「凍」 獏

@Talkstand_bungeibu

第1話

今日はちょっとラッキーな日だ。晩御飯に大好物のハンバーグが、しかも普段より大きなサイズで出てきた。あまりの満足感に鼻歌を歌いながら、皿洗いをしていると

「陽太」

自分を呼ぶ声が聞こえた。普段物腰柔らかと言われる父の声の中にやや固いものを感じ、どうしたのだろうかと微かな緊張が体を巡る。

「どうしたの」

「皿洗いが終わったら、話があるのでこっちに来なさい」

途中であった皿洗いを慌てて完了させ食卓に戻ると、父も母も神妙な面持ちで座っており、いよいよ何事かと訝しみながら席に着く。


「陽太、これからする質問は本当に大事なものだ。一切の誤魔化しをせず、真剣に答えて欲しい」

「分かった」

自分を叱る時か、それ以上の重い雰囲気に思わず唾を飲み込もうとする。しかし、その唾すら十分には分泌されておらず、口の乾きの自覚と共に緊張は最大に達する。

「陽太は唯さんと結婚する予定なのか」

「え」素っ頓狂な声が思わず漏れる。予想だにしていない質問を受け、シナプス間の情報送受信が限界まで加速し、オーバーヒートしてしまった。

「陽太は、唯さんと結婚するのか」

あまりの突飛な質問に未だ混乱の只中にあるが、それでも父の真っ直ぐで真剣な眼差しから、自身の「男としての何か」を問われているのだろうと覚悟を決める。一度深く息を吸い込んだ。

「婚約はしていない。けれど、来月俺が成人するその日に唯にプロポーズしようと思ってる。」


唯は同い年の幼馴染だ。今は家庭の事情とやらで半年前くらいからうちで一緒に暮らしている。こうした交流から見て取れるように、この町では人が少ないため距離が近い。故に、唯は幼い頃からの友人であり、家族であった。幼い頃はやや引っ込み思案で、いつも自分の後ろを着いてきた。そんな様がいじらしく、そして花がほころぶような笑顔に淡い恋心を抱いた。格式高い家の育ちが故なのか、歳を経るに連れ一つ一つの所作が洗練され、色気のようなものを帯びてきた。そして、表情や眼差しにも憂いを纏うようになった。こうした変化を間近で見てきたせいか、年々一層心が掴まれ、「守ってあげたい」と強く思うようになった。

そんな思いが爆発したのが、5年前、15歳の春だった。高校を卒業する彼女の姉を見送る眼差しに悲しみや哀しみ、諦観と色んな感情が混ざり、何かが壊れそうな様子に、自身の心が耐え切れず「絶対に守って笑わせるから、遠いどこかを見ないで、俺のそばで俺を見ていてくれ」とぶちまけてしまった。

黒歴史確定の一世一代の告白に唯は

「何でこのタイミングで告白してるのよ。でも、ありがとう。その言葉信じてもいい?」

と今までで最高の飛び切りの笑顔を見せてくれたのだった。


「そうか」

俺の決意を聞いた父は一度目を閉じ、何かを思案し始めた。しばらくの静寂の後、再び父が口を開いた。

「陽太、唯さんを支えてあげるんだ」

「そして、唯さんと一緒にこの町を出て東京に行きなさい」

「そんな。なんで、急に」

先ほどから予想外続きで、舌が空回りしているような、問いとも答えとも言えない言葉が口から出る。しかし、同時にこれが本題と直感、話の方向性が見えてきたことで自身の構えが整うのを感じる。

「陽太は東京に行ってみたいと言っていたじゃないか」

「言ったよ。でも、それはただの夢だった。だって、唯が行きたがっていなかったから。」

「そうだね。唯さんは『東京に行きたいとは思わない』と以前言っていたね。それには彼女の一家、葦原家が関係しているのかもしれないし、父さんがした話が関係しているのかもしれない。」

「しかし、今は気持ちが変わっているかもしれない。今後の二人のためにも大事なことだから、今晩一度唯さんとよく話し合ってほしい。」

「父さん。来月、プロポーズしてからじゃどうしてもダメなのか」

「ダメだ。どうしても今でなくてはならないんだ」

父の声からは焦りが滲んでおり、「やれ」と暗に示すかのように背を向けた。


「唯」と風呂からあがったばかりの彼女を呼び止める。まだ半乾きの髪は艶を帯びた黒で、黒曜石を思わせた。その美しさに思わずジッと見つめてしまうが、父の切迫した声が脳をよぎり、慌てて意識を元に戻す。そのまま離れの和室に移動し、あぐらをかく。体面に座った唯は背筋がしゃんとした正座であり、その佇まいにもドキッとする。こんな状況でなければ、この静かな時間を楽しみたかった。

「唯、そのー、さ」

「何?」

どう切り出したものか。嬉しいサプライズにしても、もう少しシチュエーションというものがあったろうに、ましてこれからするのは唯にとって面白くない話。それに、プロポーズすら出来ていないのだから何もかもあべこべだ。よっぽど珍妙な顔をしていたのだろうか、唯が「あまり良くない話かしら?でも構わないわよ」と助け舟を出してくれた。その気配りに背中を押されて俺は意を決した。

「唯は、今は東京に住みたい?」

僅かな間、場を沈黙が支配する。恐る恐る様子を伺うと、予想に反して唯は静かな、どこか覚悟を決めているような表情をしていた。

「陽太くんは東京に住みたいんだよね」

「一回、経験としてはね。でも唯が嫌がっているようだったから、この町で生きていくつもりでいた」

「私のため?」

「もちろん」

「ありがとう。でも、それなら、どうして今東京に住むか聞いたの?こんなお風呂上りに」

「タイミングが悪いのは、本当にごめん。実は父さんから『東京に行け』て言われてさ。本来、こういうのってもう少しタイミングとか段階ってものがあると思うんだ。だけど、普段あんまり強制しない父さんがこんな無理矢理なことをしているし、それに、父さんと話した時俺と話しながら、ずっと唯のことを気にかけているように見えたんだ」

「そう」

「きっと、お姉さんの身に何かあったのね」

そう告げた彼女の目は、5年前の春を思い出させる目をしていた。


翌朝、日差しは柔らかく風はどこかほんのり冷たさを添えて。自分のたちの激変などどこ吹く風なありふれた初夏の兆しといった天気、それがかえって置かれた環境の異質さを際立たせていた。

「おはようございます」

振り返ると、トランクケースを片手の唯がそこにいた。綺麗な黒髪は朝一番にも関わらず丁寧に手入れされ、白のブラウスに黒スカートの装束は大人っぽく。普段なら胸が高鳴るものだが、今回のそれはこれからの自分たちの旅への決意を示すようで、胸を浅く切られるような僅かながらも確かな鋭い痛みが走る。

「お父さま、お母さま。今までありがとうございました。この半年間だけでなく、もっと昔から。陽太くんと一緒に遊んで、お父さまの面白い話を聞いて、お母さまの美味しいご飯をご馳走になる。その全てが至福でした」

「そうか、そう言ってもらえると陽太の父として、唯さんの家族として、誇らしいよ」

「さあ、行こうか」と車に案内しようとする。多分、このまま東京に行くのだろう。何らかのやむにやまれぬ理由があって。でも、俺は唯に約束した。「絶対に守る、笑わせて見せる」と。きっと誰が見ても状況に流されただけだろう。それでも、俺は俺自身のケジメとして、唯を守れるための自身の選択と納得したくて、一歩踏み出し手を差し出す。

「唯、俺たちの生き方を考えるために東京に行こう。俺と結婚してください」

「ええ、ずっとよろしくね。」

軽やかに俺の手を取った唯は、笑っていた。確かに笑っていた。だが、その目は5年前の春を思い出させる目をしていた。


車を走らせ始めてから、2時間くらいだろうか。父は東京に着いたらまず、区役所に向かい腕時計のような物を受け取ること、それがデジタルキーや財布の役割を担っていること、など簡単なレクチャーを受けた。正直、状況の変化と先ほどのプロポーズのドキドキとで、説明が頭に入ってこない。ちゃんと聞いている体を装うのが精一杯だ。父が「うーん、ひとまずこんなものかな」と言って一通りの説明を終えると、「何か質問ある?後からスマホで聞いてもらっても構わないけど」と尋ねた。「俺たちは今後どうなるのだろう」と聞きたくも、自分たちで決めることだろうと悩み口をつぐんでいると、隣の唯が口を開いた。

「お父さま。お姉さんに何があったのですか」

スッと針で喉を突き刺すような、静かだけれどとてつもない冷気を秘めた声で問いかける。だが、予想していたのだろうか、フロントガラス越しに見えるの父の表情に些かの変化もないようだ。

「陽太との未来のことだ。早いに越したことはないだろう」

「それでも急ですし、陽太くんは元々私が東京に行きたくないのを知っていて、地元に残るつもりでいてくれました」

「唯さんは東京に来たのは一度、しかも観光の3日間だけだったろう。何でそんなに嫌がるのかな」

「それは」

傍から見ても分かるほど、気まずそうに勢いを失う唯を見て、父は何か得心がいったようにつづけた。

「僕の昔話のせいかな」

「…」

唯に何か吹き込んだのだろうか。それは、いくら父さんでも見過ごせない話だ。

「父さん、唯に何か吹き込んだの」

「吹き込んだ、はちょっと言いすぎかな。父さんはこの話を陽太にもしている。ただ、喋りすぎてしまったことは否定しないよ。」

「それに、唯さんが僕の思っていたより、ずっと賢かった。今回の一連の対応を見てもそうだけど、思っているよりずっと周りをよく見ているし、ずっと早く大人になっていたんだね」

父は一呼吸おき、自分たちを見てから「ただ」と続けた。

「少なくとも東京生活については体験してみるのも悪くない。それは正しく世の中を知ることだからね。そうしたらきっと、これまでの唯さんや陽太のことも、もう少し違って捉えられるだろう。それになにより、『永遠の愛』を真にするのは、ここでしか出来ない。」

「着いたよ」父はそう言って車を停めた。気付いたら窓から見える景色が地元である葦原町のそれとは大きく異なり、高いビルや華やかなショップなどが立ち並ぶ、東京のものに変わっていた。とうとう着いてしまったみたいだ。「2年」自分たちを車から降ろすと、父が呟いた。

「父さんも生まれていないくらい前、だいたい50年くらい昔の話だ。その頃は留学もそれなりに盛んだったらしいんだ。その頃の人々の認識では、その土地のことを知るには2年必要と言われていたそうだよ。まぁ、そこまでとは言わないけど、1年くらいは暮らしてみなさい。もし、それでも帰って来たくなったら僕に相談して欲しい。それでは、元気でね」

そう言って父は車に乗り込み発ってしまった。

気のせいか別れ際に「それまでにはきっと、なんとかするから」と聞こえた気がした。


残された俺たちの目の前にあるのは、小奇麗ながらも、ちょっと古い建物だ。そして、小さい。個人経営のショップが縦に2つ、それを2段に重ねたくらいだ。本当に区役所か?そう訝しみながらも自動ドアを通り抜けた。目の前には、整然としたというよりは、むしろ殺風景な空間が広がっていた。地元で役所といえば、色んな企画であったり手伝いなどの募集であったりと情報の場として機能があり、むしろ雑然としていたものだ。「都会は違うなぁ」と思いながら辺りを散策していると、「お客様、どうかされましたか」と声がかけられた。そして、思わず素っ頓狂な声を上げそうになってしまった。目の前にいたのは、かつて授業で習った「Pepper」を丸っこくしたようなロボットだった。


「ぼくは案内課観光課兼低度生活課を務めますコミュニケーションAI搭載型ロボット、λ-TS3-0487380915です。長いのでTS3か通称の『さんた』と呼んでね」

「分かりました」目の前の光景に唖然としながらも、返事をする。それを聞いてさんたはまた話始めた。

「あなたたちは楠木ご夫妻?」

俺の姓を告げられる。夫妻という言葉にくすぐったさを覚えながらも、話を進める。

「そうですけど、自分たちをご存知ですか」

「ええ、ええ。楠木陽太さまのお父さまである、楠木正人さまから訪問の予約を受けております。区営住宅の件ですよね。手配しますので、少々お待ちを」

そう言うと、間もなくガラガラと音が聞こえた。移動式ワイヤーラックと言えばよいのだろうか。台車に似ているが、より小物の運搬に特化したそれを運ぶのは、かつてインターネットで見た「ハロ」なるキャラクターに似たロボットであった。人間と手動の機械しかない葦原町で過ごした俺からすると、ロボットに囲まれた状況はあまりにもキテレツなものであった。

「こちらがお2人のウォッチです。鍵になりますし、楠木正人さまの事前入金により残高があるので、財布にもなります。大切にしてくださいね」

さんたはそう言って、細くて薄い腕時計のような電子機械を手渡す。そして、「区営住宅はここから歩ける距離にありますので、案内しますね」と言って、先導していった。


「お2人は葦原町の方ですよね」

道すがらさんたは問いかけた。

「はい、そうです」

「そうしましたら、東京は何もかも違って見えますよね」

「そうですね。昔一度だけ来たことがあるんですけど、その時はもっと都心の方に行ったのもあって、遊園地気分だったんです。なので、ただ面白かったですけど、こんなに生活に馴染んでいるとは思いませんでした」

「実は東京では、ありふれた光景なんですよね。都心の方がパフォーマンスロボットなどもいてより多様ですけどね。楠木唯さまはどう思いますか」

唯も少しこわばった表情をしている。その緊張を気づいてか唯にも声をかけるあたり、コミュニケーションAI搭載というのも本当のようだ。

「少し、いえ、非常に驚きはありますが、この町の落ち着いた雰囲気からして、これが当たり前なんだろうと思います」

「ぼくたちは皆さんの生活を支えるロボットです。怪しい者ではないので、ご安心くださいね。ほら、先ほどウォッチを渡した時の緑色のロボットがあちらにいるでしょう?」

「はい」

「『ミドマル』と呼ばれていますが、彼らは運送に特化した機械です。食材を届けているのでしょうかね」

「へえ」

「それと、もう一つ驚かれるようなお話があります。」

「なんでしょうか」

「こうして、人々の生活を支える機能の多くをぼくたちロボットが担ったことで、葦原町でどうだったか知りませんが、貨幣の価値はほとんどなくなっています。」

「え、そうなんですか」

あまりのぶっ飛んだ価値観に驚きを隠せない。

「ぼくたちは富も物も占有しません。なので、ぼくたちロボットが生産したものを皆さんで分配すればよいのです。すなわち、貨幣の多少によって購買力を決定する必要がなくなったということです。取引を記録すること、皆さんに嗜好に合わせた選択をしてもらうこと。このために貨幣制度は残っています」

その後も説明が続いたが難しく、半分くらいしか理解できなかった。多分要点は、ウォッチに毎月政府からの入金があり、生活は可能。ただし、高度な芸術の所有権など「全員にあげられないもの」については、自分で稼いだお金を使ってくださいね、ということらしい。

ひとまず、当面の生活が保障されたようで一安心だ。そうこうしているうちに、小奇麗な建物の前にたどり着いた。

「こちらの204号室がお2人のお部屋です。生活周りのご不明な点等ありましたら、気兼ねなく区役所に立ち寄ってくださいね」

そう言い残し「バイバーイ」と手を振りながらさんたは帰っていく。そんな愛らしさも含めてよくできたロボットだと感心していると、「陽太くん、入りましょう」と唯が促す。

初めてのデジタルキーで恐る恐るパネルにウォッチをかざすと、ピピッという音が鳴りたて続けにガチャという音が鳴った。これが文明の利器かと感心していると、ゴツン。自動で開いたドアに額をぶつけてしまった。


部屋に入るとベッドが2つ用意されて、その他家具などの最低限の設備もあり、生活基盤が整っている。これは非常にありがたい、いきなり不足に悩まされることはないと安心すると、急にどっと疲れが押し寄せてきた。朝から、テンコ盛りのイベント続きで思ったより疲弊していたみたいだ。

「唯、疲れたし少しだけ昼寝しない」

「陽太くん、実は私も同じことを思っていたの。色々起こりすぎたよね」

2時間くらい経っただろうか。目が覚めて起き上がってみると、唯は荷物を片付けていた。

「陽太くん、起きたの」

「うん。唯はもう起きてたんだ。起こしてくれれば手伝ったけど」

「本当ついさっき目覚めてね。少し私物でも片付けようかなって。でも、ちょうどいいわ。お腹も空いたし買出しにでもいかない?」

「いいね」

外はきれいに晴れ上がっており、気温もだいぶ上がってきた。

2人のんびりと歩く。運送特化のミドマルなるロボットはチラホラと見かけるが、人の姿は全く見えない。その静かでまったりとした時間は、心を落ち着けた。「まぁ、なるようになるさ」と少し前向きになれた気がする。ふと隣を歩く唯を見る。心なしか顔も上を向いており背筋もしゃんとしているように見えた。

散歩がてら歩き回っていると、大通りに出た。大通りには人の姿が見られるも、やはりまばらだ。お店も多く魅力的な場所なのにどうしてこんなに人が少ないのだろう、と不思議に思いながらも周囲を見渡すと、「食品ストア」の文字があったので入店してみる。清掃の行き届いた清潔な店内には整然と食品が並べられており、まさにお手本といわんばかりの佇まい。これには唯も驚いたようで、楽しそうな表情をして先を歩き始める。東京も悪くないじゃんと思いながら、後を着いていった。

1時間は優に超えただろう。見慣れない商品の数々に驚きながらも、必要なものを手に取る。醤油、味噌、みりんといった調味料や米、パスタなどの必需品。そして、お目当てのお昼ご飯。カツ丼や牛丼、海鮮丼など葦原町には無い物が多く驚きと、楽しさの連続であった。だが、何より驚いたのは会計だ。商品を詰め込んだカゴを持ったまま、変な機械の足元で静止させられる。機械はカタカナのコを反時計回りに90°回転させた形と言うと分かりやすいだろか。その下向きコの字の機械にはスキャナーのような機能があるらしく、静止している間に買った商品の価格を算出、ウォッチから会計してしまうのだ。俺と唯は互いに下向きコの字を抜けると、お互いに顔を見合わせ吹き出してしまった。

しかし、愉快だったのはそこまでだった。なにせ、両手にいっぱいに詰め込んだ買い物袋を提げており重い。とにかく重い。そして更に悪いことに、道を見失ってしまった。だいたいは合ってるはずだが、どうもたどり着かない。

さすがに焦り始めたところで、偶然にも人影を見つけた。それは2人組であった。片やものすごいイケメンで、片やものすごい美女だ。東京はやっぱ違うなと思いながらも声をかけようと近寄る。すると、すっとイケメンが俺と美女の間を塞ぐように立ち位置を変えた。

「あのー、すいません」と声をかける。

「はい、どうなさいましたか」

イケメンが返事をする

「区営住宅を探しているのですが、場所を知っていますか。迷子になってしまって」

「区営住宅でしたら、この道を真っ直ぐ300mくらい進んで、右に曲がると見えますよ。右折する目印は小さな噴水のある公園です。」

「ありがとうございます」

「いえいえ」

そう言って、イケメンはニッコリと笑う。完璧な笑顔でこちらもつられて笑いそうになる。そしてイケメンは続けた。

「あなたたちは最近東京に来られた方ですか」

「はい」

「それでしたら覚えておくといいですよ」

「はい?」

「東京ではみだりに人に声をかけない方が良いですよ」

そう言って2人組は立ち去る。イケメンで紳士な対応からは想像もつかないアドバイスと、美女の恐怖と侮蔑にまみれた眼差しに呆然と立ち尽くした。


東京に越して来てから数日が経過した。食品ストアやアパレルなどの生活に必須の店の場所を覚え、交通機関の仕組みも覚えた。迷子になる心配もだいぶ減った。そして同時に分かった。暇すぎると。

地元ではやることがたくさんあった。田や畑を耕し、キノコを採り、車を修理する。算式を覚え、物理を学ぶ。人が少ないせいか1人1人がやることも多様で、問題は多々発生する。面倒ではあったが、その労働は生活に張りを持たせていた。翻って東京は?人の労働を徹底してロボットが代替した結果、暇を持て余している。東京人はどうやって日々に潤いを持たせているのだろうか。

疑問に思っても、誰も答えをくれない。色々と考えた挙句、本格的に遊びや観光に行ってみたいなと思い、スマホで調べる。すると、いくつかのイベントが見つかる。明日は野球の試合があるらしいし、行ってみようか。


ガタンゴトンと電車に揺られる。自分たちは東京の北側に住んでいるが、今南の海近くに向かっている。スタジアムがあるからだ。野球は小さい頃から遊んできた。唯は見ていることも多かったが、それでもどんなスポーツか知っている。それに、今回の試合はロボットだけで構成されたチーム同士での試合!地元に乏しかったロボット文化を知るにもちょうどいいように思われた。

スタジアムはドーム型をしていて、外から眺める分にはあまり違和感がない。地元にも昔から使われていたドームがあり、瓜二つとは言わないが似たものを感じる。入口のゲートにウォッチをかざし認証を受けると中に通された…区役所の時もそうだが、どうにも外と中とでは印象のギャップがある。内部は一面、頑丈で黒い液晶のようなものでできており、稲妻を模したような光が液晶の上を奥に向かって幾重にも迸っている。その光帯とでも言うべきものは、それぞれ赤や青、紫などと三種三様となっており、束ねれば虹でも描けそうだ。

通路を抜け観客席に上がると、ますますの奇天烈な光景に眩暈すら覚える。芝かなと思っていた当初を完全に裏切り、試合会場には会場の通路で見た黒い液晶を正方形に切り取ったようなものが敷き詰められていた。会場全体が黒く、そこを駆け回る光帯によって、足元が見えるといった具合だ。あえて例えるなら上映中の映画館のようなものだ。

「なんか、すごいね」

唯が呟く。彼女もあまりの光景に困惑を隠せなかった。

「ごめん、試合表と開催場所だけ見て決めてしまった。もう少し下調べするべきだったよ」

「ううん、いいよ。東京の野球ってどういうものか楽しみね」

そう言って唯は微笑む。実際は暗くて見えなかったが、そこには確かに微笑んだような柔らかな空気があった。

「ハァーイ!ミナサン、コンニチワァ」

唐突に大音量のアナウンスが鳴り響く。試合実況が仕切り始めたようだ。

「本日の対戦は、ボルテックスとスタームのマッチだぁ!優勝候補の両雄がぶつかるこの一戦、この時を待っていたぁ!!!!!」

そうして実況が滔々と両チームの解説をする。熱の入り方からよほど楽しみなのかもしれない。東京に来てから学んだが、ロボットは非常に生活に浸透している。もしかしたら、この実況もロボットかもしれない。だとしたら熱の入れ様も自在なのかもしれないが…

「さぁ、両チーム準備が整ったようです!それでは選手入場といきましょう!」

その一言と共に全ての光帯が消滅する。そして、ふいに緑色の光で人型に縁どられた何かが試合場に入場してきた。1,2,3…9。動く、緑光で縁どられた人型の数は野球の選手のそれと一致する。どうやら、これが選手らしい。緑光が整列すると続いて赤光で縁どられた人型が入場する。こちらも緑光の前に整列すると、お互い頭を下げた。そこはどうやら普通の野球と同じのようだ。

いつのまに攻守が決まったのやら、緑光が守備につく。「こんな真っ暗な所でどう野球するのか」と思っていると、ピッチャーの手に選手と同じ緑光でボール型に縁どられた何かが収められていた。ピッチャーがそれを振りかぶる。すると、ものすごい数の緑の光線が発生し、「ストラーイク」という審判の声が聞こえた。

何が起こったのか?実況の声が聞こえたので耳を澄ませた。

「いやー、初球から攻めますね!イリュージョンボール!いくつもの光靭によって、本物の球を隠す技ですね。光靭を出すタイミングが大切ですが、やはりエースは素晴らしい!最高のタイミングでしたね」

いやはや、意味が分からない。


試合が終わり外に出る。海風が髪をもてあそぶ。海に馴染みはないけれど電飾まみれの会場よりはまだ心が落ち着く。

「唯。せっかくだし、良かったら少し海辺を歩かないか」

さぁと満ちては引く波の音が心地よい。波の緩やかなリズムは地元のそれを思い出させる。

「試合すごかったな」

「そうね。さっぱりだったわ」

「違いない。あれはもはや野球なのか」

「難問ね。実況を聞いていると、色んな仕掛けをしているみたいね」

「普通に投げて打ってじゃダメなのかねー」

「私たちはその方が楽しめるよね。ロボット同士では、普通に投げて打つじゃ試合にならないのかしら」

「それは言えるなぁー。でもさ、唯は見た?観客俺たちしかいなかったぜ。きっとつまんないんだよ」

「ふふっ。私はちょっと面白いと思ったよ。幾つにも見えるボールに、逆に消えるボール。いきなり光度最大でのライトアップに巨大化するボール。魔法を見てるみたいで少しワクワクしちゃった…一回で十分だけどね」

「まぁな。マジックショーと思えば、めちゃくちゃ面白かったな」

しばらく2人並んで歩く。夕暮れのほのかなオレンジを映した海は一層艶やかで、なるほど、昔の人が海に魅了されたのも頷ける話だと、心底感じた。

「唯」

「なーに?」

「海っていいな」

「どうしたの?急に」

「東京に来てさ、色々あったじゃん。生活も文化も全て、俺たちの町とは違った」

「そうね」

「でもさ、地元の空気感にどことなく似た場所が残されているのって、嬉しいなって」

唯が静かにこちらに目を向ける。どことなく恥ずかしくて慌てて言葉を継ぎ足す。

「いや、ほら、海と田んぼじゃ違うよ?でもさ、リズムというか空気感というか、そういうのがさ、なんかあるじゃん」

「大丈夫だよ。言いたいことは分かるから」

「ありがとう」そう言って、俺は一息つく。なんかこっぱずかしいことを言ったような気分になった。ひと呼吸おくのを見計らって唯は続けた。

「陽太くんはさ、東京に行きたい、住みたいってずっと言ってたよね」

「言ってたな」

「今はどう?来て1週間くらいだけど、気持ちに変化はあった?」

「そうだなー…、うん、想像とは色々違ったかな」

「うん」

「思ったよりロボットが浸透してたし、葦原町にいた頃より暇な時間も増えた。なんか賑わっているようだけど、どことなく違和感もある」

「色々違うものね」

「でもまだ1週間だ。それに都心もほとんど見れてない。だから、今は様子見かな」

「なるほどね」

「むしろ唯はどう?東京を嫌がっていたけど」

「予想外に素敵と思うことはなかったわ。けれど、陽太くんと一緒なら暮らせるかも、とは思っているわ」

「へへ…俺もだ、唯」

そして帰路につく。


最寄り駅に到着。もう辺りは暗くなっていた。

「今日は食品ストアで買って帰ろうか」

「そうね」

それぞれが好きなものを物色する。こうして疲れた日には、出来合いの物を買えるのも東京のすごいところだと思う。俺はカツカレーとコーラを買って会計を済ませた。唯はまだ選んでいるらしい。

そうしてしばらく待っていると、両手にパンパンの袋を提げた唯が会計ゲートを抜けてきた。

「どうしたんだ、そんなにいっぱい?」

「えへへ、買っちゃった」

そう言って唯は袋から除く酒の缶を指さす。

「私は成人してるからね」

唯は一歩距離を詰め、俺の耳元で囁く。

「陽太くんももうすぐだし、帰ったらね」

頭がぽわぽわする。帰宅後お酒を飲み始めた。あまり美味しくないが、なんのプライドだろうか唯に負けじと飲んでいたら、少し酔ったらしい。正直気分の良いものではないが、ここのところ張りつめっぱなしだった唯が緩んでいるところを見ていると、お酒って良いものだと心から思えた。

唯の色んな話を、思いを聞いた。とても便利で、不自由もないこと。しかし、世間は自分たちのあまりにも先を行っており困惑していること、暇な時間が多いこと、そのせいか俺が少し苛立たしそうにしていること…

苛立たしそうにしていることには思い当たることがあったので、「ごめんなさい」と謝ると、「ううん、いいよ」と言ってふいに距離をつめ、肩に頭を乗せてきた。恋人でありながら、周囲の目もあり一定の距離感を保ってきた俺にとって、それは心臓が裏返るほどの高鳴りと緊張を覚えるものであった。

「陽太くん」

唯はゆっくりと俺の名を呼ぶ。

「ん?」

「陽太くんは永遠の愛ってあると思う?」

「あるだろうな」

「即答だ」

「そりゃ、あると思ってるからな」

「それはニューマンのこと?」

ニューマン…手も足も脳も、全てを機械化することにより不老不死を手にした人たちのことを指す。現代の東京では只の人間が手術により、不老不死を手に入れられるようになった。そして、この不老不死を獲得したものを新たな人類としてニューマンと呼称している。だが、俺は不死性を以てのみ永遠を語れるとは思っていない。

「いや、これは父さんの受け売りもあるんだけどさ」

「うん」

「俺も唯も永遠の愛の証なんだと思う」

「どういうこと?」

「俺のひい爺さんのひい爺さんのひい爺さん…って最初の祖先まで遡ったとして、その人はもう当然死んでるわけじゃん」

「それはそうだね」

「でも、その最初の祖先の夫婦がいた証として、愛の証として子供が生まれ、そしてその子供が誰かと生きた証として、愛の証として次世代の子供を産んで…これを繰り返して、今俺や唯がいる」

「うん」

「これってつまり、俺や唯がその祖先皆の永遠の愛を体現していることだと思うんだ」

「そう、そうね」

少し間をおいて唯はまた口を開く。

「じゃあ、私たちの間の永遠の愛を証明しようとしたら、子供を産まないといけない?」

「それは…」

「私たちはラストチルドレン。AIによって、最後と予測された新生児たち。仮に予測に反逆して子供を産んだとして、その子に永遠の愛の証明のために機械化を、ニューマンになることを強要する?脳すら入れ替えた子供を愛の証と誇れる?」

「分からない…、でもただ『生きる』以外にもその証はあると思っている」

「ごめんね、面倒くさいこと聞いちゃった」

そう言って彼女は目を閉じる。そこには寂しさと満足が不思議な表情が浮かんでいた。


それから数日は水族館行ったり、新しいゲームをしたり、お酒を飲んだりと自由で楽しい時間を送れていた。その間も時間を見つけては準備を進めていた。なぜなら、明日は俺の誕生日、すなわち成人の日だからだ。

「唯、明日デートしよう」

「ふふっ…毎日デートしているようなものだけれど、改まってどうしたの?」

「明日、12時に丸の内駅前集合な」

「気合入ってるのね」

「そりゃ、な」

「分かったわ、12時丸の内ね」

翌日、俺は一足先に丸の内に着いていた。目的の場所があったからだ。駅を出ると、それなりの人数が歩いていた。これまで行った町の中では比較的混んでいる方だ。しかし、どうにも浮いている気がする…なぜだろか。

目的を先に済ませると12時近くなっていたので駅に戻ろうと歩いていると、やはり違和感を覚える。よくよく見てみると、周りには若い2人組ばかりだ。独りで歩く自分が寂しい存在に思えるのだろうか、座りの悪さを覚える。

「あら、陽太くん素敵ね」

駅に戻ると、声がかけられた。声の方を向くと、とびっきりの美しさを湛えた唯が立っていた。

近くの風変わりな食堂でご飯を食べる。「昔の給食」を再現したとされるそのメニューは、俺には全く心当たりがなく、斬新な気持ちで食べていた。唯も初めての体験だったらしく、目を真ん丸にして驚いていたのが愉快で、思わず笑ってしまった。

食事を終えると丸の内の町を散策した。あちこちにミドマルがおり、空飛ぶ車も見られる。異世界体験できるゲームセンターがあれば、義手や義足の露店もあった。あまりに「有り得ない」光景に何度と知れぬ驚きを味わっていた。また、ふと別の方向に目を向けるとホログラムと言うのだろうか、立体に投影された美少女が歌って踊っていた。彼女の周りに投影された映像にはアバターとも言うべき人影が無数に存在し、彼女の踊りに合わせて腕を振ったりと楽しんでいるようだ。サビの締めなのだろうか「永遠の煌めきを紡いで」という歌詞と共に一際大きな歓声があがる。

「永遠の煌めきね…」

「どうしたん?」

「ううん。ただ、あのアイドルお父さんよりもずっと年上らしいから、『永遠の17歳』ってああいうことを言うのかなって思ったの」

「唯も17歳のままでいたかった?」

「難問ね。若いままに憧れないと言えば嘘になるわ…」

「けれどね、あんな風に着目されること、何かの役割を背負うこと。それが続くのであればどこかで終わりがあるのも救いだと思うのよね」

「唯はやっぱり頭良いし、色々考えてるんだな。俺は頭からっぽだ」

「そう、なのかしら?」

「あぁ。ただ、あんまり考えて頭が疲れるなら、たまには俺にも考えさせろよ。2人で分け合えば少しは軽くなる。俺の頭は軽いからな!!」

「なにそれ」

「お、そこにカフェがあるじゃん。難しいこと考えたら糖分欲しくなっちった」

「まだ何も考えてないでしょ…」

呆れたように、でもどこか喜ばしげに声を漏らす。そして、各々注文を終えるとテーブル席に座った。

「そういえばさ、この前見た野球のこと調べたんだ。唯が言っていたようにロボット同士だと、球筋とかが読めすぎるから試合にならないらしいな」

そんなくだらない話を楽しんでいた。ふと、水をもらおうと「唯、水取って来るから」と席を立つと他のテーブルが目に入る。まじまじと見たわけではないが、飲み物が1つずつしかなさそうだった。東京ではそんなものか。

かれこれ1時間くらいいただろうか。日が傾き始めた頃に店を出る。気温も若干下がり歩きやすく感じられる。「こっち側行ってみようぜ」そう言ってしばらく歩いていると、丁寧に手入れされた公園が見えた。紫陽花は花菖蒲の咲く公園は非常に美しく、夕焼けの朱混じりの赤が一層雰囲気を作る。ベンチに座り辺りを見渡すと、異様な光景が目に映った。


先客カップルたちがイチャイチャしているらしいことは分かっていた。だが、ここまでとは…皆々辺り構わずキスをしていた。愛し合う2人たちはじっと見つめあって首に腕をまわし熱く唇を触れ合わせ、舌を交わす。「はぁ」という吐息のようなものが聞こえ、目を向けると別のカップルがキスだけでは飽き足らず、胸に指を這わせていた。美しい曲線を確かめるように指がラインをなぞるごとに、甘やかな吐息が漏れる。慌てて唯に目をやると5年前の春を思い出させる目でその様子を眺めていた。

変なものを見せられた困惑でも噴飯でもなく、俺の準備不足を詰るような侮蔑でも冷たさでもなく。最悪の答え合わせをしてしまったかのような、悲しみや哀しみ、諦観と色んな感情が混ざり、何かが壊れそうな眼差しに俺は確信を得る。ここに唯が東京を嫌がっていた理由が、恐れていたものの答えがあると。グッと、気まずさや羞恥のすべてを取り払って周囲を観察する。唯はどうして、この光景に絶望を覚えた?これまでは意外と楽しそうにしていたのに、どうしてここではそんな目をする?卒業する姉を見送った時と何が重なった?

ふと、6年前の事件が頭をよぎる。唯の姉は高校2年を迎えた春に一度、家出をしていた。


唯の姉はラブロマンスものの映画が好きで、新しい物好きな若い感性を持った人だった。そんな彼女の東京に関する知識を聞いては、俺も東京への憧れを強めていたものだった。しかし、実家の反対で東京での暮らしが許されなかった彼女は3か月、家出をしたのだ。そうだ、あんなに東京に憧れていた人なのに、それを諦めて葦原町に戻って来たのは?唯はその様子を見て何を感じたのか?

ふいに、落雷が落ちたような衝撃を覚える。その刹那の間に無数の記憶の欠片が浮かんでは消えた。東京に出て地元に戻った唯の姉、「話しかけるな」と言い残したイケメンと侮蔑の目を向けた美女、誰もいないスタジアム、若いカップルしかいない都心、ずっと存在するアイドルとたくさんのアバター、1つしかない飲み物に、人目を気にしないカップル…それらが一本の線で繋がり、透徹した感覚に思わず声が漏れた。

「これは『凍土』だ」


「陽太、唯ちゃん。父さんに質問かな?」

10歳くらいの頃だった。俺と唯は父さんに授業で習ったことをひけらかそうと、父に声をかけた。

「父さん。歴史の授業でさ、シンギュラリティってのを習ったんだよ」

「もう随分前の話だね。おじいちゃんとかひいおじいちゃんの時とかに、多くの人が気にしていた話題だったね」

「父さんも知ってるの」

「少しだけね。でも、あんまり詳しくないから良かったら陽太、唯ちゃん、父さんにも教えてくれないかな」

そうして、俺と唯は意気揚々と教科書を使って説明したものだ。その頃から唯の方が賢かったので、俺が喋った内容に補足修正を加える感じだったかもしれない。ひとしきり話した後で、唯が問うた。

「陽太くんパパ」

「なにかな」

「授業で、『シンギュラリティ以降はAIが人間の色んなものを代替していくと考えられた。当時は、AIが最終的に人間を要らないって判断するかもしれないって考え方もあった』て教えてもらったの」

「そういう考え方があったんだね」

「そう。でも、この町にAIはないよ」

「この町はね。他の町にはあるよ。」

「東京?」

「そうだね」

「でも、東京は今の人間が生きているんでしょ」

「そうだね。東京のAIは、人間と一緒に生きていくことを選んだのかもしれない。確かに昔の映像作品には、AIが人間を侵略して滅ぼすっていう内容のものがあったんだ」

「怖いね」

「そう、怖いんだよ。だけどね、僕はこう思うんだ」

「『AIがもし本当に人を滅ぼそうと考えるなら、殺戮なんてことはしない。最終的にAIが勝つだろうけど無傷じゃ済まないからだ。一番良い方法は全ての人間にパートナーを与える。最高の家族で、友人で、恋人だ。そうして交友関係を摘み取ってしまえば、いずれ全ての家族が死んで人間はいなくなる』」

「僕にこの考えを教えてくれた人がいた。その人は、『人との交流の全てが断絶し、停滞し、死に絶える。その世界の在り方はまさに凍土だ』と言っていたよ」そういって父は締めた。


「これは『凍土』だ」

その声に反応して隣に座っている唯がこちらを振り向く。そこには縋るような、訴えるような切実さが滲んでいた。

「唯は、ずっとこれを見ていたのか」

「陽太くん…」

唯が声を詰まらせる。

「ずっとずっと怖かった…」

震え、崩れそうな体を、その形を崩すまいとするようにギュッと抱きしめる。

「ごめん。俺が鈍くて気づいてあげられなかった」

「私が言わなかった、何も」

「そりゃそうだ。唯には『凍土』が分かって、俺は分からなかった。今、この時までは」

あまりに不甲斐なさに天を仰ぐ。俺は、「絶対守る」と言っておきながら何一つ理解していなかった、向かい合うべきものを。そして、また唯を悲しませてしまった。この悔しさは絶対に忘れない…俺は、昨日までの子供の俺を殺す。

「すべてが手遅れであべこべだった」

まわした腕をほどき、両手で肩を掴み真正面から唯の顔を見つめる。涙に濡れた彼女は、幼い時の泣き虫の唯を思い出させた。その思い出にも大きくバッテンを思い描きながら、続けた。

「俺は昔唯に『必ず守る』と言ったけど、果たせなかった。今は少し追いついたけど、唯は頭が良くて思慮深いから、きっとまた直ぐにさらに遠い先を見てしまうんだろう。でも、必ず追いついてその重さを引き受ける。だからもう一度チャンスをください。こんどこそ、一生を懸けて守って笑わせられる男になるから…」

俺はカバンからケースを取り出し、蓋を開ける。

「俺と結婚してください」

「陽太くん。ありがとう、その言葉信じるよ」

5年前の春を思い出させる飛び切りの笑顔だった。

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「凍」 獏 @Talkstand_bungeibu

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