28:亡くなったその慈悲に、ささやかな弔いを

「――ぅ……? ここ、は……?」


 重い瞼を開いて、ゆっくりと目を開ける。ぼやけた視界が何度か瞬きすることによって鮮明になっていきました。

 そこは薄暗い部屋の中。窓から辛うじて入り込む街灯の光が完全な暗闇になることを防いでいます。

 見覚えがない場所で自分が寝かされている。本来なら危機感を抱いてもおかしくないのに、ただぼんやりすることしか出来ません。


(私は……確か文恵から手紙を受け取って……それで相良さんと会って……彼女がネクローシスで……あぁ、そうだ、私は――)


 天井に手を伸ばして、けれど力が抜けてすぐにベッドの上に落ちていく。


「……負けたのですね」


 ただ、その実感だけが胸を支配していました。

 今の自分に出せる全てを出し切って、その上で敗北した。

 あれがネクローシスの総帥の力。確かに頂点に君臨するに相応しい王者の姿でした。

 不思議と悔しいという気持ちは湧かず、小さな達成感を残しながらも心は虚しく渇いていました。


(……何もする気力が、湧かない……)


 ここはどこなのか。相良さんはどこに行ってしまったのか。この見慣れない部屋はもしかして彼女の部屋なのだろうか。

 確かめなければならないことはたくさんあった筈なのに、泡のように浮かび上がっては弾けるように消えていきます。


(……私は、どうして――)


 思考が何一つままならないのに、それでも何かを考え続けようとして溺れ続ける。

 そんな無為な私の思考を止めたのは、無機質な着信音でした。


(私の……スマホ……)


 着信が入ったことで暗闇の中で光が灯ったスマホは、すぐ側にあった。

 私の寝かされているベッドの傍には私の手荷物が置かれていて、そこにスマホも一緒にあった。

 私はスマホに手を伸ばして画面を確認する。そこに表示されていた名前を見て、私は一呼吸を置いてから通話に応じた。


「……もしもし」

『――ようやく出たか。一体何をしているのだ、お前は?』

「……お父様」


 通話の相手は、お父様だった。

 用件がある時以外は私に電話などして来ない人なのに。


「何かご用事がおありで……?」

『何を言っているのだ? 今、何時だと思っている。何故、屋敷に戻っていないのだ? 今、どこにいる?』

「……わかりません」

『わからないだと?』

「……倒れて、今、目が覚めて……」

『倒れただと!?』


 聞いたこともないお父様の声が耳に突き刺さります。思わずスマホを耳から離しそうになってしまいましたが、なんとか手放さずに済みました。


『自分がどこにいるかもわからないと!?』

「……知人と会っていたので、恐らくその方の家かと」

『自分の体調管理もままならないのか! 知人の方とはどなただ、すぐに謝罪に参らなければ!』

「……お父様」

『まったく、最近のお前はどうしたというのだ! 友達が出来たとは聞いてはいたが、そのお付き合いしている友人というのは良からぬ輩ではないのか!? 帰ったら詳しく話を聞かせて貰うぞ!』

「……」

『何か言ったらどうなのだ! お前は我が家の一員なのだ、家の恥になるような振る舞いは謹めと、あれ程――』

「――私の話を、聞く? いつも、いつも、兄ばかり見ていた貴方がですか?」


 何かが罅割れていくような感覚が、胸の辺りから消えません。

 自分が今、何を喋っているのかもわからない。手が震えている理由も、視界が滲む理由も何一つわからない。


「私なんて、ただの家の置物程度にしか思ってない方が、何を今更」

『――お前、今なんと言った?』

「気付いていますか? お父様……さっきから、貴方は――〝お前〟としか、私を呼んでないんですよ? 娘の名前を、もしかして忘れましたか?」

『なっ……そんなことある筈がないだろうが! お前は私の娘だぞ!』

「またお前……お前、お前、お前お前お前って! 私の名前はお前じゃない!」

『なっ……い、一体どうしたというのだっ? おま、……何があった? どこにいる? 今すぐ向かう、場所を教えなさい! わからないなら目印になるものを――』



「――もう、いいです」



 さらさら、何かが零れ落ちて流れていくように。

 口の端が上がって、唇が笑みの形を取るのを止められない。

 あぁ、心がスッとする。軽くなった心は、今の素直な気持ちを私に告げさせる。


「兄がいれば、私など要らないでしょう? それならどうか、最初からいなかったものとしてお扱いください。二度と家の名前も使いません。貴方の娘だとも名乗りません。捨ててください。……忘れてください、私のことなど。それで勝手に幸せになってください」

『待て! 勝手な真似は許さんぞ、親に向かって何と言うことを! ッ、いや、違うっ、わかった! お前の話を聞こう、だから落ち着きなさい、めの――!』



「――さようなら。もう二度と、永遠に」



 通話を切断すれば、静寂が戻って来ました。

 かちかちと、何が鳴っているのかと思えば自分の歯が噛み合う音だったようです。

 それに気付いた私は歯を食い縛る。そして、湧き上がってきた衝動に任せてスマホを壁に投げつけました。


「あぁ――ッ!」


 壁に叩き付けられたスマホが鈍い音を立てて転がる。

 胸の中から何かが零れ落ちていく。穴が空いてしまったかのようだ。中身を失った何かが、胸を掻きむしりたくなる程に不愉快でした。

 こんなの私じゃない。今までどうやって息をしていたのかも忘れてしまったかのようで、苦しくて仕方がない。



「――瑪瑙ちゃん」



 ふと、光が差し込んだ。顔を上げれば、そこには相良さんが立っていました。

 ドアから漏れた光が部屋の中に入り込む。その光が逆光となって、相良さんの表情がよく見えない。



「……相良さん、私」

「……何?」

「……壊れちゃった」


 あんなに頑張ったのに、あんなに耐えてきたのに、こんなにもあっさりと。


「……壊しちゃいました」

「……うん」

「……わかる筈なんて、ないですよね。魔法少女なんて、父が信じる訳がなくて」

「……うん」

「なんで、もしかしたらなんて、思えるのか、今、全然、わからなくて……!」


 声が震えて、堪えるようにシーツをかき寄せて掴んでしまう。

 そうして俯いていると、私の頭にぽんと、相良さんが手を乗せた。


「不思議な力があるなら、神様がいるのかもしれない」

「――――」

「神様が見てくれるのなら、良いことをしたのなら、その努力に報いてくれるかもしれない。……そうして神を見出して、祈りを捧げる人もいるわ」

「……ぁ、ぁぁ」

「自分に理解出来ないものがあるのなら、そう考えてもおかしくないのよ。だって貴方は……ただの、物わかりが良いだけの子供だったのだから」


 ――自分の口から、到底自分のものだとは思えない泣き声が零れた。

 両手で目を覆って、流れていく涙を受け止める。背を丸めていないと自分の身体が支えられなくて、小さくなることしか出来ない。


「消えて、しまい、たい――!」


 なんで、あの家に生まれてしまったのだろう。

 なんで、優しくならなきゃいけないのだろう。

 なんで、私だけいつも一人ぼっちなのだろう。

 不満なんて幾らでもあった。でも私は賢いから、その程度わかっていなくてはいけないから。

 理性は欲望を戒める鎖。なら、この思いは過ぎた欲望だ。それならただひたすら強く締め付けて、二度と表に出て来ないようにしてきた。

 零れ落ちていく。全部溢れ出て、そして形になることなく消えていく。


「最初から、いなければ! 最初から、全部、なかったら良かったのに!」


 何も出来ずに、何もさせてくれないのなら。何をしても、もうどうしようもないなら。

 どうして私を、この世界に産み落としたの――!?

 どれだけ、そうして泣いていただろう。どれだけ、そうして震えていただろう。


「……私、は」


 もう、この人生に何も心が動かない。

 全ては無駄だった。そんな人生に擦り切れて、疲れてしまった。

 このまま眠るように死ぬことが出来たら、どれだけ楽になれるだろうか? そう思ってしまう程に。

 そう思いながら目を閉じようとした時だった。突然、私のシーツを握り締めた手に何かが触れた。


「え……?」


 そこにいたのは、子供の落書きが実体化したような、のっぺりとした黒い何かがあった。まるでお面のような形をしている。それを見た瞬間、過去の記憶が鮮明に思い出された。


『えっ!? 瑪瑙ちゃんってお祭り行ったことないの!?』

『それなら今度、皆で一緒に行く?』

『それいいね、文恵ちゃん! 皆でお祭りに行こう!』


 真珠と文恵と友達になった後、お祭りに参加したこともないと言ったら連れ出された。

 その時に見た、親に手を引かれた子供たちがつけていたもの。それがお面だった。

 親子の楽しそうな笑顔と声が忘れられずに覚えてしまっていた記憶。それを呼び覚ますような、けれど似ても似つかない不気味な仮面。なんでこんなものが急に……?


「それはね、貴方が倒れてから側に現れるようになったものよ」

「……え?」

「ネクロシードが変化したものね。……なんでこんな姿になっちゃったのかしらね? 流石に私でも気味が悪いと思って何度か捨ててきたんだけど、引き寄せられるかのように貴方の側に現れるのよ」

「……呪いの仮面ですか?」

「そうね。でも、それを被れば新しい貴方になれるかもしれないわよ」

「……新しい、私?」



「――ねぇ、私と家族になる? 瑪瑙ちゃん」



 私は顔を上げて、ベッドの淵に座っている相良さんへと視線を向けた。

 彼女はただ真剣な表情で、私を真っ直ぐ見つめている。


「私は悪人よ。決して貴方に真っ当な人生は送らせてあげられない。もっと楽に終わりたいというのなら手段は他にも幾らでもある。……それでも、選択肢が与えられるのなら、それを示すのがどんな大人であれ、私がすべきことだと思ってる」

「……選択」

「それに惜しいと思ってしまったの。貴方は、この世界で生まれるにはあまりにも異質で、歪で……とても懐かしい目をしていた。私が知っている人たちによく似た目をしていた。そんな人を救えたら、なんて夢を私も見てしまったから」

「相良さん……」

「家族になるって簡単なことで、同時にとても難しいことだとはわかってる。それでも貴方が望むなら、私で良ければ貴方の家族になってあげる。……どう? お姉さんに誑かされてみる?」


 どこか意地悪く笑いながら、でもその目には慈しみを込めて相良さんは私を見ていた。

 今も、胸の側で空いた穴から何かが零れ落ちていく。心は活力を失い、無気力な終わりへと向かっている。

 このまま目を閉じれば楽になれるかもしれない。でも、あとほんの少しだけ、生きてみようという気持ちが沸いて来た。

 今までの自分は、もう戻って来ない。何も考えられない生きた屍のようだ。それをもう一度蘇らせるとなるなら、確かに新しい自分が必要だ。

 それがたとえ、被りもののようなハリボテの自分でもいいから。


「……どんな私でも、家族になってくれますか?」

「責任は取るわ。それが貴方を看取る私のすべきことだもの」

「……ありがとう、ございます」


 あぁ、良かった。看取ってくれる人がいて、本当に嬉しい。

 さようなら、今まで頑張ってきた私。それがどんなに無駄な努力だったとしても、この思いを悼み、弔ってくれる人がいてくれたよ。

 そうして、私は目を閉じて手に取った黒い仮面を顔に当てた。顔につけた仮面は私の顔と一体化していき、一気に意識を暗転させた――。

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