第二章 地固めと隣国からの客人

第十話 ベティカ公爵の使者

「一見、心臓麻痺に見える毒かあ……」


 シュツェルツは頬杖をつきながら、『毒さまざま』という物騒な書名の本と格闘していた。

 該当する毒はいくつもあるのだが、アウリールが話していた、銀に反応せず無臭という条件を追加していくと、どれも違うのではないかという結論にならざるをえない。大体、一口に毒と言っても種類が多すぎるのだ。


 それに一か月前、暗殺者たちが捕らえられる前にとった行動──短剣で自身の身体を傷つける──がずっと頭の隅に引っかかっている。彼らはあらかじめ毒物を短剣に塗っており、それで自害したのではないだろうか?


「でもなあ……心臓麻痺を引き起こすような強い毒なら、皮膚に塗るだけでも効果がありそうなものだけど」


 ここ一か月の間に毒に関する本を読み漁った甲斐あって、シュツェルツは皮膚から吸収されるタイプの毒の知識も得ていた。実際、ヒ素や青酸カリは皮膚からも吸収されるという。

 暗殺者たちの傷口に毒によるただれや変色などはなかった、というのも不思議だった。


「うーん、分からない。もう、アウリールに全部任せちゃおうか」


 我ながら危機感がないなあ、と思うが、毒の正体を突き止めたからといって、暗殺未遂の首謀者に辿りつけるかどうかは分からないのだから仕方ない。

 それに暗殺未遂も三度目となると、逆に怖くなくなってくる。いつ殺されるかとビクビクしていては日常生活もままならないではないか。どうも自分は思っていたよりも図太い神経の持ち主らしい。


 ただ、それだけ特殊な毒なら首謀者を突き止めるための手掛かりくらいにはなるかもしれない。何せ、自分はともかくアウリールでさえも、その毒の正体に迫れていないのだから。


(まったく……秘密警察がちゃんと動いてくれれば、僕たちがここまでする必要もないんだけど)


 第二王子暗殺未遂事件が起きてから、その捜査は秘密警察によって進められている。

 秘密警察は、革命を企む人物や異国のスパイを取り締まるという本来の役割とともに、王室を標的とした暗殺事件を捜査する権限も持つからだ。


 シュツェルツは事情聴取を受けた際に、暗殺者たちの死因は毒かもしれないと話した。しかし腹の立つことに、秘密警察がその毒を特定したという噂は、ついぞ耳にしていない。アウリールも同じ推測を話したというのに、だ。

 彼らは毒の話をシュツェルツとアウリールの妄言として受け取ったのかもしれない。


「もう少し、粘ってみるか」


 ふつふつと湧き起こる怒りに突き動かされるようにそう呟いた時、扉が叩かれ、アウリールの声が聞こえた。


「殿下、アウリールでございます」


「入ってよ」


 返答するとアウリールが入室してくる。シュツェルツは尋ねた。


「アウリール、どうしたの?」


「それが、廊下を歩いているだけで、王太子派の方々や中立派の方々に声をかけられまして」


「またか。今日は何人くらい?」


「ざっと十人ですね」


「また面会かあ……」


 シュツェルツは若干げんなりしていた。

 帰国してから数日もたつと、王太子派の残党、もしくは中立派の貴族や聖職者、騎士たちが次々とシュツェルツに面会を申し込んでくるようになった。

 みな、兄に何かあったあとの次期王太子はシュツェルツだと見当をつけ、今のうちに取り入っておこうと思っているのだ。


 腹が立つのは、ついこの間までシュツェルツを第二王子だからと軽視していた者たちもすり寄ってくることだ。

 留学前にも似た経験をしているとはいえ、シュツェルツは彼らにとても敬意を払うことなどできなかったし、味方が離れていく兄が気の毒だった。


 帰国してから、シュツェルツは一日に一度は兄に会うようにしていた。兄はシュツェルツが見舞いに訪れると決まって喜んでくれる。

 常に母が一緒にいるので、多少気まずくはあったが、シュツェルツはやつれた兄の顔に生気が戻る瞬間が嬉しいと思えるようになっていた。


(そういえば……)


 今朝、朝食のあと兄の見舞いにいくと、彼は言ったのだ。


 ──また、食事を残してしまったよ。ねえ、シュツェルツ、生き物はどうして食べなければ死んでしまうのだろうね。


 病で食が細くなった兄は食事を摂るのが辛いのだ。それほど食に執着がないにしろ、いつもアウリールとエリファレットと一緒になんだかんだで楽しく食事をしている自分をシュツェルツはうしろめたく思った。

 シュツェルツは手元の閉じた本を撫でながら、誰にともなく問う。


「どうして生き物は、食事なんてするんだろう」


「どうなさいました、急に」


「いや、兄上がそうおっしゃっていたからさ」


 アウリールは優しく笑った。


「食べ物を口に入れて消化しなければ、エネルギー不足で死んでしまうからですよ。生き物は食べ物を体内でエネルギーに変えるのです。それに、殿下のような育ち盛りのお方にとっては、丈夫なお身体を作るためにも必要不可欠なものです」


「ふーん。不思議だね。パンやチーズが、僕たちの身体を動かすエネルギーや身体の材料になるだなんて」


「さようでございます。まだまだ分からないことだらけですよ、人体は」


 では、薬はどのような仕組みで人体に効くのだろう。

 その辺りも説明できたほうが、兄が薬を飲みたくないとこぼした時も、説得しやすいかもしれない。

 シュツェルツはアウリールに訊いてみる。


「だったら、薬はどんな風に人に効くの?」


「まず、食べ物のように体内に吸収されたあと、特定の臓器で分解されることによって、強すぎる効果が弱まるようです。解毒といっても言い過ぎではございませんね」


「へえー。薬と毒は紙一重って、本当なんだね」


「はい。副作用というものがございますように、薬は人体に影響を与えますから、害にならないように分解されるのでしょう。その後、薬は血液によって患部に届き、薬効を発揮すると言われていますね。そのあとで再び分解され、飲食物と同じく体外に排出されるようです。これも、薬を体内に残さないためですね」


(あれ……?)


 一瞬、変な感じがした。

 だが、何が引っかかったのか、それが分からない。


「殿下?」


 アウリールが怪訝そうな顔をしている。シュツェルツは慌てて手を振った。


「ううん、なんでもない。それより、面会って誰が希望しているの?」


 アウリールは一人一人の名を挙げていく。どれも眠気を誘う名前ばかりだ。

 自分はよほどつまらなそうな顔をしていたのだろう。アウリールが苦笑する。


「殿下、たとえ形式的な味方であっても、引き込んでおいて損はございませんよ。殿下が円滑に王太子になるための助けになるかもしれませんから」


「そうだろうけど、会いたくない連中と面会しても、あくびが出そうになるんだよ」


 それに、そんな下らない連中が兄を見限ろうとしているのかと思うと反吐が出そうになるのだ。


「殿下!」


 よく通る声で呼ばれ、同時に扉が強く叩かれる。エリファレットだ。


「エリファレット、どうしたの?」


 シュツェルツが呆気に取られていると、エリファレットが部屋に入ってくる。ややきつめの端正な顔は驚きと興奮に彩られていた。


「失礼いたしました。実はベティカ公爵の使者の方が、是非とも殿下にお会いになりたいそうでございます」


「ベティカ公が……」


 ベティカ公爵といえば、この国の大法官だ。大法官は外国の宰相職に匹敵する。それほど高い地位に就いているからか、ベティカ公は今まで王太子派にも第二王子派にも属さず、中立を貫いてきた。その彼が使者を通して自分に話があるという。

 シュツェルツが目を向けると、アウリールは頷いてみせる。


「大魚が釣れるかもしれませんよ」


 シュツェルツはエリファレットに命じた。


「今すぐ会うと伝えてくれ」


「はっ」


 部屋を出ていったエリファレットは、すぐに一人の男性を連れて戻ってきた。

 男性といっても、シュツェルツよりせいぜい二、三歳くらいしか年上でないように見える、驚くほど整った顔立ちをした黒髪の少年だった。身長はアウリールより少し低いくらいか。

 シュツェルツは座ったまま彼に促す。


「そちらにかけてくれ。僕が第二王子シュツェルツ・アルベルト・イグナーツだ。そなたの名は?」


 少年は優雅な動作でお辞儀した。


「初めてお目にかかります。ベティカ公爵マクシミーリアーン・ハーフェンの長男、ツァハリーアス・ハーフェンと申します。儀礼称号として、ゲヌア侯爵を名乗らせていただいております。お気遣い恐れ入りますが、本日は要件をお伝えしに参っただけですので、立ったままで失礼いたします」


 マレ貴族の嫡男は、父親の第二の爵位を名乗ることが許されている。にしても、このツァハリーアスという少年は落ち着いた態度といい、その優れた容姿といい、周囲が期待する若き侯爵としての資質を十分に兼ね備えているようだ。


 この場に女の子がいたら、さぞ、きゃあきゃあ騒ぐのだろう。

 なんとなく癪に障ったものの、相手がベティカ公の意向を受けて訪ねてきたことを思い出し、シュツェルツは顔に笑みを貼りつけた。


「好きにするとよい。ところで、ゲヌア侯はいくつなのだ? 僕とそう変わらないように見えるが」


「今年で十五歳でございます」


 同い年の分際で自分より背の高い彼が、シュツェルツは早くも嫌いになりそうだった。

 会話を広げるのはやめにして、さっさと本題に入ろう。


「……それで、お父君はなぜそなたをお遣わしに?」


「父は『近々、殿下に直接お会いしたく存じます』と申しております。『委細に関しては、その時にお話しさせていただきたい』とも申しておりました」


「ほう……」


 ベティカ公はずいぶん慎重な人物らしい。凡百の貴族は、シュツェルツに取り入るために謁見を申し込んでくるが、ベティカ公はシュツェルツの真価を確かめるために謁見を申し込んできたのだ。


 しかも、単なる部下ではなく大切な嫡男を使者に選ぶあたり、この面会を非常に重視していることを示唆している。

 これは、よくよく作戦を練って面会に臨む必要がある。


 とはいえ、これはチャンスだ。自分がスムーズに王太子になるための。

 ベティカ公を味方につけられれば、中立派も王太子派も一気にシュツェルツ側につくだろう。

 シュツェルツは笑みを浮かべ、ツァハリーアスに答えた。


「承知した。シュツェルツが是非お会いしたいと言っていた、と、お父君に伝えてくれ」

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