第8話 棘の龍一③
――俺はどうして、こうなった。
真っ暗な空間に鈍い音が響く。一切の光を通さないその場所に、希望はない。
鈍痛が体を襲う。
痛いと幾ら叫んでも、彼らが手を止めることはない。真っ暗だから、誰に暴力を振るわれているのかすらわからず、されるがままに体を傷つけられる。
少し、浮かれていたのかもしれない。
新しい環境に身を置いて、新しい出会いを通して、人との繋がりを求めて。浮かれていたから、今の自分はこうして傷ついているのだろう。
偏見や噂話を信じて、人を貶めるだけ貶めた。
あの時の自分は加害者だった。無抵抗の相手に、私利私欲に任せて暴言を吐いた。
――助けてほしい。
そんな気持ちが込み上げてくる。無抵抗に殴打され、体は悲鳴を上げている。おそらく、彼らは自分をよく思わない人間たちだろう。少し顔が良くて、運動が出来て、尊大になった自分を。
誰も助けには来ない。
こんな、自分勝手な自分を助けるなんて、そんなお人好しなんて……。
希望の光が差し込んで、体を襲う痛みが途切れる。
自然と涙が零れ落ち、罪悪感が胸を締め付ける。自然と食いしばって、口の中が切れたのか、鉄の味が味覚を刺激する。
今、口を動かしたら絶対に痛い。でも、言いたい。
「――ごめんなさい。ホントにごめんなさい!」
自分の自分勝手な贖罪は、再び訪れた暗闇に消えていった。
ただ、最後に見えた大きな背中が自分の弱さをありありと物語っていた。
◇
須郷と佐藤という、2年3組のトップカーストに位置する人物たちの助太刀によって、朝の一件は何事もなかったかのように処理された。
しかし、龍一の中で彼の言葉は残り続ける。
『椎名さんからは手を引いてください。その方が、彼女のためになりますから』
進藤という一年生が去り際に放った一言だ。
彼の言っていたことは、殆どが事実を逸脱しているものだった。しかし、これだけは少し違う。
それは、龍一の懸念していた本心を代弁したような言葉だった。
もしかしたら、自分と一緒にいることで椎名という可愛らしい女子生徒の華やかな高校生活を台無しにしてしまうのではないか。そんな気持ちは、随分前から感じていた。
そのため、彼の最後の言葉はすっと龍一の胸の中に入ってきたのだ。
昼休み、龍一は少し重い足取りで南校舎へと歩いていた。もしかしたら、もう彼女は来ないかもしれない。
進藤という一年生は、十中八九、椎名こころに気がある。
自分とは違って、同い年でイケメンで、佐藤の後輩だというからサッカー部に所属しているのだろう。
龍一は自嘲気味に笑う。いつもと変わらないはずの階段が、ひどく長く感じる。
この角を曲がれば、踊り場が見える。
龍一は誰もいない踊り場を思い浮かべる。そもそも、ここ数日が異常だっただけで、本来は無人なはずの場所なのだ。陰っていて、埃っぽい。おおよそ、彼女のような美少女とは無縁の場所だ。
龍一は大きな一歩を踏み出す。
明るい。
龍一の足が止まる。自分の足と廊下とが同化したように、動かなくなった。
小さな女の子が、暗い踊り場に立っている。踊り場に設置された屋上へ続く扉の小さな窓から外を眺めている、ベージュ髪の女の子。
何故だろう、ひどく懐かしく感じるのは。
視線を感じ取ったのか、その少女と龍一の視線が交わる。瞬間、無垢な笑顔が浮かび上がる。
「花田先輩! こんにちは!」
今朝は会わなかったから、今日顔を突き合わせるのは初めてだ。
しかし、今朝からずっと彼女の顔が頭に浮かんでいて、初めて会った気がしなかった。
ゆっくりと階段を上っていく。
さっきまでは重力に押しつぶされそうだった足取りが、今は磁力に吸い込まれるような引力を感じている。
「――椎名、俺の父親は元暴走族なんだ」
龍一は独白する。椎名は真剣な表情で耳を傾けている。
「母親は俺を捨てて、どっかに行っちまって。ばあちゃんは二年前に亡くなっちまった」
龍一は言葉を続ける。
我慢していた言葉の数々が溢れ出して止まらない。誰にも、特に目の前の女子には一番知られたくなかった過去を、自ら明かしていく。
そして、自嘲気味に笑った。
「顔もこんなだし、いろんな悪い噂も後を絶えない。最近じゃ、子供を誘拐してるって噂まで立ってるらしい。それに――」
龍一の言葉が途切れる。甘い、シャンプーの香りが鼻を刺激する。
「――椎名?」
胸のあたりに飛び込んできた少女に声をかける。
突然の事で驚いていた龍一だったが、徐々に状況を理解する。
抱きしめられているのだ。それも、一個下のこんなに小さな女の子に。
胸が張り裂けそうなほど強烈に動き始める。
普段は気にもしなかった心臓のポンプ活動が、自分の耳にさえ届きそうなほど激しく循環する。彼女の頭は自分の胸辺りにあって、おそらく彼女にも自分の胸の鼓動は聞こえているだろう。
「先輩、大変だったんですね。でも、あたしは先輩のいいところ、いっぱい知ってますよ?」
少女は優しくそう呟く。
抱きしめている両手が、きゅっと自分の胴体を引き寄せる。彼女の優しい声は、血管を流れる激流をなだめる。
「困ってる人を見て見ぬふり出来ない所とか、どんなに傷つけられても相手を貶めようとはしないところとか。料理も上手だし、なのに自慢しないところとか……。
たった1、2週間くらいなのに、あたし、先輩のいいところ、いっぱい知ってます」
彼女は超能力者なのだろう。
龍一の言ってほしい言葉をもたらしてくれる。彼女の少し高い声が、龍一の心を癒してくれる。
「……ありがとな」
眼下にある、ベージュ色の頭は小さく横に振られる。
愛おしい。龍一の両手は彼女の華奢な体を抱きしめようとして――。
「――あ、あたし何て恥ずかしいことをっ! あ、あの、忘れてください!」
瞬間、椎名は顔を真っ赤にさせて龍一から離れる。
「え、いや忘れるって言ったって……」
龍一は行き場を失った両手を硬直させながらそう呟く。
この記憶を忘れ去ることは、おそらく難しいだろう。何か、嫌な事があった時は必ずさっきの彼女の言葉が頭に浮かんでくるはずだ。
しかし、目の前の少女は顔から火が出そうなほどに顔を紅潮させている。
「先輩! お願いします。……ね、忘れましたよね?」
上目遣いにそう言う椎名に、龍一は笑いをこらえきれなかった。
龍一は声を上げて笑う。こんなに笑ったのはいつぶりだろうか、それも人前で。もう記憶にないかもしれない。
龍一が笑う顔を、椎名はびっくりした表情で見ていた。
何も言わずに、じっと龍一を見つめる椎名の表情は、今まで一度たりとも見たことのない表情だった。それが何を意味するのかなんて、龍一にも、椎名にも分からない。
「――はぁ。あぁ、俺は何も見てないし、何も聞いてない。よし、飯だ飯!」
龍一はそう言って勢いよく踊り場に座り込むと、青い弁当包みを解きだす。
今日の弁当は自信作で、味付けも、盛り付けも頑張った。龍一と椎名は、やれミートボールが美味しいだ、アスパラのベーコン巻が美味しいだと言い合いながら弁当をつつく。
思ったよりも、世界は単純なのかもしれない。
自分が一歩踏み出すだけで、世界は色づき始めた。
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