六ノ環・冥界の息吹き4
「どうしました? 大丈夫ですか?」
「あ、ご、ごめんなさいっ」
泣いている赤ん坊を気にして少年が立ち去ろうとする。
その姿に胸がぎゅっとなります。
行かせたくありません。私はこのいたいけな少年と話がしたいのです。
「待ってください。少しお話しをしましょう」
「でも」
困惑する少年に笑いかけ、安心させようと膝をついて目線を合わせました。
イスラより少しだけ年上のようです。でもあどけない表情と細い手足は、まだまだ幼い子どものものです。
「抱いてもいいですか?」
「……泣いてるよ?」
「構いません。赤ん坊とは泣くものです」
そう言って私は泣いている赤ん坊を受け取りました。
両腕に抱いた甘い重み。腕にすっぽりと収まってしまうほど小さな赤ん坊に、私の表情が無意識に綻んでいく。
くいくいっとローブの裾が引かれました。イスラです。
赤ん坊を抱いている私をイスラがじっと見上げている。どうやら赤ん坊が見たいようですね。
相変わらず無愛想な表情なのに興味津々の様子に目を細める。赤ん坊をイスラにも見せてあげます。
「ほらイスラ、小さな赤ちゃんです」
「……ないてる」
「まだ赤ん坊ですからね。イスラも赤ん坊の時は泣いていましたよ?」
「オレも?」
「はい。とても大きな声でした」
「いっしょだ」
「そうですね。いっしょです」
「……いいこいいこ、してもいい?」
「いいですよ。優しくしてあげてくださいね」
「わかった」
イスラはごくりと息を飲み、緊張した面持ちでおそるおそる手を伸ばす。
イスラの小さな手が、赤ん坊の小さな額に乗せられる。そして慎重に、優しく、そろそろと動きました。いい子いい子、と。
すると、泣いていた赤ん坊が徐々に泣きやんでいきました。濡れた瞳でじっとイスラを見つめ、にこりっと愛らしく笑う。
その赤ん坊の笑顔にイスラは目を丸め、「わらったぞ」と頬を紅潮させました。
イスラの反応がなんだかおかしくて私も小さく笑ってしまう。
「すごいですね。イスラが優しく撫でてくれたので、赤ん坊も安心したのかもしれません。お兄さんみたいでしたよ?」
「オレ、おにいさん!」
イスラの大きな瞳が輝きました。
お兄さんという言葉がツボだったようです。
「はい、お兄さんみたいでした。上手にできましたね」
「ブレイラがしてるから」
そう言ってイスラが自分の頭を両手で押さえます。
その仕種に口元が綻ぶ。
いい子いい子と撫でると嬉しそうにするイスラが可愛くて、癖のようなものになっていたことに気が付きました。
「ふふふ、そうでしたね」
「そうだ」
イスラは大きく頷いて、「あと、ちゅーも」と照れ臭そうに付け足しました。
そうですね、あなたに初めて口付けた時のことは昨日のように覚えていますよ。あなたの親になると決意した、二人きりの夜でした。
私はイスラに笑んで、泣きやんだ赤ん坊を抱いたまま少年に向き直ります。
「この赤ん坊と一緒に逃げてきたんですか? お父様やお母様は?」
「母さんはちょっと前に病気で死んだ。父さんは強い砂漠の戦士だから……」
「……そうですか」
父親は子どもたちをここに残し、砂漠の戦士として戦っているのですね。
必要な防衛戦だと分かっていても、戦士だと分かっていても、父親にはこの少年の側にいて欲しくなります。
しかし私が何かを口走ってしまう前に、「ブレイラ」とハウストに制止される。振り返ると彼は緩く首を横に振って、私はその制止に頷きました。
部屋を見回すと、この少年以外にも子どもだけで佇んでいる姿が多くあるのです。この少年の父親だけを戦線から戻すことはしてはならない事でした。
でも、このまま何もせずにはいられません。
心細い顔で佇んでいる子どもを放っておくなんて、してはならないことです。
「ゴルゴス、親と一緒にいられない子どもたちを一カ所に集めて保護することはできませんか? その方が子どもたちの安否の把握もしやすいですし、子どもたちも少しは安心するでしょう。これくらいはいいですよね?」
「分かりました。すぐにそのように致します」
ゴルゴスは一礼すると、部下に命令してさっそく動いてくれる。
この少年と赤ん坊も兵士によって安全な場所へ連れて行かれました。
これでひとまず安心です。
でも避難所にいる人々の顔色は暗く、ひどく沈鬱な雰囲気が漂っています。
「人々はひどく疲れているようですね……」
疲れているのは当然のことですが、漂う疲労感に息が詰まりそうです。
しかし人々を見回したハウストが訝しげな顔になる。
「……違うようだ」
「え?」
「疲労だけではなさそうだな。――――なにを隠している」
ハウストが厳しい面差しでゴルゴスを見据えました。
その底冷えするような眼差しにゴルゴスは青褪める。
常人なら震えあがってしまう魔王の威圧と鋭い眼光です。しかし砂漠の戦士としてのプライドと誇りがゴルゴスを支えました。
「……やはり、気付かれてしまいましたか」
「ああ、この部屋に入った時から違和感があった。疲労というよりも、これは……毒だな」
「ええっ?」
毒。その突拍子もない言葉に大きく目を丸めました。
意味が分かりません。
「毒とはどういうことです。ここの人々は毒に侵されているんですか?」
「……はい。混乱するので伏せていますが、毒のようなものに侵されているのは確かです。森の木々が都を襲った時に妙な花の香りがしました。どうやらその香りは微量な毒を含んでいたようで、体の弱い老人や子どもから少しずつ影響が出てきています」
「そんなっ……」
微量な毒は少しずつ人々を侵し、まず老人や子どもが、ついで大人にまで影響が出てくるというのです。このままでは先ほどの少年も、赤ん坊も、ここに避難しているすべての人々も、皆やがて死んでしまう。
「治療はできないんですか?! ここで治療が無理なら、早く人間界に戻らないとっ。イスラやハウストがいればすぐにでも人間界に戻れますよね!」
「……それを実行するわけにはいきません」
「えっ……?」
意味が分かりませんでした。
人々の命が掛かっているというのにゴルゴスはこのままでいるというのです。
訝しむ私たちにゴルゴスは苦渋の顔で続けました。
「もし今アロカサルを人間界に戻せば、冥界が……人間界に繋がってしまうんです」
「それは、いったいどういう……」
言葉が出てきませんでした。
ゴルゴスはいったい何を言っているのか……。
ハウストでさえ驚きを隠し切れず、ゴルゴスを凝視しています。
そんな私たちの反応にゴルゴスは重く頷いて、言葉を絞りだすように話しだす。
「……今回の一件、すべては謀略の中にあったのです。私たちは勇者の宝を守る為にこの異界に転移してきたつもりが、それすらも謀略の中っ。冥界が三界に復活する為に利用されたのですっ……!」
語られた内容は信じ難いものでした。
ゴルゴスは唇を噛み締め、その場に崩れ落ちるようにイスラの前で土下座します。
「勇者様っ、誠に、誠に申し訳ありませんっ! 私どもの迂闊さが全て招いたことでございますっ!! 冥界に利用されているとは気付かず、このようなことにっ……!」
ゴルゴスは震えながら告白しました。
でもその内容は信じ難い。信じたくないです。
「ハウスト、そんなこと有り得るのですか? 都を人間界に戻したら、冥界まで人間界に繋がってしまうなんてっ」
「……有り得ない話ではない。異界から人間界へ都を戻せば一時的に穴が開く。人間数人が行き来するくらいなら問題ないが、都ほどの大きなものなら話しは別だ。抉じ開けてでも人間界と繋がろうとするだろう。人間界と繋がれば、人間界と隣り合っている魔界や精霊界も無関係ではいられない」
ハウストが深刻な顔で言いました。
告げられた事実に愕然とする。
突き付けられた選択は二つ。
このままここで都の人々が死んでしまうか、都の人々を助ける為に冥界が人間界に繋がってしまうか。
でもそんなの選べる筈がありません。選んでいいものではない筈です。
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