二話 彼女がつくった悩み事

 ハープのような、優しく美しい声。

 しかし、その声はさっきの声とは違っていた。

 まるで弦を指で思い切り弾いたような力強い声は、俺の心を深々と貫いた。


 こうなるとは正直思っていなかった。

 当たり前だ。

 こんなの、予想がつく方がおかしい。

 そして、彼女がこんな大胆な人だとも思っていなかった。

 ……完全に迂闊だった。

 いきなり告白を受けた俺は、その突飛な状況が怖くなってしまって、気付けば逃げるように足を動かしていた。


「あっ、ちょっと! 待って!」


 に制止をかけられるが、俺はその声すらも怖くなってしまった。


 ……トラウマが追いかけてくる。

 そう考えてしまっただけで、鳥肌が立つ。


 だから俺は今まで誰とも関わってこなかったんだ。

 関わってしまったら、いずれこうなってしまうのを危惧していたから。


 ただ斎藤さんに話しかけただけで、どうしてこうなってしまうんだよ。

 どうして俺は、彼女に話しかけちまったんだよ――


 俺は彼女が追ってくる音を背に受けながら、彼女から逃げた。



         ◆



「――なんで追ってくるんだよ!」


 恐怖に耐えきれなくなった俺は、斎藤さんを突き放すために声を上げた。

 俺が突然立ち止まって叫んだからか、彼女は身体を大きく一回震わせて立ち止まる。


「俺は、斎藤さんと付き合えない。付き合えないんだ。無理なんだよ」


 まくし立てるように言葉を吐き出すと、斎藤さんから視線を外す。

 早くこの状況から逃げたかった俺は、彼女が諦めてくれるのを信じながら、次の言葉を必死に探していた。


「……どうして無理なのか、教えてくれたり、する?」


 ふと、斎藤さんの震えた声が気にかかって、俺は彼女へと視線を戻す。


 彼女の顔は、今にも崩れてしまいそうだった。

 まゆをひそめ、瞳は涙を溜めてキラキラと光っている。

 そんな彼女を目の当たりにして、俺の心は締め付けられた。


 最低だ。


 俺は自分のことばかり考えていて、斎藤さんのことなんか考えちゃいなかった。

 彼女が俺に言葉を浴びせられてどう思っているのなんか傍から見たら明白だっただろうに、俺はそのことにすら気づかず、彼女から逃げたいがためにひどい言葉を彼女に浴びせた。

 俺に告白をするのだって、勇気がいることだ。

 なのに、俺はその勇気を踏みにじってしまった。

 自分の行動に、今更ながら強い後悔を抱く。


「斎藤さんは魅力的な女の子だと思う。目を奪われるほどに可愛いし、運動神経も抜群、頭だって良い。……でも、申し訳ないけどそれじゃあ俺が斎藤さんのことを好きになる理由にはならないんだ」

「……そっか。そうだよね」


 斎藤さんの目尻から零れ落ちるものに、今の俺は目を向けることが出来なかった。

 俺がもっと強かったらこんなことにはならなかったし、何より彼女を傷つけることなんてなかった。

 罪悪感が心を蝕んでいく。


「俺は斎藤さんにひどい言葉を浴びせた。最低な奴だ。本当にごめん」

「ううん、気にしないで。貴方のことをちゃんと考えていなかった私にも責任はあるから。だから貴方はさっきあんなことを言ったんでしょ?」

「そんなこと――」

「いいの。私が告白をしなければ、こんなことにはなっていなかった。自分の心を優先してしまったから、貴方の気持ちに気付けなかったから、私は貴方を苦しめてしまった」

「――っ!」


 斎藤さんは俺の言葉を遮って自分を咎めてしまうが、それ以上に俺は彼女が発した「苦しめてしまった」というワードが気にかかってしまった。


「……どうして、苦しめてしまったって、分かったんだ?」


 俺は探り探りに訊ねると、彼女は微笑を浮かべて言った。


「だって――貴方の顔が、苦しそうな顔をしていたから」

「俺が……苦しそうな顔を、していた?」

「そうさせたのは全部私の責任。本当にごめんなさい」


 斎藤さんは申し訳なさそうな顔を浮かべて謝ってきた。


 やめてくれ。

 斎藤さんが謝ることじゃない。

 俺の気持ちに気付けないのだって当たり前のことなんだ。

 悪いのは全部俺なんだ。

 斎藤さんが気に追う必要なんてこれっぽっちもない。

 だから、謝らないでくれ。


 全て吐き出せることが出来れば済むことなのに、何故か俺の口から声から言葉が出てくることはなかった。

 代わりに聞こえてきたのは、斎藤さんの声だった。


「――でも、私はこの気持ちを諦めたくない。折角関わるチャンスが出来たのに、このまま終わるなんて絶対に嫌だ。」

「だけど――」

「だから私は……!」


 斎藤さんは俺の声を遮ってそう言葉を置くと、瞳に決して揺るがない決意を浮かばせる。


 そうして言った。

 俺たちのこれからを変えるような一言を。


「私は――貴方を惚れさせる」



         ◆



「――ただいま」


 玄関の扉をゆっくりと閉めた俺はため息をつく。

 俺の頭には、先程の斎藤さんの言葉が反芻していた。


「俺を惚れさせる……か」


 まるで宣戦布告のように言い放った斎藤さんの姿が、脳裏に焼き付いている。

 頬を涙で濡らし、真剣な表情で言い放つ彼女から、強い覚悟と勇気と決意が感じられた。

 その雰囲気に圧倒されてしまって、俺は思わず彼女の宣戦布告を受け入れてしまったわけなのだが……いや、これは俺が都合よく取って付けた理由か。


 正直なことを言うと、俺はもう辛かった。

 俺だって普通の恋愛くらいしたいのに、トラウマの存在がその欲望を抑えつける。

 俺は、高校に入ってから今まで、他人とまともに口を聞いてこなかった。

 他人と変に関係を持ってしまったら、そのトラウマが蘇ることに恐怖を感じて。


 ……俺は、もう普通に周りと関わってもいいのだろうか?

 は、それを許してくれるだろうか?

 ……いや、許す許さない以前に、俺はもう大事な人が消えることが嫌なんだ。

 もう消えてほしくないんだ。

 だから俺は、彼女の誘惑を振り切らないといけない。


 分かってる、分かってるけど……


 俺は靴も脱がずに突っ立って悶々としていると、後ろから扉の開く音がした。

 俺は音につられて後ろを振り返る。


「ただいま――って、うおっ!?」

「おあっ!?」


 扉から現れた人物が出した驚きの声に、俺まで驚いてしまった。


「……なんでそんなところに突っ立ってるんだ?」

「あぁ、いろいろと考え事をしていたんですよ。それよりも――」


 俺は適当に誤魔化すと、目の前の人物に向けて言った。


「――おかえりなさい。



         ◆



「――んで、なんかあったのか?」


 家の中に入り一段落すると、白井先生はソファに腰掛けながら俺に聞いてきた。


「何がですか?」

「いろいろと考え事してたんだろ?なんか悩み事でも出来たのか?」

「……悩み事があるように見えました?」


 図星を言い当てられ、俺は軽く言い淀む。


「あぁ。お前の顔、暗かったからな。今だって、笑い方がぎこちないぞ」

「……俺って、そんなに顔に出てますかね」


 全てを見透かされていることに恥ずかしさを覚えて、俺は白井先生から視線を外した。


「昔からだよ。なんだ? お前、今更になって気づいたのか?」

「しょうがないじゃないですか。自分の顔なんて、鏡でも見ない限りどうなってるか分からないですよ」

「ちょっとぐらいは分からないか?」

「分かりませんよ」

「分かりそうな気もするけどなぁ……というか、そんな話はどうでもいいんだよ」


 チッ……上手く話題を逸らせたと思ったのに。

 俺は内心で静かに舌打ちをする。


「独りで抱え込むのはよくないぞ、お前の悪い癖だ。頼れるときは頼ったほうがいい。俺も、いつまでお前のそばに入れるか分からないからな」

「…………」


 俺は、白井先生の言葉に無言を返す。

 先生は、やはりずるい。

 普段はひょうきんな性格なのに、こういうときだけ優しくしてくるから。

 そのギャップのせいで、余計に先生のことを頼りたくなってしまう。

 俺は悩んだ末、先生の言葉に甘えることにした。


 俺が頼れるのは、この世界で唯一この人だけなのだから。


「……斎藤さんに、告られたんですよ」

「…………」


 俺がまず事実だけを端的に伝えると、白井先生の動きが止まった。

 俺が先生の様子に訝しんでいると、やがて先生はゆっくりと口を開く。


「お前が……斎藤に?」

「……何かおかしいことでも?」


 白井先生を睨みつけながら俺は言う。


「いや、別に何も……ごめん。今のは俺が悪かったな」

「俺がそういう男じゃないことは、俺が一番良く知っています。だけど謝るのはやめてください。そういう男じゃないって遠回しに言われているようで、なんか傷付きます」


 白井先生の表情は完全に「えっ? お前みたいな陰キャが斎藤なんかに告られたのか?」とでも言いたそうな顔だった。


 俺は休み時間中に寝ているフリをしている程には陰キャだ。

 故に、先生がそう言いたいのも分かる。

 俺は普通、斎藤さんに告られるような男じゃないのだ。

 面識だって、今日会話するまで全くと言って良い程なかった。


 ……じゃあ、なんで斎藤さんは俺に告白をしてきたのだろう。

 不意にそんな疑問にたどり着いた俺は、明日にでも彼女に聞いてみようと、そう頭の中で結論付けるのだった。

 あの感じだったら、明日も関わりそうな気がするしな。


「すまない。まぁ、だいたいお前の言いたいことは分かったよ」

「流石、一年一緒に生活していただけのことはありますね」


 俺と白井先生は、訳あって一年前から一緒に生活することになった。

 俺が高校生に上がるのと同時に、先生が俺の家に来てくれたのだ。

 先生がいてくれるお陰で、今俺は何不自由ない生活を送ることができている。


「当たり前だ。一年も一緒に生活していたら、嫌でもお前のことが分かってくるよ

 ――まぁ、俺はそんなに気にすることないと思うけどな。というか、むしろ斎藤にお礼を言いたいところだ」

「何でですか?」


 妙なことを言い出す白井先生に、俺は首を傾げてしまう。


「そりゃあ、お前が外と関わるきっかけをつくってくれたからだ。俺としても、お前をそろそろどうにかしなきゃと思ってたところだったし」

「……余計なお世話ですよ」

「んなこと分かってる。だから俺も口にしてこなかったんだ。でも、そろそろ過去を乗り越えないと、一生前に進めないままだぞ?」

「…………」


 俺は再び、白井先生の言葉に無言を返した。


 確かにそうだ。

 過去のトラウマを乗り越えなければ、俺は一生このままだ。

 幸せなんて掴めやしない。


 でも、それでいいんだ。


 幸せなんていらない。

 俺は現状維持で十分だ。

 幸せを掴もうとして、辛い体験をして、その幸せをも掴めなかったら元も子もない。

 それどころか、絶望のどん底に突き落とされることを俺は知っている。

 そんな経験はもうしたくない。

 幸せになるために辛い思いをしなければいけないなら、俺は幸せになんてならなくていい。


 俺はあの日から一年間、ずっとこの思いを誰にも打ち明けることのできないまま、胸の内にしまい込んでいる。

 ……誰かに言いたい思いもあったが、白井先生に言ったらその思いを反対されることは目に見えている。

 先生以外に言える人なんかいない。

 だから俺は、誰にも言えずにいた。


 ……辛い思いをせずに幸せになりたいなんていう願いを持つのは、おこがましいだろうか。


「……すぐにじゃなくてもいいんだ。少しずつ少しずつ、周りと関わることに喜びを感じてほしいと、俺は思うかな」


 重苦しい沈黙の中、俺がそれを避けるように考え込んでいると、白井先生はそう口を開いた。


 周りと関わることに喜びを……か。


 いつか俺も、その日が来るのだろうか。

 周りと関わることに喜びを感じることが出来るようになるのだろうか。

 が、俺をそうさせてくれるのだろうか。

 だとしたら、彼女の宣戦布告を受けてよかったと思えるようになりたいな。


「――お前、今日の晩飯何食べたい?」

「どうしたんですか? 急に」

「お前の食べたいものを作ってやろうと思ってな。疲れた日には、自分の食べたいものを食べてさっさと寝るに限る!」


 急に元気になった白井先生を見て、俺は思わず苦笑してしまった。


「……そうですね。じゃあ、オムライスをお願いします」

「了解! すぐに作るからな!」


 白井先生はニカッと笑ってキッチンに向かうが、ニ、三歩進んだところで、何を思ったのかこちらに振り返った。


「その日の内にどうしても悩みが解決出来ないときは、元気な自分に投げるんだ。元気な自分なら、きっと解決してくれるからな」


 白井先生は俺にそう伝えて、キッチンに向かった。


 先生の笑顔と前向きな言葉に、俺の心は少しだけ救われたような気がした。

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