走る列車の中で
中学を出ると同級生とともに集団となって、私は列車へと乗り込んだ。
そうすれば、行く先で仕事が待っている。
いわゆる就職列車というやつで、私の若かりし頃はそんな時代だったのだ。
私が小さかった頃には子供でも働かされて、「俺が小学生の時にはこれくらいの荷物を運んだものだ。」なんてことを息子に話したこともある。
苦労してここまで生きてきて、定年をしてやっと、私は走る列車から降り立った。
あとはいつの日かに訪れるであろう、終着駅へと向かう列車を待つだけ……
そう考えていたが、ここに来て私は幾つもの思い違いをしていたことに気づき始めた。
そのきっかけは久しぶりに実家に帰って来た息子の、憂鬱なため息を聞いたからかもしれない。
大学を出ても仕事が見つからず、やがて仕事を転々とし、そしてまた失って、久しぶりに帰ってきた息子は歳をとったなと感じられた。
あるいは、一日の食事を減らす覚悟を決めたからなのかもしれない。
悠々自適に暮らしていた亡き父母の時とは違い次々と減らされていく自分の年金の数字を見て、妻とともにそう話し合った。
これまで必死に生きてきて、振り返ることの無かった人生も、振り返って見れば、周りの全てがあり得ないほどに変化したことに気づかされる。
定年が六十から延ばされたことを、「早く引退したいよ……」などと愚痴ったものだが、四十、五十で早期退職を迫られている今の後輩たちは、どんな想いなのだろうか?
毎朝とっていた日経の記事に触れつつ、暗に大手の金融会社に勤めていることを自慢してきていた隣の家の男は、今はどこにいったのだろうか?
――時代は変わった。
私が歩んで来た時間の中で、多くのものが次々に変化している。
そんなことに気がついた時、私は不思議な列車の中に立っていた。
ここはきっと通勤列車の中だ……
満員ではあるが、座席には杖を持った老人や子供を抱えた母親が座っていて、いつもよりもマナーの良い空間に感じられる。
しかしそんな中で、私の目には不快なものが入って来る。
一人の若い女性が、疲れた顔で立っている。
そんな女性にいやらしい顔をした男が、後ろからその身体を触っていたのだ。
「おい! 止めろ!」
すぐに私は、怒鳴り声を上げた。
その瞬間、見ていた光景ががらりと変わる。
強い風を感じて周りを見れば、そこに吊り革や座席はどこにもなく……
鉄の壁は錆びて朽ち果て、外が直接見えてしまっているような、ぼろぼろの車両の中だった。
――列車が走るのは、空の上なのか?
淀んだ雲と血のような色をした空が、私の目線と水平に見えている。
強い風が吹き振り落とされそうな速度の中で、貧相な男たちが、ある者は必死にしがみつき、ある者は力なく座り込んで、揺れる列車に乗っていた。
「――あなたはもっと前の車両の人間だろう?」
車両の真ん中で呆然と立っていた私に、急に男の声がそう問いかける。
声の方を見れば白い翼と衣装を纏った、神話に出てくるような天使が、朽ちた壁に座って何食わぬ顔でスマホをいじっているのだ。
「――――あ、あぁぁぁ」
「う、わ……」
そんな彼へと私が振り向く時間の中で、幾人かは列車から振り落とされて、目の前から消えてゆく。
「あんた……天使じゃないのか?
ここは? あれを、助け……ないのか?」
私は混乱した頭で、その天使に問いかけた。
すると天使はニコリと微笑んで、持っているスマホをこちらに見せて答えを返す。
「今はね、この魔法の道具で、この列車の仕組みを伝えている。この車両より後ろの車両にいる若者たちは……そのうちの幾人かは、それを見て地獄に堕ちない方法を知るだろう。」
翼を持った天使は動く様子も見せず、あまりに冷静にそう答えた。
私は危機に晒される人々を見やり、何かできないかと考える。
そんな私の目に見知った顔が……車両の端で壁に寄りかかっている、息子の姿を発見した。
息子は壁から堕ちそうなほかの者たちにしがみつかられて、今にも道連れにされそうだ。
だが、彼はその身体を壁に引っ掛かているだけで、その手は何をも掴む気もなく、ただ力無く床に着いてしまっていた。
私は息子に向かって走ろうとしたが、吹き荒れる爆風とスピードの恐怖に足が動かない!
「あんた、飛べるんだろ? 助けてくれ! 私の息子を……この車両の人間たちを助けてくれ!」
――私は思わず叫んだ。
天使はまた、ニコリと微笑み答えを返す。
「ここの者たちはもう手遅れだよ。何も知らず、何も教えられることなく生きてきた。」
私はその言葉に痛みを感じる。
天使はそれを見透かしたようで、優しい笑みで首を横に振り、気遣いの言葉をくれるのだ。
「あなたが悪いわけじゃない。
あなたは必死に生きてきた。これは、今だから気づけたことだよ。――彼らは運が無かったのさ。
確かに私は飛ぶことが出来るが、それはほんの数人を抱えてだ。彼らは必死にしがみつく……何人も、何人も。支えられないほどの彼らの重みに、私はきっと飛べないだろう。だけど、しがみつくものさえ無くなった時、人は本当の絶望に堕とされる。
私はもう、一緒に堕ちる覚悟はできているよ。」
そう、天使が言い終えた瞬間……
目の前の車両は腐ったように、たくさんの人間を乗せたまま、音も無く下へと堕ちていった。
――息子も、天使も、一緒に消えた。
目の前には赤い空の上を通るレールが見えて、遥か先に切り離された、後方の車両が見えていた。
汽笛に気づけば、私は連結装置の見える車両の端に立っている……そこはまだ走る列車の上だ。
車両の中は先の車両と違い、まともで、壁もあれば席もあって、それは古い、中学を出てから乗り込んだ……あの時に私が乗った列車の中のようだ。
乗っているのは私と同い年くらいの、もう若くはない老人たち。
座る者、立つ者、悪魔に煽られて走る者。
よく見れば誰にも気づかぬように、そっと一人、また一人と、窓から外に堕ちてゆく。
あの時、私が乗った列車は止まらずに、次々と人を振り落としながら、未だ線路の上を走っている。
私はどこに……立っているべきなのだろうか?
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