殺虫剤

あべせい

殺虫剤



「もしもし、このドアを開けていただけませんか。もしもし……」

 スーツを着た30代半ばの男性が、一軒の家の前で、声を嗄らしている。

 しかし、家の中からは、何の反応もない。

「奥さん、少しだけ、私の話を聞いてください」

 その家は、幅4メートル、長さ20数mの私道を囲むように建っている6軒の建売住宅の1つだ。私道の最も奥まったところにある。

 すると、近所の主婦2人が男性の背後に現れ、不安そうに顔を見合わす。男性はその気配で主婦を振り返った。

「お留守でしょうか? こちら……」

 表札を見ると「茶地」とある。「さち」と読むようだ。

「いたわよ。わたし、いつもの、見たもの。ねェ」

 年配の主婦が、もう一人の若い主婦に相槌を求める。

「エエ。いつものあれを、していたもの。それからは、出かけたようすはなかったから」

 いずれも、声は低い。中に聞こえないように用心しているのだ。

 男性は、

「ありがとうございます」

 後ろの主婦2人に礼を言ってから、

「茶地さん、わたしで用が足りないことになりますと、後は警察が来ます。すると、もっともっと、おおごとになりますが……」

 すると、いきなり勢いよくドアが開いた。

「ナニよ、脅かそう、って言うの!」

 男性に向かって鋭い口調で叫んだ。

 男性はびっくりした。その声に、ではない。美形に、だ。

 女性は20代後半だが、女優でいえば、高島礼子似の美女。

「失礼いたしました。お留守だと思ったものですから。お許しください」

 男性は明らかに矛盾したことを言っているが、茶地家の主婦、茶地沙耶(さちさや)は、男性を見て、急に表情をやわらげた。

「どうぞ、狭苦しいところですが、お入りください」

 男性は、沙耶の突然の変化に戸惑いながらも、

「失礼します」

 と言って、ドアをくぐった。

 中は、玄関といっても、半畳に満たない沓脱ぎ場があり、右横に小さな靴箱がしつらえてある。

 この私道を囲む6軒は、すべてこれに似たつくりになっている。間取りは3DK。

 下に台所と食堂、浴室に6畳の和室、2階には4畳半と6畳の洋室がある。

 男性は1階の、入ってすぐ左の和室に通された。

 中央に座卓があり、角にテレビ、壁沿いにベンチチェストが二つ並べて置かれている。

 しかし、殺風景だ。それは、壁に絵などが掛けられていないせいなのか。

 ベンチチェストの上には、テレビ以外、何も置かれていない。この家の住人は、部屋を飾り付けるのが嫌いらしい。

 座卓を見ると、私道に面する窓を背にした位置にだけ、座布団が敷かれている。沙耶はすぐに台所に消えたため、男性は戸惑ったが、座布団の上に腰を降ろした。

 窓からの明かりを背にすることになり、対面する相手には、男性の顔の表情が見えづらい。沙耶はそれでも気にならないのだろうか。

 男性は、座布団に腰を降ろす際、私道に面した吐き出しのガラス窓を通して、私道で話をしている2人の主婦の姿が目に入った。

 窓ガラスは上半分だけが透明ガラスになっているため、私道のようすはよく見える。恐らく、沙耶はここからおれの姿を見ていたのだろう。男性はそう納得した。

「ごめんなさい。おひとりにして。どうぞ……」

 沙耶はそう言って現れると、男性の前にかぐわしい香りを放つコーヒーを差し出した。

 コーヒーの器は備前焼。沙耶は男性の向かい側ではなく、直角の位置に座り、自分用のコーヒーを前に置いた。この位置なら、男性の表情が窺える。

 沙耶が男性を歓待したのにはわけがある。決して、彼が、好みのタイプだったせいではない。

 行方がわからない、出来の悪い兄に男性が似ていたからに過ぎない。といっても、沙耶にとって、好きな兄だったわけではない。むしろ嫌いだった。だから、兄と腹を割って話したことがない。沙耶にとっては大切な母を置き去りにして、行方をくらました兄だ。

 しかし、小さい頃は、近所の悪がきから沙耶をかばって助けてくれたことがよくあった。そんな心遣いの出来る兄だから……。

「まだ、あんなところで……」

 沙耶はそう言い、再び起ちあがると、男性の後ろにまわり、レースのカーテンを勢いよく引いた。

 それがきっかけになったのか。私道にたむろしていた2人の主婦は、それぞれの家の中に消えた。

「失礼しました。私は、こういう者です」

 男性は用意してきた名刺を沙耶の前に差し出した。

 名刺には、役所の名前に続き、「生活改善課 泉貝朝志(いずみかいあさし)」とある。

「泉貝さん……ご用件は何でしょうか?」

 沙耶はやさしいことば遣いで尋ねる。

 朝志は、ふと疑問を感じた。こどもの気配がないことに。

 沙耶の年齢は、見た目では、20代後半。この家でひとり住まいしているのだろうか。朝志は、迂闊にも住民票を見て来なかったことを悔やんだ。

 彼は、彼女には夫がいて、こどもがいるものとばかり思いこんでいた。

「実は、ご近所から……」

 すると、沙耶は朝志のことばを横取りするように、

「スプレーでしょう。殺虫用のスプレーを、ところかまわず撒き散らす、って。そうでしょう?」

 朝志は、彼女の表情が穏やかなことに不思議な思いがした。自分に非がないのなら、腹を立て、役所からきた人間に対して食って掛かる。いままで、そういう例はたくさん経験してきた。それなのに、この女性は……。

 分別がある。バカではない。ことこまかく話せばわかってくれる。朝志はそう思い直すと、肩の荷が下りる気がした。

「実は、そうなンです。このいう案件の場合、周りの方々の反応が、過剰だったり、異常だったりすることが多いものですから。一度実情を拝見しようと思い、こうしてお伺いした次第です。お忙しいところ、お時間をいただきまして、誠に申しわけなく思っております」

「それだけ、でしょうか?」

 朝志としては思いつく限り、丁寧に話したつもりだ。

 ところが、沙耶は、理解出来ないというような、戸惑った表情をした。

「泉貝さまにそのお話が伝わったの、いつの頃でしょうか?」

「伝わる、ですか?」

 朝志は妙なことばを遣う女性だと思いながらも、

「ちょうど1週間前のきょう、金曜日ですが……」

「そうでしょう。もう1週間もたっている……」

 役所の対応は遅い。書類にして上司の許可を取り付けたり、他の仕事との日程の調整に時間がかかる。それで、ようやくきょうになった。遅くなったことに対して、苦情を言われても仕方がない。

「遅くなりまして申し訳なく感じております。これでも、他のクレームを後回しにして、こちらを最優先にさせていただいております」

「最優先!?」

「いいえ、そうではなくて……」

 朝志は慌てて否定した。最優先にして欲しいと思っているのは、近所の連中だ。彼女ではない。

「出来るだけ、早く対応させていただきたいと考えている次第です。お気を悪くなさいましたら、お詫びいたします。どうか、お許しください」

 朝志は、前の卓に付くほど、深く頭を下げた。

「いいンですよ。そんなに気を遣われなくても。わたしは、近所の嫌われ者です」

「はァ……」

 朝志は、彼女の内面に触れたような気がした。

「ここに戻ってきてから、ご近所づきあいはしていません。わたしをよく言うひとは、ご近所にはおられないはずです」

 沙耶は、当然のように話す。

「失礼ですが、いま戻って来たとおっしゃいましたね」

「先月」

 どういうことだ。先月なら、転入届もまだ出していないかも知れない。この家は、だれの家だ。それとも、彼女が来るまで、空き家だったのか。

「紗耶さん」

「はい」

「お名前は、ご近所の方からお聞きしました。ご了承ください」

 実際、役所に訴えにきた主婦が、「苦情処理申請書」に記した、加害女性の名前がそうだった。

「紗耶さんは、この家でお生まれになったのですか?」

「2年前まで、この家で母と暮らしていました」

「お母さまと……」

「母は、いま、介護施設に入っています」

「お母さまはそれまで、こちらにひとりでお暮らしだったのですか?」

「元気だったものですから。まだ58才です。まさか重度の認知症だったとは気がつかなくて……」

「それでお母さまは介護施設にお入りになった。それでここが空き家になった……」

 沙耶は、頷く。

「わたしの兄が面倒をみるのがたいへんだから施設に入れると言って。ですから、わたしがここに越してきたのです。ただ、ここにきた当座は、家の中も外も、掃除をしていなかったせいか、汚くて、いろんな虫がうようよいて。それはそれは、気味が悪く、どうしようもないありさまでした。ですから……」

 朝志が、沙耶のことばを引き取るようにして、

「殺虫剤や殺菌剤をお使いになった。ということでしょうか?」

 と、言った。

 沙耶が再び大きく頷く。

 これがどうして問題になるのだ。近所の主婦連中が、尾ひれをつけて、大げさに騒いでいるだけではないのか。

「ご近所のお話ですと、沙耶さんが、家の外回りに、やたらと殺虫剤入りのスプレーを噴霧なさると。そのスプレーの臭気で気持ちが悪くなる。そのスプレー噴射をやめさせていただきたい、というクレームを受け付けた次第です」

「泉貝さん、わたし、ここにきてまだ2週間です。この家を清潔にするには、最低、1ヵ月はかかると思っています。家の中のごみを片付け、家の周囲の草むしりから、ごみ拾い。そして虫退治に殺菌。ご理解いただけますでしょう?」

「それはもォ。おっしゃる通りです。では、あと2週間ほどで終わると考えてよろしいでしょうか?」

「そのつもりでいます」

 朝志はそのことばを聞いて、この案件は片がついたと思った。そして、改めて、沙耶の美しい笑顔を見た。

「沙耶さん、お母さまはお元気ですか?」

 沙耶の表情が、そのとき初めてかげった。

「それが、兄の話では、すぐに会っても、おまえの顔を覚えていない。だから、この家に母を引き取り、おまえが世話をすれば、きっと認知症もよくなる。そのためにも、この家を早くきれいにして、母に施設から帰ってきてもらったほうがいい、と申すものですから」

「お兄さまは、いまどちらに?」

「それが、ちょっと複雑な事情がありまして、兄は母を施設に預けてから、出かけています。ですから、わたしが戻ってきたのです」

 筋道は通っている。これ以上、立ち入るのは、例え役所の人間でも許されないだろう。しかし、ぜひ聞いておきたいことがある。

「沙耶さん、お子さまは?」

 沙耶の目に緊張が走った。

「わたし、独身です。正直に申しますと、離婚したばかりです。前の夫は、わたしがこの家に戻ることに反対したものですから……」

「それだけでお別れになったのですか?」

 ぶしつけな質問だ。例え、役所の人間でも、余計なお世話だ。朝志は口に出してからそう思ったが、聞かずにいられない。

 朝志自身、結婚3年目で家庭内別居状態にある。食事も寝室も別、こどもは2才の娘がひとりいるが、専業主婦の妻が、父親に対して朝の挨拶さえ、させようとしない。

「幸いというか、こどもはいなかったものですから。それに前々から、夫のだらしない生活態度に耐えられなかったのです」

「ご結婚は、いつ?」

 これも余計な質問だ。しかし、沙耶は、なぜか迷惑そうな顔をしない。

「結婚して2年でした。もっと早く、夫の性癖に気がつくべきだったのかも知れませんが、スポーツマンだった夫の走る姿に憧れて、結婚してしまいました」

 沙耶は、当時を懐かしむように話す。

 朝志は職場結婚だった。

 朝志の妻は、どんなときでもてきぱきと処理する、朝志の仕事ぶりに惚れたと言った。

 朝志は、妻の肉体に溺れた。しかし、やがて妻は、夫の朝志がとんでもない面倒くさがり屋であることを知った。

 物を片付けない。出した物は、そのままにしておく。脱いだものは脱ぎっぱなし。何度言っても、汚れ物を洗濯カゴに入れることすらしない。

 朝志の部屋の中は、ちらかり放題。机や椅子、家具調度類は、雑誌や本、衣類、DVDをはじめとするオーディオ製品などの置き場と化した。

 しかし、朝志自身はそれで困っているようすはなく、それが自然だと思っている。このため、ケンカが絶えない。妻はついに愛想を尽かし、家庭内別居の道を選んだ。しかし、それでも、朝志はいまだに妻の気持ちが理解できないでいる。

 部屋が散らかっていても、死ぬわけではない。朝志はそういう男だった。

「価値観の相違というやつですね。私の場合も……」

 言いかけて、朝志は口をつぐんだ。

 こんな美女を口説いても、所詮おれは同じ道を辿るだろう。おれは、おれのようにだらしない女性が相手なら、うまくいくかもしれないが。いや、おれは、女房がおれのようなだらしない女だったら、おれは自分のことを棚に上げて、きっと腹を立てるに違いない。

「泉貝さんのご家庭は、いかがですか。ご円満ですか?」

 紗耶が微笑みを浮かべて尋ねる。こんなとき、「はい」とウソを付くことがいいことなのか。正直に言うべきなのだろうか。

「世間並みです」

 朝志はそう言って、苦笑いしながら、人差し指で鼻の下をかいた。彼が鼻の下をかくのは、ウソをついたときだ。


 1ヵ月後、紗耶が消えた。

 彼女の殺虫剤スプレー噴霧の問題解決を、役所に依頼した同じ主婦が、

「異臭がする」

 と、こんどは警察に通報したのがきっかけだった。

 季節は秋。最初は、近所の交番警官が駆けつけた。続いて、パトカーが出動する騒ぎになった。

 玄関ドアをいくら叩いても応答がない。中には沙耶がいるはず。しかし、昼間なのに、すべての窓がシャッター式の雨戸で覆われ、中のようすは全くわからない。

 しかし、異臭はする。どんなに嗅覚の鈍い人間にもわかる、あの臭いだ。

 パトカーで来た警官の1人が、玄関ドアを打ち破ることを決断し、ドアノブに手を掛けた。すると、ドアノブはスッと回り、ドアが開いた。

 ドアは施錠されていなかった。おバカな警官と言えるが、

「茶地さん。おられますか。お邪魔しますよ」

 交番の巡査をどんじりに、3名の警官が丁寧に編み上げ靴を脱いで狭い玄関を上がる。

 3人は異臭がする方向に、そろそろと進ンだ。

 廊下のすぐ左手が和室。が、襖は閉まっている。

 異臭は廊下の奥だ。廊下を挟み、和室の反対側にはトイレがある。

 廊下の先は、アコーディオンカーテンで仕切られている。先頭を行く警官がそのカーテンを開けた。

 警官の足が止まった。

 そこは食堂と台所。いわゆるDKだが、細長いテーブルがあり、3脚ある椅子の一つに人がひとり、腰高の窓に向かって後ろ向きに腰掛けている。

 崩れた姿勢や髪の毛の色から、初老の人間、それも女性であることは、見て取れる。

 しかし、顔を見なくてはならない。警官は、

「茶地さん、茶地さん……」

 何度も呼びかけるが、反応がない。もう、決まりだ。

 異臭に、無反応。警官は、後ろにいるもうひとりの警官を誘い、一緒に女性の前に回った。

 それは、沙耶の母だった。死後、1ヶ月以上経過した、遺体……。


 朝志は、テレビのニュースで、沙耶の母の遺体が発見されたことを知った。年金課で尋ねると、沙耶の母の年金はまだ支払われている。死亡届が出ていないのだから当然だが、そのことで年金課は大騒ぎになっている。

 年金の不正取得。沙耶はそんなことのために、亡くなった母を埋葬せず、毎日、殺虫スプレーを家の周囲に撒き散らしていたのだろうか。

 朝志は、再び茶地家を訪れた。

 警察は、参考人として沙耶の行方を追っている。沙耶の家の前には、警察官が立ち、玄関ドアには、立ち入り禁止を示す黄色い幅広のテープが張られている。

 沙耶の母の遺体が発見されて、5日がたっていた。

 朝志が役所に戻ると、机上の電話が鳴った。

「わたしです。沙耶です」

 ささやくような、それでいて美しい、耳障りのいい響きだ。

 朝志は、驚いて周りを見渡した。朝志は係長だが、机は6卓並びのいちばん端、すなわち課長席の目の前にある。

「いまから言う番号に掛けなおしてください」

 朝志は、小声でそう告げると、「煙草を吸ってきます」と言い、屋上に駆け上がった。

 沙耶に渡した名刺には、机上の直通電話が記してあるが、携帯電話の番号までは記載していない。

 幸い、屋上に人影はない。時刻は午後4時を過ぎている。

 朝志は、いまはもう流行らない携帯電話を手に持ち、着信音が鳴るのを待った。すると、

「朝志さん」

 小さな声がする。朝志が驚いて振り返ると、沙耶が屋上の貯水タンクの陰から、あの美しい顔とともに現れた。

「そこに、おられたのですか?」

「ここからお電話しました。直接お会いしてお話をしたほうがいいと思って。ここまで来たのですが、いざとなると勇気がなくて、お電話しました。わたしはいま、犯罪者になっていますから……」

「お母さまが施設にお入りになったから、沙耶さんは実家に戻られたとお聞きしましたが、そうではなかったのですか?」

 朝志は、我ながら、聞きにくいことをよくゾ聞いたと驚いた。そんな度胸がどこにあったのか、と。

「母はあの家で、兄と暮らしていました。兄は、手が付けられない放蕩者で、高校を中退後は、密かに大麻を栽培し、密売をして暮らしを立てていました。しかし、1年もしないうちに警察に逮捕され、2年間刑務所にいました。刑務所を出てからは、実家に戻り母と暮らしていたのですが、収入は母のわずかな年金だけ。そこで、兄はネットで物品を注文してはお金を払わずに転売する詐欺を思いつき、電化製品を中心に、次々に注文したそうです。このため、毎日のように宅配業者がやってきて、大きな家電製品を置いていきます。母はわけがわからず、兄に尋ねましたが、兄は『頼まれたのだ』と言って、レンタカーにその家電を積み、どこかに持って行きます。これはあとでわかったことですが、兄は都内中の質屋をその都度変え、お金に換えていたそうです。しかし、こんなことがいつまでも続くわけがありません。兄は母の名前で、家電を買っていたため、母宛てに請求書が次々に送られてきて、母がついに兄の所業を知ることになりました。

 兄は怒り、『おれをこんなにしたのは、オヤジだ。おれはオヤジの後を追っているだけだ』と叫び、母を足蹴にしました。母はそれがもとで、足腰を痛め、寝込み、結局兄には手が負えなくなり、施設にお願いしたそうです」

 沙耶の父は、生来のギャンブラーだった。特に競輪に目がなく、家庭を顧みることなく、競輪選手を追って全国を飛び回った。沙耶の母はパート勤めで2人のこどもを育てたが、兄は父親に似て遊びほうけ、学校の成績は下の下。しかし、妹の沙耶は、父を反面教師として生真面目に勉学に励んだ。その結果、奨学金を使い、国立大学の薬学部に進学、薬剤師になることができた。

 しかし、沙耶は結婚に失敗した。彼女の夫となった男は、父や兄とよく似たギャンブル好きだった。そのうえ、不潔で、衛生観念に乏しかった。彼は商社に勤務していたが、会社の金をギャンブルに使い、解雇された。沙耶はそれをきっかけに離婚を決意、母が施設に入ったことを兄から知らされ、実家に戻った。

「家の中がようやく片付いたものですから、兄に教えられた施設に行きました。すると、施設では、そういう老人は預かっていない、と言います。兄はウソをついていたのです。わたくしも、迂闊でした。兄は、すでに家を出て行方知れず。わたしは、どうすればいいのかわからず、パート勤めをしながら、兄からの連絡を待っていました。ところが、そのうち、妙な臭いがすることに気が付きました。それでゴキブリの類でも死んでいるのでは思い、殺虫剤のスプレーを噴霧するようにしました。しかし、事実はそうではなかったのです。異臭の原因は母の遺体です。

 わたしはクローゼットの中から、衣装ケースに密封されていた母の遺体を見つけました。不思議と涙は出ませんでした。心のどこかで、母は亡くなっているという諦めがあったのでしょう。わたしは、わたしが帰宅したとき母が好んでいつも腰掛けていた食堂の椅子に、母を座らせました。

 そのときのわたくしには、どうすればいいのか、全くいい知恵が浮かびませんでした。とにかく、家を出て、これからのことを考えよう。

 遠くの、西のほうのある小さな町の小さな食堂で働きながら、母のことを思いました。母の遺体が見つかってからは、毎日が怖くて。そんなとき、あなたのことを思い出しました。

 朝志さん、あなたなら、こんなわたしをなんとかしてくださるのではないか、と勝手なことを考え、こうして、こちらにうかがい、お電話した次第です」

 朝志は考えた。沙耶の罪は、何だろうか。沙耶の話がすべて本当だとして、母の遺体を放置したのだから、死体遺棄罪が成立するだろう。しかし、それ以上の罪になるだろうか。

 彼女の母親を死に至らしめたのは、彼女の兄だ。足で蹴り、恐らく頭部など当たり所が悪く、死亡する原因になったのだろう。

「沙耶さん。私に何か出来ることがありますか?」

 彼女を匿えば、犯罪者の逃亡幇助になる。この役所を追われるだろう。家庭内別居の妻は、これ幸いと離婚を要求するだろう。

 我が家の家屋は妻との共同名義だから、私が家を出るはめになるだろう。

 朝志は、そのリスクを冒してまで、彼女にかかわらなければならない理由を考えた。

 紗耶は、近所の住人からの苦情を処理するために出かけた先で出会った、いわば加害者。朝志は小役人に過ぎない。しかし、役所で辛抱していれば、例え離婚が成立しても、一生食い扶持には困らない。かわいそうだが、彼女にはそれだけの人生だったのだと諦めてもらうしかない。

 朝志はそう結論を出して、改めて目の前の彼女を見た。30才が目前だというのに、優しい笑顔とセクシーな体つきをしている。男なら……。

 すると、沙耶がいきなり、朝志に抱きついてきた。

「朝志さん、怖い。わたし、怖い。助けて……」

 朝志は、女性にもてた経験がない。まして、女性から抱きつかれるなど、これまで一度もなかった。

「沙耶さん、待ってください」

 そう言いながら、朝志は彼女の体を抱きとめていた。彼女の胸のふくらみを感じとっていた。

 それは得も言われぬ心地よさだ。その瞬間、朝志は、時と場所を喪失した。

 いいじゃないか。たった一度の人生だ。おれには女房もこどももいる。離婚すればすっきりする。沙耶との再婚なンて野暮なことは考えるな。飽きるまで一緒に暮らせばいい。

 仕事? まだ30代だ。どこか、遠くの地方に行って、畑を借り、ひっそりと田舎暮らしをしてもいい。

 窮鳥懐に入らずんば、猟師これを撃たず、と言うではないか。まして、沙耶は美女だ。おれには勿体なさ過ぎる女だ。この機会を逃せば、あとできっと後悔する。

 朝志は、即座に決断した。


 しかし。

 沙耶の兄が警察に出頭して、母を死なせたことを告白した。沙耶の兄、茶地大志(さちたいし)は、母を足蹴にしたことは認めたが、殺意があってのことではないと供述した。

 母の倒れた場所がたまたま座卓の角だったため、昏倒したというのだ。気絶した程度だから、放っておいても平気だろうと考え、家を出たという。しかし、その後、沙耶の母は、気が付いたのち、脳内出血で死亡している。

 裁判では、大志の供述の真偽が争われるだろう。朝志は、沙耶のために、彼の自宅から車で5分ほどのところに1Kのアパートを借りた。

 沙耶は離婚した際の慰謝料を持っていて、当分の間、生活には困らない。しかし、警察が彼女の行方を追うことを諦めたわけではない。少なくとも、大志の裁判が終わるまでは、出歩くことは避けたほうがいい。

 朝志は沙耶にそう言って、週に1度彼女のアパートに泊まりに行った。妻は、薄々感じ取っている。しかし、家庭内別居をしている関係上、表立っては言えない。

 朝志は、家庭のパソコンで出来る、役所の下請け仕事を沙耶に回し、彼女の収入源を作った。

 大志の裁判は、半年で結審する。あと数ヵ月の辛抱だ。そうなれば、妻と正式に離婚して、沙耶と一緒に暮らそう。朝志はそのように計画を立てている。

 しかし、そんなにうまくいくだろうか。

 沙耶は考えている。警察の眼が気にならなくなったら、どこか遠くに行き、ひとりで暮らそう。泉貝朝志には親切にしてもらったが、所詮その程度の関係だ。とても好きになれる男ではない。

 だらしない男は、わたしの好みじゃない。こどもができないように気をつけて、ある日突然いなくなる。わたしには、そういう生き方が合っている……。

                (了)

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