第7話


 今野が出て行った後、時宗はしばらくそのままダイニングキッチンの椅子に座っていた。下の方でシャッターが開く音がかすかに聞こえる。車で出かけるのなら、帰りは何時になるんだろう。

 時宗に帰る気はなかった。事情をちゃんと聞かないと、この案件は終わらない。今野の訳ありな様子がひどく気になった。立ち上がると奥の部屋へ行き、カーテンの隙間から下を覗き込む。

 真下の車庫の前で、今野が雪かきをしていた。スコップで雪をすくっては、アパートの横のスペースに積んでいく。黙々と作業をする今野を、時宗はずっと見ていた。

 雪や寒さの中で暮らすのはどんな感じなんだろう。時宗が耐えられなくなる寸前のタイミングを見ていて、今野は手を差し伸べてくれた。本当は時宗を追い払いたくはないのかもしれない。そう思うのは、読み違いだろうか。

 なぜ今野は、人生を諦めた目で、自分はいないのと同じだなんて言うんだ。

 考え込む時宗の眼下で、今野は雪かきを終え、黒い小さな車でどこかへ出かけていった。

 じっと見送った時宗は、リュックに戻った。鑑識などが使うような白い手袋をはめると、奥の部屋に戻る。

 決心したように、時宗はPCのスイッチを入れた。この際だ。何か今野の事情を理解するヒントを見つけてやる。探偵稼業やってる人間を、自分のねぐらに置いていくなんて不用心もいいとこだ。

 なんでもいい、今野を理解したい。あの目が柔らかく笑うところが見たい。

 自分でも変なんじゃないかと思うぐらい、時宗はそう思った。ストーカーだと思われたってかまわない。俺はただ、今野を説得する材料が見つかればそれでいい。



 結論から言うと、今野のねぐらには何もなかった。

 PCの中には書類一枚、写真一枚入っていない。ゲームがいくつもインストールされているだけで、今野の身元や現在の状況を示すものは一切見当たらなかった。

 ありえないことだ。家族や友人との写真、買い物、誰かとのメールのやり取り、やりかけの仕事、その他。現代の人間は、生きている限りパソコンに何らかの人間関係や生活の痕跡を残す。しかし今野のPCには、漫画とゲーム以外、見事に何もない。インターネットブラウザの履歴を見たが、恐ろしいことにエロ動画の履歴さえなかった。しかも漫画やゲームの購入はすべてコンビニ決済など足がつかない方法で、クレジットカードの記録はない。

 どういうことだ?

 いないのと同じ人間。

 今野はいつでもここから消えられる。二度と帰ってこなくても、何も本人は困らないのだ。無防備に時宗を置いていくわけだ。隣の空き部屋だけじゃない。この部屋もまた、空疎だった。

 時宗はむきになり、クローゼットの中や本棚などを、探したとバレないように慎重に漁った。でもやっぱり無駄だった。書類などの類は一切ない。病院の領収証も、年金などの通知も、銀行の通帳も何もない。ごみ箱にはコンビニやスーパーのレシートが捨てられているだけだった。

 今野は戻ってくるだろうか。

 そう思いながら、時宗は隣の302にもピッキングで入ってみた。がらんとしたダイニングキッチンには小さなテーブルだけが置いてあったが、上に郵便物が置かれているのを見た時、時宗はやっと今野を見つけた気がした。何もない部屋の真ん中に手紙が置かれている光景は、誰かを待っているような感じだ。

 だがそれも期待外れだった。年金や税金に関するものはない。水道や電気など公共料金の支払いだけは口座振替になっているようだったが、当然のようにそうした個人情報は通知に書かれていない。おそらく通帳もカードも身につけているか、どこかに隠している。全戸に入るダイレクトメールやチラシの類は、部屋の隅に積み上げてビニール紐で縛られていた。

 時宗は途方に暮れた。

 何ひとつ、今野が生きている証拠がない。今野が何者で、何を仕事にしているのか、わからない。

 ぼんやりと302の中をうろつく。奥の部屋に足を踏み入れ、クローゼットを開けて、時宗は中段に手紙がぽんと置かれているのを見つけた。数通だけ、それは大切なもののように重ねられている。

 持ち上げて、時宗は泣きそうになった。

 顧問弁護士が今野に送った、じいさんに関する手紙だった。

 あいつは、本当は東京に行きたいんだ。

 明らかに訳ありの生活。いないも同然の人間として雪の中を漂いながら、今野はきっと、自分の拠り所を見つけることに憧れている。

 寒い部屋の中で鼻をすすると、時宗は手紙の封筒や中身をスマホで撮影し、そっと元の場所に戻した。置かれている状況も撮る。

 何日かかってもいい。今野から本当の事情を聞きだして、東京に連れて行かないと。

 音を立てずに、時宗はダイニングキッチンを抜け、301へ戻っていった。



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