その時伝えられなかった言葉を

『おもかげ』浅田次郎(講談社文庫)


 浅田次郎という作家は人間ドラマの魅せ方がつくづく上手いと思う。


 定年退職を迎えた本作の主人公である竹脇は送別会の帰り道で突然意識を失い救急車で搬送される。集中治療室で寝たままの竹脇は、やがて招かれるように繋がれたチューブを解き起き上がる。


 と内容を知らぬ方ならオカルト作品かとも思うだろうが、この辺りは料理で言えば前菜。ボクシングなら軽いジャブだ。様々な視点を用いて浮かび上がらせる竹脇の人柄や生き様は、時に中華、あるいはフレンチと読み手の舌を飽きさせない。これが描き方、つまりは上手いと舌を巻く浅田マジックなのである。


 私の両親はすでに他界している。父親は去年。母親が亡くなったのは…。十六年前になるのか。数字がすぐに浮かばないのは、それだけ時間が経過して記憶が曖昧になったからなのだろう。


 十数年でもこの様である。ならばこの竹脇の幼い頃ならば、曖昧どころか忘れてしまっていても当然かもしれない。


 しかし、病室を抜け出すことで様々な記憶を呼び起こす。限りなく空白に近い戸籍謄本の理由が徐々に明らかになってくるのである。ある意味、謎解きのような物語でもあるが、メインディッシュがテーブルに届くころには、靄の掛かった空が一気に晴れ渡って行く。ただし、それは妙に切ない。


 だが、仮に自分がこんな状況に陥ったならば、亡き父親、もしくは母親と現実離れのようなひと時を過ごすのも悪くないと、読み終えた直後に思った。


 そして、その時は記憶から薄れ去ってしまった幼いころの時間に帰り、若々しい両親と他愛もない話を語り合ってみたい。

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