてくれる。

 私はゼロを抱っこし、イスラと手を繋いで天幕へ戻りました。




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