月より堕ちた女

幽美 有明

ビルから堕ちる

 静かな夜だ。窓から見える月は白く大きく輝いている。まるでかぐや姫が帰る晩のように。



「お前なんて、産みたくなかったし育てたくもなかったわよ!」

「あっそ」


 ヒステリックな女の叫び声が鼓膜を揺らし、それを脳は声と認識し言葉に変換する。


 産みたくなかったし、育てたくないなら。なぜ妊娠した時に堕ろさなかったのか。なぜ、孤児院などに預けなかった。

 なんで今更それを言うのか。


 そんなこと、問うたところで答えが帰ってくることは無いのがわかっている。

 女が産んだことは素直に賞賛する。激痛に晒されながらも、私という存在を生み出したのだから。

 でもその後に私は育てられたかと言えば、育ったという方が正しい。


 飲んでいたのは粉ミルクだった、それも熱々の火傷しそうなほどの。

 おしめを変えてくれたのなんて、最初だけ。後は匂いに耐えきれなくなるまで放置だった。

 私がハイハイよりも先に立ったたのは、一人でトイレをするためだよ。


 私が普通だったら。とっくの昔に死んでいる。

 私には自我があった。いつからと言えばお腹の中から。

 産まれる前からわかっていた、父親が居ないことを。

 私を産んだ女は妻帯者の不倫相手だった。危ない橋を渡るスリルと愛を履き違えた恋だった。

 相手もそのスリルを楽しんでいたに違いない。

 触れ合うだけだったスキンシップはエスカレートし。互いを求め合うまでに至ったらしい。

 欲求を貪るだけの愛は、不幸にも私という存在を女の中に生み出した。


 それから女と男の関係は破局へと向かう。

 幾度と繰り返された関係の末に、女は月経が来ないことを怪しんだ。

 最初は月経が遅れているだけと、空っぽの頭で思考していたようだが。それが2ヶ月目になると、恐怖で思考が満たされた。当然その2ヶ月の間も関係は続いていた。

 そして女は簡易検査キットで私の存在を知る。

 ここで女は選択するべきだったのだ。私を堕ろす選択を。

 だが、女は愚かにも隠すという選択をする。

 3ヶ月4ヶ月と月日が流れるにつれて、私の存在は大きくなり。ついには男に私の存在がバレてしまう。

 そこからはただ堕ちるだけ。男という拠り所を失った女は、家族を頼った。


 当然家族には大きな雷を落とされ。しかし私を産むことになった。

 子供に罪はないのだからと。

 罪はないが、生まれた後に罪を背負わされるのなら。遅いか早いかの違いではないか。

 女が更生すれば、罪を背負うことは無かったかもしれないが。女が更生することはなく。


 産まれ堕ちてからの育ての親は、女の親の方だったろう。私としても、親と言うならば女の両親を呼びいたい。

 赤子から幼稚園生となり。私は手のかからぬ子供であった。自我があるのだから当たり前だが。

 そして小学生になり、中学生になる頃には一人で生きていた。

 女も、女の両親の手もほとんど借りずに。


 そして高校生になると、女の両親が死んだ。一般寿命からすれば少し早いくらいだ。

 それが女を更におかしくした。

 それが今の状態なのだ。


「お前さえ存在しなければ私は、両親は死ななかったんだ。全部お前のせいだ、お前が生まれてきたから!」

「じゃ。さよなら」


 いくら叫ぼうと、現実は変わらない。起きてしまったことは、もう巻き戻せない。

 盆からこぼれた水は、元に戻すことはできないのだ。

 初めから、盆から溢れている私の様に。


 制服にジャンパーを着て家を出る。手荷物は高校のバッグだけ。と言っても中身なんてほとんど無いが。

 夜の街を歩く。このまま何処へ行こうと言うのか。

 月を見上げれば、その横にビルがあった。工事中なのか、改装中なのか、解体中なのか。


 私はそのどれでも良かった。ただ、月の近くに行きたかった。


 月明かりに導かれ、ビルの足元までたどり着く。

 人の入れないように、囲いがされてるが。入口はまだ開いていた。


 入口から覗き込めばそこにはプレハブか置いてあった。複数あるプレハブのうちの一つ、暗い闇の中で一つだけ光が点っていた。

 まだ人がいるようだ。でなければ入口も閉められているだろう。


 あかりが付いて人が居る。それがなんの障害になろうか。

 工事中のビルの中に入る。

 むき出しの鉄筋。真新しいコンクリートと靴がぶつかる。澄んだ音が辺りに響く。

 コンクリートに触れると、冷たい柱がひんやりと体温を奪う。


 壁がなく、微かな月光がビル内に差し込んでいる。

 月光が示す先には、上階に繋がる階段があった。

 月が私をこっちにおいでと誘っているようだ。


 月光に誘われるままに階段を昇っていく。昇れば昇るほどに。当然地面から離れていく。


 そして最上階にたどり着いた。

 天井がなく、夜空が一望できた。眩しいほど光り輝く都会と、静まり返った住宅街。

 夜空には北極星だけが、眩く輝き月と共演している。

 そこに今、私も混ざったのだ。

 夜と月に身を包まれ。私はビルの縁に立つ。真下は遠いようで近い地面が。上には近いようで遠い空がある。

 危うさと綺麗は共存している。

 空と街に背を向ける。見えるのは無機質なコンクリートだけ。

 左手を肩と同じ位置まで持ち上げる。

 肘を曲げて耳の横まで手を持ってくる。

 小指、薬指、中指を握り込む。

 人差し指は伸ばしたまま、親指を軽く曲げる。

 その形は、銃を模した指鉄砲。


「バンッ」


 声と左手が跳ね上がる動きがシンクロする。

 私の体は後ろに傾き。視界いっぱいに夜空が映る。

 満月が私を照らしている。

 このまま私を連れ去ってくれないだろうか。

 かぐや姫のように、月から迎えが来ないだろうか。

 そんな無意味なことをついつい考えてしまう。

 落下とは不思議なものだ。堕ちているのに、まるで浮いている錯覚がある。


 親鳥は雛を巣から突き落とすのだという。それは翼で羽ばたくことを教えるためだ。


 ならば私も空を飛べるだろうか。


 そんな思考を邪魔するように、視界に手が見えた。

 私の手じゃない。誰かの手だ。

 顔を動かせば、そこにはヘルメットを被り作業着を着た男の姿。

 プレハブに居た人間が私を追ってきたようだ。

 口を大きく広げ何かを叫んでいる。


「くそっ!」


 何に対する悪態だろうか。私かそれとも自分だろうか。

 伸ばされた手は私の右手を掴み、しかし男を巻き込み堕ちていく。

 近くで男の声がする。


「あぁぁぁぁぁ!!!!」


 落ちることへの恐怖だろうか。それとも思考を放棄した叫び声だろうか。

 なんでもいいただ煩かった。

 意味もなく男は落ちながらも私の体を抱え込む。


 死ぬ間際に、欲求を満たさんがための行為ではなく。

 それは己を犠牲にしてでも、見ず知らずの私を助けんがための行動だった。

 愚かで、しかしなんとも人間らしい行動ではないだろうか。


 人とは愚かで醜く、時として美しいものなのだと私は思う。最後に見るのが人の美しさで良かった。

 そう思う反面、それが惜しく思えた。

 この人間の美しさを、これで終わらせるのは勿体ないそう思うのだ。


 私は鳥ではない。手をばたつかせたところで、飛べやしない。

 風船では無いのだから、浮くことも出来ない。

 人であれば堕ちるしかない。

 人であったならば、堕ちるだけだった。


 私は元より、人ではなかったのだ。


 月光が私を照らす。

 スポットライトのように、私とついでに男を照らすのだ。

 身体が風を裂く音は聞こえない。


 男の叫び声は止まっている。

 堕ちる体も止まっている。


「かぐや姫が月に帰るのを邪魔するとは、無粋な男もいたものだ」

「えっ」


 男の中で思考がまとまらぬのだろう。それも当然だろう。宙に浮いているのだから。

 浮きながら、体はゆっくり下がっていく。地面に段々と。


「されど男よ、お前の美しさをまだ見たいと私は思ってしまった」

「ど、どうなってんだ」

 私の体を下にして男が起き上がるが、その程度で堕ちるわけが無いのだ。


「話など聞いてはいまいが、私は今決めた。お前の美しさ、まだ近くで見せておくれ」

「君は、なんなんだ」


 驚愕の顔が、男に張り付いている。


「月より地に堕とされた女。かぐや姫と言うのだろう? かぐや姫を引き止めるとは、罪作りな男だとは思わないか」


 地面に足がつき、私と男が並んで立っていた。初めからそこに居たように。

 夜空の月はただそれを照らしている。


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