第29話


 海斗が向かったのは、四ツ谷の古いアパートだった。一見すると目立たない普通の物件なのだが、玄関先の汚れ具合と廊下の灯りの色を見る限り、あまりこまめに管理されていない雰囲気だった。

「部屋どれだ?」

「2階の……右のはしっこだ」

 海斗がアパート付属の駐車場に車を入れると、時宗は部屋を見上げた。カーテンの隙間から灯りが漏れている。その部屋の右斜め下に玄関があり、階段は右の壁を沿うように上へ向かっていた。階段自体は建物内部にあるため、上の方は見通せない。

 時宗は車の窓を開け、周りを見渡した。住宅街なのだが、緊張した気配がビシビシ来る。アパート前の道路の、向こうの角と自分たちが来た角。両方から見られている。

 挟みうちにする気か。

 カーナビで地図を見ながら打ち合わせをすると、時宗はプリペイドスマホを使って、あらかじめタレコミという形で警察を呼んだ。15分で来る。

 ここが正念場だ。白いセダンの仲間からは、なにがなんでも逃げ切らなければならない。

 話が決まると、エンジンを切らないまま海斗が車から降りる。時宗も降り、2人で荷物を運び出す。一番怖いのは、荷物を届けた部屋にそのまま押し込まれること。

 2人はまず、協力してひとつずつスーツケースを階段の上まで運んだ。廊下に見張りはいない。だが下を見ると、塀の陰に黒い人影がある。そいつはこちらを見上げ、移動を始めた。

 来るぞ。

 緊張した顔で海斗がピンポンを鳴らした瞬間、住人が秒でドアを開けた。

「待ってたんだぞ! よく来たな!」

 変な方向に気合の入った男だった。異様にテンションが高く目が落ち着かない。ガリガリに痩せた男はこの真冬にTシャツ短パンという恰好だった。それでも汗が額に浮いている。暖房を入れすぎているのかと思いきや、玄関に漂う空気は外とあまり変わらない。

 海斗と時宗がスーツケースを運びこむと、男は奥の方でぴょんぴょん跳ねた。変な生臭さの混じった甘い匂いが玄関先まで漂ってくる。玄関と言わず廊下といわず、辺りはゴミで溢れかえり、生ゴミの匂いと男の体臭とで吐きそうだ。

 これ、ど~~~考えても覚せい剤中毒だな? あ~、こんなん使ってるから、部屋に押し込みたくないのか……使ってる方もバカだな。

 時宗はそう思ったものの、一切口を開かなかった。海斗もだ。2人はとにかく無言で、早く荷物を届けることに集中した。

 男が何も知らず、安い報酬で受取人をやらされているのは明らかだった。それは男の言動からもわかった。男は跳ね回り、瞳孔の開ききった目をギラギラさせながら「中身なんだ?! 中身なんなんだよ?!」とわめいていたのだ。

 スーツケースを2つとも運び込むと、海斗は男に行った。

「電話できます? 電話」

 男はハッと何かに気づいた顔をした。

「そうだ電話だ電話」

 大丈夫か?

 男はハイテンションのまま、ゴミ溜めみたいな部屋に戻っていった。テーブルに置かれたスマホを乱暴に取り、電話をかけ始める。カップラーメンの空容器が吹っ飛び、中から干からびたエビらしきものが、汚い床に落ちた。呼び出し音の後、男は相手も確認せずにぶつぶつ言い出す。間違い電話とかしないんだろか。

「な、なんかきたなんかスーツケースきた電話した電話した」

 男はそれだけを言うと電話をぶつりと切った。海斗はそれを見届けた瞬間、身を翻した。時宗もだ。バタバタっという足音がいくつもアパートの下で響いている。

 海斗は階段を駆け下り、最後は5段ぐらい飛ばして地面へ着地すると、車へ駆け寄った。時宗はその横を走り抜け、先頭にいる最初の犠牲者の首に、いきなり上段回し蹴りを叩き込んだ。そいつは簡単に吹っ飛び、2人目と3人目を巻き込んで地面をゴロゴロ転がった。

 時宗の横をかすめるように、海斗が発進する。入ってきた方向に向かって一気に向きを変えながらバックし、タイヤを鳴らしながら猛烈な勢いで角を曲がる。

 向こうで数人のわめき声がしたが、エンジン音はすごい勢いで遠ざかっていった。

「バカ野郎!!」

 残った数人が、ドカドカと足音を鳴らして反対の角へ走って行く。車で海斗を追うつもりだ。

 時宗の担当になった不運な連中は、ギラギラした目で時宗に向かってきている。

 目の前で3人転がされても、わかんないのかね。

 よろよろ立ち上がる3人の他に、あと2人。ひとりがボクシングの構えを取り、時宗に殴りかかってくる。

 時宗はそいつの拳を見て、ひょいと足払いをかけた。いとも簡単に重心をずらされ、奴はつんのめるように時宗に倒れこんだ。

 助けてやる義理はないな。

 自分よりデカい図体をかわし、襲い掛かってきた最後のひとりの腹に一撃。デカブツの方は隣の民家の壁に顔から激突し、最後の奴は立ち上がった3人をもう一度巻き込みながら地面に倒れこんだ。

 海斗とは違う静かなエンジン音が角の向こうから聞こえた途端、時宗は身を返し、アパートの横を駆け抜けた。パトカーが来たのだ。姿を見られるわけにはいかない。

 民家の隙間を抜け、時宗は地図を思い出しながら走る。

「時宗!」

 走り抜けた先の道に、滑りこむように海斗が着く。ドアを開けて飛び込む!

 ウォンと吹き上がるエンジン音と共に、海斗は一気に住宅街を抜け、少し広い、対面2車線の道に出た。バックミラーを見る。キレ散らかした黒いSUVが追ってきていた。

 海斗はスピードを上げた。周囲の車が止まっているかのように、それぞれの車間距離と反対車線を使って数台をかわす。イラついたSUVのクラクションがめちゃくちゃに鳴っている。

「どうやってまく?」

 海斗がニヤリと笑った。

「見てれ。あんなん千切ってやっから」

「期待してる」

 ふふん、と鼻を鳴らし、海斗は青信号を右に曲がった。片側3車線の大きい道は……。

「海斗……渋滞に突っ込んだように見えるんですけども」

「渋滞してんな」

「……ソウデスネ」

 夜8時を回り、車の量は減っている。それでも東京の道は北海道のようにはいかない。中央分離帯のある広い道は、すり抜けることもUターンもできない状況だ。

 どうすんだこれ?!

 時宗は後ろを振り返った。数台後ろにSUVはしっかりいる。運転席の奴が窓を開け、頭を突き出して怒鳴っている。

「止まれ!! おい止まれや!! 聞こえねぇのかよ!!!」

 周囲の車はドン引きなのだが、身動きがとれるわけではない。ドライバーたちが自分のドライブレコーダーを確認するのが見え、時宗は面白くなった。

「や~ね、煽り運転こわ~い」

「……時宗、お前の学校はサムいこと言うの教えてんのか?」

「失礼だな、これは俺がオリジナリティーを追求した結果だ」

 やれやれという顔で海斗が溜息をついた。

 車の列は信号が変わるたびにノロノロ進む。海斗は信号が近くなると、右折レーンに入った。

「どこでまくんだ」

「まぁ見てれ」

 車列が少しずつ進んでも、海斗はなぜか進まなかった。交差点まで残り数十メートル、数台後ろにはヤクザの追手。

 反対車線だったら車の量はもっと少ないのだが、こちら側は先の方で工事でもやっているのか、この時間にしては車の進行が遅い。

 何を考えているんだろう。信号は青になった。それでも、海斗は自分の前に誰もいなくなった右折レーンで、のほほんと止まっている。後ろの車がクラクションを鳴らしたが、おかまいなしだ。ヤクザの方も気づいていて、海斗の前に入ろうとやっきになって怒鳴っている。とはいえ直進の車たちは全員が結託したように車線を空けず、どうにもならないようだった。

「あいつら車降りてくるんじゃ」

「いや~、もう信号変わるからな」

 口ではそう言っているのに、海斗は進まない。直進の信号が黄色になった。こちらも、対向車線も、直進車が交差点から出ていく。

「時宗、シートベルトしてるよな」

「まぁ……いつもしてる」

「よし」

 右折信号にあと数秒で切り替わると思った瞬間、海斗は突然発進した。シフトが切り替えられていく。スバルは数十メートルの距離を利用し、強烈なスピードで交差点に進入する。体が前にガン!と落ちる感覚。尻をやすりでこすられるような摩擦。外に向かってギュウゥンと体がつぶされる。景色が横にざぁぁぁっと流れていく。

 死ぬ!と思ったところで車はぴたりと真っすぐ前を向いた。エンジンが唸る。すでにスバルは反対車線に乗り、追手の横をかっ飛ばしていた。

 怒り狂った男どもが、窓から顔を突き出してわめいている。

 海斗のスバルは颯爽と通りを駆け抜け、滑らかに車線変更して左折、続けて右折。

 シートベルトを体に食い込ませたまま、時宗は呆然と助手席に座っていた。

「…………今、何が起こった?」

「スピンターンかましてやった。面白かったべ?」

 時宗の方へ顔を向けた海斗の顔は、高揚感に輝いている。

「いや……何が起こったかわからなかった」

「え~? そうか? 前に荷重ちゃんとかけて……」

「説明しなくていい。理解が追いつかない。俺の頭がポンコツで大変申し訳ないんだが、説明は一件落着した後にしてくれ」

「そっか」

 海斗は時宗を見てニヤニヤしている。してやったりという顔だ。

「お前……すごいな」

「へへ」

 なるほど、この度胸と腕があるからヤクザにスカウトされたわけだ。

「どっかの住宅街にちょっと入って、札幌に電話しねぇと」

「あ、そうか……」

 ぼーっとした頭のまま、時宗はついさっき海斗が見せた顔を噛みしめた。ぼけっと呟く。

「やばい……クセになりそう」

「だべ?! 今度どっかの峠とか行って」

 海斗がスピンターンのテクニックをしゃべり始めたが、時宗は聞いていなかった。知恵と技術、それに度胸で勝利を手にした海斗の笑顔。

 最高……。

 これを最高と言わずして、何を最高と言うんだ?

 あの笑顔が見られるなら、ガードレール突き破って崖から落っこちて爆発炎上しても心残りはない。

 車、いいかもな。

 へろりと笑う時宗を乗せ、海斗は安全に電話できる場所を探して車を走らせていた。



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