第2話


 さっっっむ!!

 飛行機と空港建物をつなぐボーディング・ブリッジに足を踏み出した瞬間、時宗は後悔のあまり機内に戻りそうになった。いやいや聞いてねぇ。ボーディング・ブリッジの時点で震えあがるなんて聞いてねぇ。

 頬が幽霊に撫で回されてるみたいだ。ひんやりした空気が、人の流れに合わせてぞわぞわ動いている。空港の中なんてどうせ暖房が効いているだろうなどと、浅はかなことを考えた自分を殴りたい。ダウンジャケットのジッパーを慌てて引っ張りあげると、時宗は走るようにして空港の建物に入った。中はまだマシだ。

 まったく。なんでこんなとこに来なきゃいけないんだ?

 仕事だ。当然だ。でもこの仕事、ほんとに俺がやる必要あるか? 探偵事務所の所長って、マメに動くんじゃなきゃ、やってけないんじゃないか? てことはつまり、この仕事はやっぱり弥二郎がやるべきであって……。

 考えるのはやめよう。さっさとその今野海斗とやらの家に行って、説得した方が建設的だ。

 身軽に動き回れるように、時宗はリュックひとつで来ていた。ターンテーブルで荷物を待つ必要はない。そのままゲートを抜けると、時宗は地下の駅へ向かった。新千歳空港から札幌まで、レンタカーで凍結路面に初挑戦するような度胸はない。

 電車の中では座れたが、発車するなり時宗はダウンジャケットに顔をうずめた。

 どこもかしこも寒すぎる。車内はそれなりに暖かいが、札幌に着いてからのことを考えるだけで憂鬱だ。気づけば電車はいつの間にか街並みを抜け、木々と雪ばかりの凍てついた平原を突っ切っていく。幸いにも雪は降っていなかったが、どんよりとした灰色の空は、気分を盛り上げてくれるわけじゃない。

 やれやれ。頼むから家にいてくれよ。

 最短でとんぼ返りできますように。いや、そういうことは願わない方がいい。何事も、望んだものとは反対の結果が与えられる。それが人生の真理だ。

 揺れる電車の中、時宗は若者に似合わぬ溜息をつき、胸のリュックを抱え直した。




 今野の住所は、地下鉄すすきの駅から20分近く歩いた所にあるアパートだった。地元民ならもっと早いかもしれないが……。でこぼこと凍った道を苦労して歩いてきた時宗は、目的地が見えただけで、はやくも仕事をやり遂げた気分だった。

 落ち着いたベージュ色の外壁は、最近リノベーションしたように見える。玄関を入ると、すぐに階段があった。

 今野の部屋は302号室。階段をゆっくり上がると共用廊下をのぞきこむ。廊下は東京と違って一応壁の内側だが、頼りない窓ガラスの並ぶ白いスペースは、外とほとんど変わらない冷え冷えとした空気に満ちている。どうか部屋に今野がいますように。

 ゆっくり進んで302の部屋の前に立つと、時宗は息を吸った。仕事はすぐ終わる。たぶん終わる。いや終わってほしい。

 おそるおそるチャイムを鳴らすが……返事はなかった。

 うん、まぁどうせそうなるとは思ってたよ。

 心の中で自分を慰めながら、もう一度押してみる。ピンポーンという軽やかな音だけが部屋の中に響いているのが聞こえるが、足音も、あるいはドアの向こうで息をひそめて訪問者を伺う気配も、何もなし。

 そっとドアノブに手をかけ、回してみる。当然のようにドアは開かない。ドアに耳を押し当てても、やはり向こうは静まり返っている。郵便受けから中をのぞいたが、箱が内側についていて、部屋の様子はうかがい知れない。

 ただ、箱の中でチラシがあふれていないところを見ると、誰かが定期的にチェックしているように思えた。チラシ配りが階段を上ってここまで来るのかは知らないが。

 さぁてこのクソ寒い空間で、俺はどうすりゃいいんだ?

 いや、もしかしたら夜勤とか何かの仕事で熟睡してるのかも。ほんの少しの希望を込めて、強めに3回チャイムを鳴らす。うんそうだな、頭にきて応対しないことにしたのかも。謝罪の心でゆっくりと2回。

 ……。

 いねぇ。多分確実にいねぇ。なんつうか、人がいる気配がない。いやいや、布団をかぶって出てこないだけかもしれない。人間、希望を捨てたらおしまいだ。今野はきっといる。

 ドアをコンコンとノックしながら声を上げる。

「今野さ~ん、あの~、すみません俺、東京からはるばる来たんですよ~お。手紙来てると思うんですけど、おじいさんのことで~ぇ」

 声を出すと、白い息がふわりと漂った。ほんとマジで、ダメだったら今夜どうすっか。今野が帰ってくるまで俺ここで待たなきゃいけないわけ? 勘弁してくれ。いや普通なら仕事終わって7時とか、8時とかなんかその辺で帰ってくる。それまでどこか暖かいところで時間つぶすか……。まぁ、今いてくれたら仕事は終わる。

「怪しい者じゃないですってば~。おじいさんの遺産もらえますよ~」

 言いながらノックを続ける。……なんか、だまして部屋を開けさせようとしてるアホな借金取りみたいな気分。

 ノックとチャイムをひとしきり交互にやってから、時宗は深い溜息をついた。あまり両隣に声をかけない方がいいのかもしれないが……。

 301か303、どっちかに誰かいないだろうか。

 そう思った瞬間に、ありがたや奥の方にある301のドアで、カタンという音がした。

『ぁ!』

 焦る声と同時に、傘か何かが倒れる音。

 やったぜ御在宅だ!

 時宗は勇んで301のドアへ近づいた。奴め、もう居留守は使えない。

 住人はあきらめたのか、チャイム一度でガチャンと鍵が鳴った。ドアが開いたら、その瞬間に靴を突っ込んでやる。さぁ来い!

 ドアがほんの数センチ開き、暗い隙間に目が光った。

「すみませんお聞きしたいことが」

 言いかけた途端、あろうことか住人はいきなりドアを全開にした。バァンと派手な音が響く。時宗はしたたかに顔面をドアでブン殴られた挙句、冷たい床に尻もちをついた。

「いっって~」

 顔をおさえてうずくまる時宗を、住人が見下ろしている気配がする。くっそ、ちょっと事情を聞きたいだけなのに、なんでこんな目にあうんだよ。一言何か言おうとした時、住人が怒鳴った。

「さっきからピンポンピンポンうるせぇんだ一回押して反応なけりゃ諦めれ! 隣なんか誰もいねぇ帰れ!!」

 時宗は頭にきた。いくらなんでも、いきなりこれはないんじゃないか? 用事がなけりゃ、こっちだってこんなクソ寒いとこに来るかよ!

「あのなぁ!」

 顔を上げて、時宗は固まった。

 えらいこっちゃ。ド真ん中の好みが服着て立ってる。

 ぽかんとした顔で見上げられ、向こうもひるんだように動きを止めた。

 待て待て。

 時宗は自分に言い聞かせる。俺は仕事で来てる。こんな……切れ長の目元がいいとか、人の好さそうな頬のラインがいいとか、肩幅と腰つきがモロ好みとか、そういう……そういうことは……。

「だから、その」

 言おうとしたことがきれいさっぱり抜け落ちて、時宗は意味なく口を開いて、閉じた。

 相手の住人はドアノブを掴んだまま、時宗を見つめている。20代前半だろうか。タートルネック一枚に細身のジーンズという部屋着が、ほどよくついた筋肉を包んでいる。

 いや……だからえ~と目的はなんだっけ。

「隣の奴はほとんどいねんだ。だからやたらとピンポン鳴らすな」

 ぶすっとした顔で、そいつはそう言った。

「……いつ帰ってくるとか、わかりますかね」

「知らね」

「困ったな……」

 顔を押さえ床に座り込んだまま哀れな声を出す。ほんとに困った。遠路はるばるやってきて、こんな好みのタイプとお近づきになれないなんて。

「なんの用事だ」

 住人は溜息をついて質問してきた。ちょっと態度が柔らかくなっている。

「その~、おじいさんが亡くなりそうなんですが、死ぬ前にお孫さんに一目会いたいって言うんですよね。今野さんのお母さんと昔喧嘩したのを後悔してて、色々謝りたいし、遺産のことも話しておきたいとかって。何度か手紙を送ったけど返事がないそうで」

「ふ~ん」

 興味のなさそうな声。

「連れて帰るか、せめておじいさんの意志を伝えてから帰らないと、俺、報酬もらえないんですよ。まいったな」

 思いっきり悲しそうな声を出す。同情を勝ち取れれば、もうちょい情報を引き出せるかもしれない。

「遺産ってけっこう多いんか?」

「そうですね……なんか、会社を持ってて資産家だって聞いてます」

「へ~え」

 協力して頂ければ、謝礼が出るかもしれませんよ。そんなことを言おうとした矢先、住人はからかうような目で時宗に言った。

「本人に会えるといいな。仕事終わったら帰ってくっかもしんねぇよ?」

「は?」

 仕事は何ですかと聞く前に、住人はあっという間にドアを閉めた。ガチャンという鍵の音。

 唐突な奴。

 溜息をつきながら、時宗はのろのろと立ち上がった。なんなんだよ。乱暴だし、人の顔面にドアぶつけて謝りもしねぇし、こっちをバカにした流し目が色っぽいし、ドア閉める時の悪い笑顔がたまんねぇし。

 最低だ。顔と腰つきだけ好みで、中身はどうにもならない奴だきっと。だからお近づきになれなくて幸いなんだよ。あんなのと付き合ったら苦労しかしないに決まってんだ。だから、もうはっきりきっぱり切り捨てて仕事して帰ろう。

 ただ、今野の部屋の前にずっといたら、あいつに通報されかねない。仕方ない。一旦外に出て、玄関が見えるところで張り込みするしかない。

 寒いんだよな……近くにコンビニあるかな。

 腹も減ったし。マジで最低な仕事だ。あ~、中間報告も入れないと。何時に帰ってくんだろ今野。ていうか帰ってくるかどうかも怪しいし。

 考え事をしながら、時宗はとぼとぼと階段に向かって行った。


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