Ⅱ・行方不明事件と海賊と5

 次に目覚めたのは夜でした。

 波の音を遠くに聞きながら目を覚ますと、すぐ側にハウストがいてくれました。

 夜の帳が降りた薄暗い中でも、彼がとても心配そうな顔をしているのが分かります。


「ブレイラ、体の調子はどうだ?」

「もう大丈夫ですよ」


 そう言っても彼の顔が晴れることはありません。

 眉間に皺を刻んだ怖い顔をしています。あなた、心配しすぎると怖い顔になるんですね。

 来てくださいと手を伸ばすと、ハウストは私の手を取って側にきてくれました。


「ハウスト、おはようございます。……といっても、こんな時間ですが。私、ずっと眠っていたんですね」

「ああ、夕方ごろに一度目覚めて、それからずっと眠っていた。もう直ぐ夜明けだ」

「そんなに眠ってたんですか? 夜明けが近いなんて、さすがに眠りすぎですね」

「俺はまだ休んでいてほしいくらいだが」

「それは嫌です。これ以上眠ったら頭が痛くなってしまいそうですよ」


 おどけて小さく笑うと、ハウストも少しだけ表情を和らげてくれました。

 よかった、ようやく安心してくれたみたいです。私は怖い思いをしましたが、あなたにも怖い思いをさせてしまったのですね。


「ハウスト、心配おかけしてすみませんでした」

「お前が謝ることじゃない。側にいてやれなくてすまなかった」

「それこそ謝らないでください」

「ブレイラ、思い出したくない事もあるかもしれないが、何があったか話してくれないか? イスラからも聞いているが、お前からも聞きたい」

「分かりました。でもその前に側にきてください」


 そう言って私が自分の隣をポンポン叩くと、「もちろんだ」とハウストは隣にきてくれました。

 クッションに背を預けてベッドに並んで座る。手は指を絡めるように重ね、時折ぎゅっと握ります。するとハウストが優しく目を細め、繋いだ手に口付けてくれました。


「イスラにも聞いていると思いますが、あの洞窟の奥に海賊のアジトがありました。海賊の名は知りませんが船長は赤髪の男です。私より少し年下なんじゃないかと思います。イスラと洞窟にいたら、たまたま鉢合わせてしまって、その、……ちょっと揉めてしまいまして」


 もちろんちょっとどころのレベルではありませんでしたが、その辺の詳細は省きます。今思い出しても屈辱的すぎるので。


「この傷もその時のものだな」

「あ、そういえば」


 頬に触れると、ガーゼが貼られていました。

 大した切り傷ではありませんが、ハウストはひどく痛ましげにこれを見つめています。


「治療してくださったんですね。ありがとうございます」

「触ってもいいか?」

「そんなに気を使ってもらわなくても大丈夫ですよ。痛くないですし、こんなの大した怪我ではありません」

「そういう問題じゃない」


 ハウストはそう言って私の頬にそっと触れます。

 ガーゼ越しに優しく撫でられ、そこに口付けられました。

 そのまま抱き寄せられ、私はハウストの逞しい胸板に両手をおいて身を寄せる。両腕ですっぽりと抱きしめてくれる腕は労わるように優しいものでした。


「医師の見立てでは痕に残らないと言っていたが、それを自分で確認するまでは信じる気はない」

「なに言ってるんですか。こんなの残るわけないじゃないですか」

「そうかもしれない。だが残ろうが残るまいが、そんなのは関係ない。お前が怪我をしたという事実が許せないんだ」

「ハウスト……」


 私は自分の怪我を簡単に考えていましたが、どうやらハウストにとってはそうでないようです。

 それが嬉しくもあり、申し訳なくもある。でもその気持ちが分からなくはありません。私もイスラやハウストが怪我をしたら同じ気持ちになります。


「この傷は必ず治しますね。痕も残しません」

「そうしてくれ。頼むから無茶はしないでくれ」


 ハウストはそう言うと私を抱き締めたまま顔を覗き込んでくる。

 目が合って口付けられ、また強く抱きしめられました。


「お前が浜辺で発見された時、心臓が止まるかと思った……。どんなに呼びかけても何の反応もしなかったんだ。お前もイスラもぼろぼろの姿で、俺は自分が許せなくなった」

「ハウスト、ごめんなさい。ありがとうございます。でも私の為を思ってくれるなら、もう自分を責めないでください。私も今後はもっと気を付けます」


 ハウストの頬に手を伸ばし、今度は私から口付けました。

 ハウストの怒りが私以外のすべてに向けられている。その怒りが切ないのに、同時に愛されている実感も得てしまいます。浅ましいですよね。いけないと分かっていても、愛されている実感は私の胸を歓喜で震わせるのです。


「ハウスト、私は幸せ者ですね」

「こんな怪我をして何を言ってるんだ」

「でも幸せだと思えるんです。だって、あなたがこんなに近い……」


 ぎゅっと抱きつくとハウストも抱き締め返してくれます。

 そして私の頭を何度も撫でてくれました。

 僅かな隙間もないほど抱き締めてくれたまま、ハウストが海賊のことを話しだす。


「お前たちを襲った海賊のことは調べた。どうやらこの海域一帯を縄張りにしているらしい。奴らが襲うのは貿易船や同業の海賊船だけだそうだが、今回は襲う相手を間違えたようだ。一つの失敗が身を滅ぼすということを、身をもって知ってもらおう」


 そう言って私の髪に口付けます。

 口付けは穏やかなのに、背筋がゾクリッと粟立つ。

 どんな方法で身をもって知ってもらうのか、今は聞かないことにしました。


「……そういえば、この海域で行方不明事件が起きていると聞きました。あの海賊が関わっているかもしれませんね。私、危うく売られるところでしたし」

「人身売買の類いは聞いていないが……。売られるだと?」


 不意にハウストが地を這うような低い声で言いました。

 それにビクリッと肩を跳ねさせる。怒ったハウストは怖いのです。


「だ、大丈夫ですよっ、こうして無事に帰ってきているんですからっ! それより、行方不事件が気になります。海賊が絡んでいるかどうかは置いておいて、私、……何かに海に引き摺りこまれたんです」


 そう、私は驚異的ななにかによって海中に引き摺りこまれました。

 あれは人間の力によるものではありません。

 その時のことを思い出し、背筋がゾッとします。

 正直、海賊に襲われた時より恐ろしい体験でした。

 何の前触れもなく、突然海底に引き摺りこまれたのです。抵抗なんて出来ませんでした。自分の身に何が起こったのか今でもよく分かりません。

 ただ、恐怖と混乱に飲み込まれ、気が付いたら意識を失っていたのです。それは途方もない絶望でした。

 思い出してカタカタと震えだした私を、ハウストがきつく抱きしめてくれます。


「もういい、もう話すな。思い出させてすまなかった」

「いいえ、もう、大丈夫です……」


 大丈夫と言いながら、乱れそうになる呼吸を必死で抑えます。

 思い出すだけで震え上がるような体験でしたが、これが何かのヒントになるなら構いませんでした。

 あれほどの恐怖を誰かも味わったのなら、それこそ放っておけることではありません。

 私は捕まっていた時のことを思い出しながら話します。


「……それと海賊のことで、もう一つ気になることがありました。あの船長、名前だけでイスラが勇者だということに気付いたんです」

「それは妙だな」

「ですよね。私もそれが気になって……」


 現在、人間界で勇者が誕生していることを知っているのは王族や一部の権力者だけなのです。それを一介の海賊が知っているのは妙なことでした。


「あ、そういえばハウスト。イスラが呪縛魔法をかけられたんです。外してくれましたか?」


 大丈夫だと思いつつも聞きましたがハウストは黙りこみました。

 予想外の反応にはっと嫌な想像をしてしまう。


「ま、まさかイスラに何かあったんじゃっ」

「大丈夫だ、それはない。呪縛魔法の鎖もちゃんと外した。……だが、魔力封じの呪縛は解いていない」

「え、どうしてですか?」


 聞き返した私にハウストは困ったように目を彷徨わせましたが、少しして観念したように話しだす。


「今回の件はイスラにも責任がある。お前の制止を振り切り、無茶をしたのは自分の力を過信したからだ。だから、しばらく魔力を封じたままでいようと思ってな」

「そうですか、それなら仕方ないですね」

「……怒らないのか?」


 ハウストが意外そうに私を見てきました。

 私が怒る? どうして私が怒らなければならないのでしょうか。


「あなたもイスラの為に考えがあるのでしょう? お任せします」

「そうか……。いや、怒ると思っていたから」


 またハウストが意外そうにします。

 どうやら私が怒ると思っていたようです。

 ……どうして私が怒るのです。怒ると思われていたことを怒りそうですよ?


「バカですね、怒りませんよ。私はあなたを信じています」

「ブレイラっ」


 ハウストが嬉しそうに破顔しました。

 この夜、初めて見たハウストの笑顔です。

 その顔に私も嬉しくなって、安心して、彼の頬にそっと口付けました。

 すると近い距離で彼と目が合い、互いに笑いあう。


「あ、でもそんなにイスラを怒らないであげてくださいね? 厳しくするのはいいんですが、ああ見えて繊細なところもあって」

「……分かっている。心配するな」


 ハウストは苦笑して言うと、宥めるような口付けをしてくれました。

 何度も啄むような口付けをされ、そのままゆっくりとベッドに押し倒されます。


「もう少し休んでいろ。眠れなければ横になっているだけでいい」


 ハウストは私の体を労わってくれました。

 嬉しいです。嬉しいですが、ただベッドでごろごろしているのは退屈です。


「……眠り過ぎたので、横になっているだけで疲れそうです」

「子どもみたいなことを言うな」

「子どもではありません」


 そう言いつつも彼に手を伸ばしてぎゅっとしがみ付く。

 今夜は一人でいたくありません。

 一人でいると、海に引き摺りこまれた恐怖と絶望感が甦ってきそうなんです。


「……それなら、ハウストもここにいてください」

「ああ、分かった」


 ハウストに優しく抱き締められました。

 それだけで安堵が胸一杯に広がって、絶望や恐怖の記憶が少しずつ薄れていきます。

 たくさん眠っていたので眠れないと思っていましたが、気が付けば睡魔に誘われるまま朝までぐっすり眠っていました。





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