第9話


 車で東京まで行くというのは、時宗にはよくわからない方法だった。そもそも津軽海峡を車で越えられるのか? 冬の凍結路面での長距離運転も想像がつかない。さらにいえば、車で本州を縦断するなんて、運転が好きな者が趣味でやるぐらいしか思いつかない。

 今野は例の黒い小さい車に時宗を乗せ、丁寧な運転で札幌の郊外へ向かっているようだった。一言もしゃべらない。信号無視どころか黄色信号も無理に突っ切ることはない。速度は周囲を蹴散らす速さではなく、かといって人を苛々させるような遅さでもない。

 なんというか、今野の運転はどこまでも目立たないものだった。さすがに凍結路面には慣れていて、タイヤが空転することもなく、ブレーキングも丁寧。綺麗に緩やかに停止線でぴたりと止まる。まぁ……道路が真っ白で時宗にはどこに停止線があるのかわからなかったのだが。

 仕事って何だろうな。

 そう思いながら、時宗は札幌の街並みを見ていた。歩行者たちは少なかったが、地元民らしき人たちはぐらつくこともなく、目的地に向かってさくさく歩いている。誰もがしっかり着込んでいるが、女子高生はスカートから出た脚が寒そうだった。

 車の量は多い。それでも北海道の人間は皆、雪道での運転を心得ていて、余計なトラブルはなかった。

 今野は白い道を、車の流れに乗って進んでいく。一体なぜ東京に行かなければならないのか、仕事の合間にじいさんに会う気はあるのか、時宗に事情を話す気はあるのか、すべてがわからないままだった。

「……腹減ったか」

 今野は不意にぼそりと言った。

「まぁ、減ってるな」

 ぼんやり答えると、今野は慎重に右折しながら言った。

「約束あるから、先にそっちだ。それ終わったら昼飯食べる」

「わかった」

 車は表の大きい通りから逸れ、裏通りへ入ったらしい。道路は常に広いのだが、両脇に積み上げられた雪の量や、車の通行量でそれとわかる。今野はしばらく住宅街を走り、やがて川岸が見えるひらけた道へ入った。ほどなく行くと、倉庫のような建物にたどり着く。

 そこはシャッター全開の自動車整備工場だった。広いガレージの中は機械類が置かれ、棚には工具やらパーツやらがびっしり並んでいる。車が数台あり、真ん中あたりでは白いワゴンがリフトに乗せられ、宙に浮いていた。空間の隅では灯油ストーブが赤々と燃えているが、実質的には外と変わらない。

 梅干しみたいな顔の老人が、一台の車から顔を上げ、空いている空間に顎をしゃくった。

 今野はその場所に乗り入れると、エンジンを切らないまま車から降りた。老人が少し腰を曲げて歩いてくる。

「生田さん」

 今野が声をかけると、老人は面倒くさそうに手を上げた。時宗も助手席から降り、2人の会話を聞いてみる。

「また行かんきゃならなくなった」

「お前帰ってきたばっかりでねぇか?」

「うん……でもしょうがない」

 何か事情を知っているらしき老人は、偏屈ではあるが根は悪い人物ではないのだろう。少し哀しそうな、愛情のこもった目で今野を見ている。奥の方の、灰色のカバーがかけられた車を手で示しながら、老人はぼそぼそしゃべった。

「こないだ帰ってきた時に、全部見といた。ちょっとアンダー気味にしてあるけど、長く走ったらずるずるになるかもしれね」

「大丈夫、雪抜けたら向こうでもっかいセッティング見てもらう」

「ならいい。タイヤあれか?」

「うん、預けてあるから」

「そっか」

 老人は時宗の方をまったく見なかった。まるでいないかのように、完璧に反応しない。今野も時宗に何も言わず、ガレージの奥へ歩いていく。時宗は好奇心を起こして今野についていった。

 今野はガレージの一番奥まで行くと、ひとつ、深呼吸をした。それから灰色のカバーに手をかけ、一気に引っ張る。

 さぁっと鮮やかな青が、時宗の目を射た。

 広く晴れ渡った夏空のような。あるいは南国の夏の海のような青。深い光沢を湛えた車は静かにたたずみ、しかし果てなき旅へと人を誘っている。

 それは車高の少し低いスポーツカータイプの車だった。丸みを帯びたフォルムに可愛らしさを感じさせながら、見様によっては包容力のある美しい女性を思わせる。車については全然詳しくない時宗でも、その車が人を魅了する存在だということは理解できた。

「すごい」

 時宗が呟くと、今野は嬉しそうな目になった。

「スバルのBRZだ。ZD8型。FRだけど雪道けっこう粘るし。今回は天気予報より冷え込み厳しくなかったし、道南は雪そんなでもない。たぶん高速の規制も途中で切れるから」

 うん……そもそもFRって何の略だ?

 時宗のきょとんとした顔を見て、今野は呆れたように溜息をついた。

「車わかんねぇんか」

「全然わからん」

「ふ~ん」

「車って何種類も持ってるのか?」

「BRZと、あっちのキャスト」

 今野は再び無表情になると、ドアを開けて運転席に乗り込んだ。エンジンをかけ、メーターパネルを覗き込む。

 この車で東京に行くのか?

 見つめる時宗の前で、今野はゆっくりと車を動かした。乗ってきた黒い車に横づけすると、運転席から降りてくる。それから時宗を横目で見ながら後部を開けた。

「お前、手伝うって言ったべ?」

「あ~、まぁ」

 近づくと、今野は黒い車の後部も開けた。そっちには大きなスーツケースが2つ入っている。

「これ運ぶ」

 短く言うと、今野はそのひとつに手を伸ばした。

「お前そっち側持て」

 スーツケースを床に立てず、箱のように両側を2人で持って運ぶということらしい。時宗は黙って手伝った。何が入っているのかわからないが、かなり重く、確かにひとりでガタガタさせずに運ぶのは難しい。

 2つとも青い車の方に移動させ、他にもバッグなどを運ぶと、今野は黒い車の方を、青い車があった場所まで運転して持っていき、エンジンを切った。

「生田さん、あっちよろしく」

「わかった。無茶すんなよ」

「うん」

 素っ気ないやり取り。

 今野は青い車に乗り込み、リュックからタブレットを出しながら時宗をちらりと見た。乗れということらしい。

 助手席に乗り込み、時宗は今野の作業が終わるのを待った。カーナビがあるが、さらにその上に車載ホルダーでタブレットをつけている。それが終わるころ、老人がタイミングを見計らって道の向こうに出て誘導してくれた。

「……ちゃんと帰ってこいよ」

 今野が窓を開けると老人はそう言った。

「うん」

 今野は老人に軽く手を振り、車をゆっくり発進させる。

 BRZとやらのアルファベットで呼ばれた車は、そうして時宗を乗せて灰色のガレージを後にした。




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る