春雷 千春の波乱の人世

西山鷹志

第1話 千春波乱の始まり

 秋沢千春は鎌倉で生まれ育った。両親は先祖代々から受け継いで来た秋沢酒造を営んで来た。千春は一人っ子だ。親とすれば後を継ぐ息子が欲しかっただろうがこればかりは仕方がない。父はいずれ婿を迎えるつもりのようだ。もちろん千春もそうなるだろうと覚悟はしている。だがそれは突然やって来た。縁談相手の親は鎌倉でも老舗の和菓子屋、赤城本舗の次男との縁談を進めていたが、千春はそんな話が進んでいるとは知らなかった。まだ十九歳だしずっと先の話と思いこんでいた。

 時は昭和二十九年(1954) 千春は大学に通っていた頃、好きな人が出来た。家の跡を繋ぐ宿命にあったが人を好きになる事は止めようがない。その男の名は朝倉幸太郎二十だった。交際して間もなく一年になる。千春はいつかそんな宿命にあるのだが幸太郎に言いそびれていた。出来るなら彼が婿に入ってくれる事を願う。幸太郎は平凡な家庭に生まれ育って真面目で純粋な男だ。そんな時に千春は両親から合わせたい人がいるから一週間後に時間を空けて置くように言われた。


「お父さん、それってまさかお見合いじゃないでしょうね」

「そうだ。お前の縁談相手だ。お前もそろそろ結婚してもいい年頃だろう」

「まだ十九よ。まだ早すぎるわ。もっともっと社会勉強をしたいの」

「何を言っている。十九歳と云えば立派な大人だ。それに相手は老舗の和菓子屋、赤城本舗といったらこの辺では有名だろう。そこの次男だ。その人を婿に迎えて秋沢酒造を受け継ぐんだ」

「いやよ。私に一言も相談なしに話を進めていたの。別に後を継ぐのが嫌だと言ってるんじゃないの。結婚させるならまず私に相談するべきじゃないの」

「何を馬鹿な事を言って、娘の相手を決めるのは親だと昔から決まっている。我儘は許さん」

「そんなの横暴よ。もう封建主義の時代は終り民主主義の時代なのよ」

 この頃はまだ親の意見は絶対だった。結婚も恋愛よりも見合い結婚が圧倒的に多かった。特に古くから受け継いで来た酒造屋は封建主義が根付いていて、そうやって代々守って来た。だが逆らう娘に思わず怒った父の一徹は千春を殴ってしまった。父としてもショックだっただろう。今まで親に対して反抗的な態度を取った事がない娘の抵抗につい殴ってしまった。一人娘として多少は甘やかされて育ったかも知れないが千春も殴られたのが初めてだった。千春は泣きながら家を飛び出して恋人の朝倉幸太郎の所へ逃げ込んだ。


「どうしんだい千春。眼が真っ赤だよ。何かあったの」

「聞いて幸太郎さん。父がね、いきなり縁談の話を持ち掛けて来たの」

「えっ? 縁談。そんな……」

 幸太郎は驚いて次の言葉出てこない。人の良い幸太郎は。そんなの断ってとは言えなかった。

「ねぇ幸太郎さんどう思う。縁談の相手と会ってもいいの」

「そりゃあ嫌だよ。でも親の決めたことを断れるかい」

「もう私が聞いているのは幸太郎さんが私と結婚するつもりがあるの。私を連れて逃げる覚悟はあるの」

「そっそれは急に言われても。とにかくお父さんに謝って仲直りしたら」

「それってどういう意味なの。謝るということは縁談をしてもいいと認める事になるのよ」

「しかしなぁ親子喧嘩は良くないよ」

「私が聞いているのは幸太郎さん。私が本当に好きか嫌いか聞いているの」

「そりゃあ好きだ。だけど千春ちゃんの親と喧嘩してまで付き合いないよ」

「それって私とは遊びだったの。男なら私を連れて逃げるべきでしょう。幸太郎さんは意気地がないだけよ。情けないそんな人だと思わなかった。男なら私の父の前で娘さんを下さいと言うべきよ。それが出来ないならもういい私達別れましょう」

 千春はイエスかノーと迫ったが幸太郎は用事があるとその場を去って行った。

 幸太郎はお人よしで意気地なしだった。千春も愛想が尽きた。こんな人と連れ添ってもイザという時、また逃げ出しに決まっている。それでも一年も交際した相手、気持ちの整理が付かないまま桜の花びらが舞い降りて来る公園の脇を走った。そんなとき上空がピカッと光りドドッンと雷が鳴った。春雷だ。雨が急激に降ってくる。千春は泣きながら雨の中を走った。千春は真っ直ぐ家に帰れず親友の吉本咲子の家に向かった


つづく

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