第23話


 トイレに行ってから、2人は牛たんの丼をかきこんだ。塩をきかせて香ばしく焼かれた牛たんは、思ったより柔らかい。麦飯を包むようにして一緒に口に入れると、じゅわりと旨味が広がる。時宗は夢中で食べた。向かいで今野も黙々と食べている。

 セットのスープを飲み干すと、時宗は満足して息を吐く。今野も同じように食べ終え、ほうっと溜息を吐いた。

「んまかったな」

「あぁ」

 無言で人々を見る。トラックドライバーや旅行者、色々な人たちが思い思いに食事をし、お茶を飲んで休んでいる。今野と時宗の方を見る者はいなかった。あの白いセダンの奴は、たぶんこの空間にはいない。

 緑茶をゆっくり飲みながら、2人はぼけっと座っていた。今野は少し疲れてるんじゃないか。時宗はそんなことを考え、今野が行動を起こすのをゆっくり待った。

 昼下がり。はたから見たら、自分たちはどう見えるんだろう。仲良く旅行する友人同士? それとも仕事仲間? 考えてみたら妙な取り合わせだ。

 そういえば、弥二郎に電話してなかったなと時宗は気づいた。あれからどうなったんだろう。弥二郎の様子も気になるし、聞きたいこともある。

「すまん、電話してこないと」

 そう言うと、時宗は立ち上がった。

「終わったら直接車に戻るんでいいか?」

「ん。オレ車ん中でちょっと寝る。電話ゆっくりでいい」

 眠そうに手を振る今野を後に、時宗は建物を出て人のいないところを探した。プライバシーにかかわる仕事の電話だ。誰かに聞かれるわけにはいかない。

 だが歩いている途中で、スマホが震え出した。誰からだ? 弥二郎は最低限の連絡事項以外、あまり自分からかけてこない。

 表示を見る。敬樹?

 事務のバイトをしているから、敬樹は弥二郎や時宗が今どんな仕事をしているか知っている。こっちが仕事をしている時に電話をかけてくることは、ほとんどない。

 妙な胸騒ぎがして、時宗は歩きながら電話に出た。

 向こうは無言だ。

「敬樹か? どうした?」

 しばらくして、しゃくりあげるような変な声が聞こえた。

「どうした、何かあったのか?」

 ひゅ、という笛のような音。敬樹が息を吸ったのだ。これはまずいかもしれない。

「……敬樹、ゆっくりでいい。まず深呼吸しろ。俺に合わせて。息を吐いて……もっと吐いて……吸う。もう一回。ゆっくり吐いて……大丈夫だ。吐いて……吸う」

 建物の端を抜け、積み上がった雪のそばまで来て辺りを見渡す。ここなら心配なさそうだ。

「焦らなくていい。お前のペースで、話せるようになったら話せ。ちゃんと待ってるから」

 待ちながら駐車場を観察する。白いセダンは今のところ見当たらない。真ん中辺りを今野が歩いていくのが見える。車に乗り込み、仮眠するらしい。

「あ、あの、時宗さん」

「聞いてる。ゆっくり。お前が話せるようになるまで、ここにいる」

 ひゅー、ひゅー、という呼吸が、少しずつ静かになっていく。でもまだ時々不規則に息を吸い、しゃくりあげるような音を出している。

「大丈夫だ。落ち着くまで待ってる。深呼吸できるようになってきたか? ゆっくり、吐いて……吸う」

 声をかけ続けながら、時宗は5分ほど待った。敬樹の呼吸は落ち着いてきている。

 道に残った雪に靴を押し当て、その模様をじっと見る。

 悪い予感がしていた。敬樹がこうなるには理由があるからだ。

 敬樹の母親は、敬樹が物心つく前に離婚していたが、その後、かなりサイコパス気質の男と付き合い始めた。付き合った時期は長くなかったのだが、別れた後、その男のストーカー行為はエスカレートしていった。命の危険まで感じた母親は、新しい彼氏のところに敬樹を置いて姿を消した。その新しい彼氏というのが弥二郎の友人だった。ストーカー男は弥二郎の友人にも危害を加え、結局、友人は弥二郎に敬樹を託して逃げることになった。

 敬樹は小学生の頃、ストーカー男が母親や弥二郎の友人を恫喝する姿を何度も見ている。敬樹自身も包丁を突き付けられ脅されたことがある。

 弥二郎のところに来たのは5年前、時宗は父親とまだ縁は切っていなかったが、すでに弥二郎のところで寝起きしていた。

 そうした経験から、敬樹は恫喝や脅迫を極端に怖がる。パニックを起こし、呼吸がうまくできなくなるのだ。

 普段はしっかりしていて事務的なことを一手に担っている敬樹だが、久しぶりにパニックを起こしている。つまり、何かトラブルがあり、誰かが敬樹の目の前で恫喝された。

 時宗はじっと待った。電話口に集中し、敬樹の呼吸音を聞く。

「敬樹。落ち着いてきたか? 大丈夫だ。ゆっくり、息をするんだ。……そうだ。大丈夫」

 電話の向こうで、深く息を吐く音がした。

「時宗さん、あの、や、弥二郎さんが」

「うん」

「あの、変な人たちがドカドカ来て、弥二郎さんに『海斗と時宗って奴はどこだ』って詰め寄って」

「うん」

「弥二郎さんが、弥二郎さんが、『知るか。自分で探せ』って言ったら、ぶ、ぶん殴って」

「落ち着いて、深呼吸しろ。大丈夫、ゆっくり話していいから」

「ぼ……ぼくのことガムテープで縛って、パソコン、見て」

 ひくっと敬樹の喉が鳴った。

「焦るな。息を吐いて」

「でもなんにも見つけられなくて、それで、そ、それでファイルとかもめちゃくちゃにして、弥二郎さんを無理やり連れて、いなくなって、な、なって、それで」

「そうか。何時ごろだ?」

「さん、さんじゅっぷんぐらい前で、ぼくやっと、ひくっ、ガムテープ取れたから」

「そうか。ガムテープのぐるぐる巻きを素手で切るのは大変だ。頑張ったな。怪我してないか?」

「て、手首ガムテープの縁で切ったけど、あとは、だいじょぶ」

「切ったところは、ちゃんと手当できるか? ひどかったら病院に行けよ?」

「だい、大丈夫」

 時宗は、詰めていた息を吐いた。『海斗と時宗はどこだ』か。2人の名前を知っているということは、弥二郎が途中経過を報告し、それを受けたじいさんから今野の親戚にバレたなと時宗は踏んだ。ただ、弥二郎はなんで俺の本名までじいさんに伝えた? 事務所の調査員として仕事をしている時は名前が違うのに。しかも『調査員』としか普通は言わないはずだ。じいさんとは昔馴染みだと言っていたから、雑談でうっかり名前を出したのか?

 敬樹は、まだ続けようとしていた。息を吸い、何か言おうとしている。

「弥二郎さんが、時宗さんに言えって、連れてかれる前に、あ、あいつらがファイル探してるときに、ちっちゃい声で」

「なんて言ってた?」

「あの、『コーヒーに砂糖入れすぎんな』って」

 は??

「すごい真剣な顔で、絶対に時宗に言えって、何回も」

 いやそのセリフ、なんでこの超絶シリアス展開で言うんだ??

 うん、まぁコーヒーは好きだ。砂糖は毎回3杯入れるけども。弥二郎は、時宗がコーヒーを飲むたびにドン引きする。でもだからって、事務所が荒らされて自分が誘拐される時に言うことか? 砂糖の中に何か隠してある……とか?

 敬樹は、言わなければいけないことを全部言ったらしく、やっと呼吸が戻ってきていた。

 考え事は車に戻ってからしたほうがいい。時宗はそう判断し、敬樹に声をかけた。

「敬樹。少し落ち着いたか? 病院に行ったほうがいいか?」

「だ、大丈夫」

「そうか。頑張ったな。ありがとう。事務所は片づけるな。一切何も触らず、警察に電話する。できるか?」

「警察、呼んだほうがいいですか?」

「あぁ。こっちにケツを持ち込む気なら、受けて立つまでだ。大っぴらに騒いで物事を公にしろ。騒がれて困るのは向こうだ。泡食って弥二郎を返してくるだろ」

 うまくやれば、じいさんに持ち掛けて、今野を妨害しようとしている推定相続人を廃除させることができる。民法で定められている手続きだ。

「電話できるか? もし無理なら、俺の方から電話する。お前は上に帰ってゆっくり寝ていていい」

「いいえ……弥二郎さんが帰ってくるんなら、ぼく頑張ります。派手にパニック起こしたほうがいい?」

「あぁ。いい感じに騒いで、警察の前でぶっ倒れてもいいな。とにかく、されたことを全部バラせ。嘘はつくなよ。本当のことだけを話す。お前の受けたショックのツケはきっちり払わせろ」

 敬樹が笑った。

「うん。そういうのなら得意です。時宗さんは何時頃に東京に戻れますか?」

 時宗は耳からスマホを離し、ディスプレイを確認した。

「たぶんけっこう夜になると思う。8時か、9時か。できるだけ早く帰れるようにはするが、まだ菅生……えぇっと……菅生ってどの辺だ?」

「調べます。……宮城県、ですね。仙台のちょっと南」

「とにかく、その辺だ。今野が東京のどこを目指してるのかも、まだ聞き出せていない。もう少し見通しが立ったら電話かメッセージを送る。とにかく無理はするなよ」

「はい。弥二郎さんを返してもらわなきゃ」

 敬樹は弥二郎になついている。時宗から見ると恋愛感情に見えるほど、敬樹は弥二郎を慕っていた。自分の立ち回り次第で弥二郎が帰ってくると言われ、敬樹は気持ちを持ち直したようだった。

 俺が着くまで、なんとかなるだろうか。

「それじゃ、俺は東京に向かって移動する。それが一番早い方法だ」

「気をつけてくださいね」

「あぁ」

 電話を切り、時宗は即座に弥二郎に電話をかけてみた。予想した通り、電源が切られている。何度かかけたが繋がらず、ひとまず諦めて時宗は顔を上げた。北海道より気温は高いとはいえ、寒いことには変わりない。体は冷え切っていた。トイレに寄り、温かいお茶を自動販売機で買うと車に向かって歩く。

 動きながら考え続ける。弥二郎は無事だろうか。多分相当粘るはず。時宗を札幌で足止めしようとしたのは、これを予期していたからかもしれない。

 何も言わずに自分でトラブルを引き受けるなよ。

 いつもそうだ。あんたはなんの損得勘定もなしに、俺と敬樹を守ろうとする。あんたが父親だったら良かったのにと、何度思ったことだろう。

 良くないタイミングだった。東京に戻るには、もう今野の車に乗っていくのが一番早いだろう。そうは思うけれど、ここはまだ宮城県、東京まではかなりかかる。

 敬樹にもひどいストレスだ。本人は頑張ると言っていたが、弥二郎のことを心配しながら警察とやり取りしなきゃいけない。自分がそばにいてやれないという事実にイライラする。

 車まで行き助手席側からのぞきこむと、今野は運転席をほんの少し倒し、ほとんど座ったままの状態で寝ていた。毛布を頭までかぶっている。ドアに手をかけると、鍵がかけられていた。

 どうすっか。迷いながら運転席に回り込む。スマホで時間を見ると30分ぐらい経っていた。昼寝ならもう起こしてもいい長さなんだが、乱暴に起こすのは気が引ける。

 ガラス窓を軽くコンコンと叩いてみる。今野はもぞもぞ動き、毛布から顔を出した。

 その顔を、時宗は思わずじっと眺めた。

 こういうの、なんて言えばいいんだ?

 今野は寝起きのトロンとした目で時宗を見ていた。素直できれいな瞳を、けぶるような睫毛が縁取っている。唇がうっすら開く。軽く仰向いて小首を傾げ、時宗だと認識して嬉しそうに微笑む。

 今野はそのまましばらく、ぼけっと時宗を見てから、気がついてドアの鍵を開けてくれた。無言で助手席側に戻り、車に乗り込む。

「電話終わったんか?」

「うん……終わった……」

 じっと時宗は考え続ける。

 たった今、時宗にとって、今野海斗は敬樹や弥二郎と同等の大事な人間になってしまった。柔らかく時宗を見上げていた目が、苦痛や孤独に曇るのは絶対に許せなくなってしまった。

 今野の泣きそうな顔。敬樹の苦しそうな息。そして今野と時宗を守るために拉致された弥二郎。

 やりたい放題やってる連中は誰だ。

 この俺の大切な人間に、余計な苦痛を与えてる奴らは誰だ。

 高校の時以来の、深い怒りが時宗の中で頭をもたげていた。自分には力がない。でも考えることはできる。

 今野、俺は弥二郎を取り戻し、お前のトラブルを解決する。

 エンジンがかかり、車は滑らかに走り始めた。今野のしなやかな手がステアリングを操る。車は狭い道を抜け、本線と並走しながら加速し、やがて再び東京へ向かう。

 敬樹と弥二郎が心配だ。でもその根っこは今野のトラブルだ。雷が落ちたみたいに、頭は本格的にフル稼働を始めた。

 全員まとめて解決してやる。たとえどんな手を使ってもだ。この時宗様を舐めるなよ。


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