第6話


 かくんと首が動いた拍子に、時宗は目を覚ました。

 ここどこだっけ? あぁ……そうだった。胡坐をかいて壁に寄りかかっていたのが、いつの間にか、布団に埋まるように時宗は寝ていた。寝違えたらしくて、首が少し痛い。慌てて壁に耳を当てたが、隣の部屋は静まり返ったままだった。

 しまった。いつ寝落ちしたんだろう。隣の住人は帰ってきて寝ているのか、それとも部屋は無人のままなのか。

 顔を洗って……などと考えているうちに、奥の部屋で軽やかな着信音がして、男が電話に出た。引き戸は開いたままで、布団にくるまった男の頭が見える。

「はい。はい……え?! いやオレ、一昨日戻ったばっかってあんた知ってんしょ? いや……そりゃそうだけど……。天気チェックする……。うん。……しかたないんか。……わかった10時過ぎ……場所は? うん。わかった」

 今何時だろう? 傍らのスマホを見ると、8時を回った辺りだ。これから2時間後に、男は誰かに会わなければならなくなったらしい。

 電話を切ると、男はしばらく無言だったが、ピッピッという音からして、どこかに電話をかけ始めたらしい。かすかだが、呼び出し音がかすかに聞こえた。

 数十秒ほど男は辛抱強く待ち、それは報われたらしく、誰かのくぐもった声が応じた。

「あ生田さん? オレ今野だけど」

 は??

「いやだからBRZの。いい加減、人間の名前の方で覚えてよ。オレの番号まだ登録してくんねぇん?」

 ちょっと待て。今お前、自分の本名を名乗ったよな?

「今日の昼前、入れられる? うん。仕事入ったからそっち行く。うん。……多分。うん。よろしく」

 通話が切れると布団がぱさりとめくれ、裸足の爪先が床に下りる。スエット姿で髪がぼさぼさの男が起き上がり、スマホ片手に寝起きの顔でぺたぺた出てきた。

 ダイニングキッチンに足を出した瞬間、唖然とした顔の時宗と、眠そうな男の目が合う。それがハッと物事を思い出した目になり……。男の口が動いた。

「やべ」

 時宗の肩から布団がずり落ちる。

「お前……」

「いや、あの」

「お前が! 今野か!!」

 敷布団を蹴って時宗が立ち上がると、今野はダッシュで奥の部屋に逃げ戻り、引き戸をぴしゃんと閉めた。中から言い訳が聞こえてくる。

「その、すまんってこれには事情が」

 時宗は力まかせに引き戸を開けた。ベッドの横の窓に背中をくっつけ、今野は引きつった顔で時宗を見ている。時宗は怒りにまかせて部屋に踏み込んだ。

「おまえぇぇぇ昨日のアレ何だったんだよ! 隣帰ってこないって知ってたんじゃねぇか!!」

「いや知ってたけども」

「何なんだよ俺は顔面ブン殴られるわ、クッソ寒い外に何時間も立たされるわ。最初っからお前いたんじゃねぇか!!」

「すまんって」

「なんっっで嘘とかつくんだよ。行かないなら行かないで事情聞くし」

「あ~その、めんどくさくて」

「こっちは仕事で真面目にやってんだぞ!」

「……悪かった」

 息が切れた時宗が黙ると、今野は手を伸ばしてデスクの椅子を引きだし、そろそろと座った。時宗は入り口の枠に手をつき、黙りこくった今野を眺める。とりあえず、逃げ出す気配はなさそうだ。腕から力を抜き、時宗はダイニングキッチンに戻って椅子を引き、ぐったり座った。

 とりあえず、凍死する前に目的の人物に接触することはできたわけだ。それは良しとすべきなんだろうが、昨日の一連のくだりは納得いかない。こいつ、他人のふりして時宗を追っ払おうと思っていたわけだ。一日を無駄にしたことより、好感を持った男に嘘をつかれたことが、時宗にはこたえた。

 時宗が不機嫌に座り込んだのを見ると、今野は黙って奥の部屋から出てきて向かいに座った。

「マジで、なんで嘘ついて俺を追っ払おうとしたんだ」

 むすっとした声で訊くと、今野は横を向き、もそもそ答えた。

「だって……仕事あるし、上に言わないで札幌出るわけいかねぇし。今更じいさんに会ったって意味ねぇし」

「だったらそう言えばいいだろ。嘘つくって何なんだよ」

「……」

 そもそも、どうして隣の部屋番号が今野なのに、こいつはこっちに住んでる?

「隣もお前の名義なのか?」

「……隣にオレが住んでることになってる。郵便も全部そっち」

「2部屋借りてるってことか?」

 今野は黙って頷いた。

「なんでだ?」

「お前みたいなのとか来た時に、他人のふりで追っ払えるから」

「最初っから、追っ払うの前提か」

 今野は立ち上がり、ぼけっとした顔で機械的に冷凍庫から食パンを出した。それを2枚トースターに放り込んで戻ってくる。

「追っ払うっていうか、オレっていう人間はいないのと同じだから、いないっていうのは本当だ」

 どういう意味だ? 考えこむ時宗に向かって、今野は言った。

「パン食ったら帰ってくれ。オレは東京には行かねぇし、じいさんにも会わねぇ……オレいなかったって言っていいから」

「そうはいかないだろ。仕事、休みもらえないのか?」

「もらえない。オレは、仕事やめるのも、休むのもダメなんだ」

「休むのもダメって……しがらみとか、あるのか?」

「……そんなようなもん。仕事やめたくても、金足りねぇだろうし」

 今野は不意に窓の方を見た。遠くに行きたいと思っているような、寂しい目だった。人生を諦めてしまった切なさがあって、時宗は一瞬、その目に見とれた。凍てつく平原は、雪だけが地平線へ続いている。誰の足跡もない。哀しいほど遠くまで、今野の目は白い雪以外に何もなかった。

「いくらあれば、仕事やめられるんだ?」

「知らね」

 時宗はスマホを出して弥二郎に電話をかけた。

『おう、どうした』

 のんびりした声にかぶせるように、時宗は聞いた。

「じいさんの財産って、今野はどのぐらい受け取れるんだ?」

『おい、もう見つけたのか?』

「たぶん」

『たぶんってどういうことだ。おい』

「後で詳しく説明するから、とりあえずどのぐらいなんだ」

 電話の向こうでしばらく沈黙があった。なぜ、その基本情報を言うのにためらう? ファイルにも書いてなかったし。

『税金で減るとしても……おそらく億単位になる』

 一瞬、時宗の思考が止まった。どれだけの資産家だよ。どうりで、他の親族の妨害を心配するわけだ。深呼吸をすると、時宗は口を開いた。

「わかった。後でまた報告する」

 通話を切って今野を見る。無表情なまま、今野は座っていた。

「お前、じいさんから億単位の金を受け取れるらしい」

 今野の目が見開かれる。

「マジか?」

 立ち上がり、今野はトースターへふらふら向かった。タイミングよくチンと鳴ったのを開け、戸棚から出した皿にトーストを載せてテーブルに置く。冷蔵庫からバターを出し、心ここにあらずという感じで塗り始める。

「大丈夫か?」

「ん」

 青白い顔で、今野は無言だ。バターをしまうと牛乳を出し、マグカップに注いでいる。

「おい、こぼすぞ」

「ん」

 あふれる寸前で声をかけてやると、今野は牛乳のパックを持ち上げ、マグカップをじっと見ている。

 今野が呆然としているので、時宗は牛乳パックをその手から取り、適当なマグカップに自分の分を注いでから冷蔵庫に戻した。今野はふらふらと椅子に戻り、どさっと座ってトーストを見つめている。

「金足りるんなら、仕事やめられるんじゃないか?」

「ん……いや……」

 しばらく無言で座っていた今野は、数分もしてからぽつんと言った。

「たぶんダメだ。金あったらあったで、タカられて終わる。金ない時よりひどいことになる」

 沈んだ声だった。

「そんなにどうにもならないのか?」

「なんねぇ。……帰って、じいさんに言ってくれ。オレいなかったって」

「諦めてもいいのか?」

 気づくと、時宗はそう言っていた。人生、何かに全額ツッこんで賭けなきゃならない時ってあるんじゃないか? 今野を見ていると、なんとなくそう思ったのだ。金額なんか問題じゃない。持ってる全部を賭けて獲りに行かなきゃならないものは、多分存在する。

 今野が顔を上げた。青白い顔のまま、呟くように言う。

「もう……手遅れなんだ。オレはこっから出られね。……仕事行かないといけないから、それ食ったら……帰ってくれ。頼むから……鍵かんなくていいから。とにかく帰れ」

 トーストに手をつけず、か細い声でそう言うと、今野は洗面所に入っていった。身支度を終えると、無表情なまま奥の部屋で着替え、時宗の方を見ずにリュック片手でダイニングキッチンを横切っていく。

 玄関で靴を履きドアを開けると、今野は時宗の方へ振り向き、ほんのわずか微笑んだ。

「オレ帰ってくるまでに、ちゃんと東京帰れ。……したっけな」

 ガチャンと鉄のドアが閉まる。今野が話しているのは北海道弁だったのだと、時宗は寂しく冴えた頭で考えていた。


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