痛み止め

mcシューン

痛み止め

  


「楓、楓、もしもーし大丈夫ー?」

 丈一郎の優しい声が響き渡る。

 

 覚悟を決めてゆっくりと目を開ける。左手にはいつもと変わらない温もりを感じる。横浜みなとみらいの、不気味なまでに美しい夜景が目に飛び込んで来る。

 

 丈一郎は心配そうな目で楓を見つめながら、自身の右手で、重ねていた楓の左手をぎゅっと握る。

「ううん、ごめん、ちょっと考え事してて」

 ぼんやりと眼前の景色を見つめていた楓は、そう言うと丈一郎の方へ微笑みを返す。

「疲れてるならまた今度にしようか?」

「ううん、大丈夫。で、大事な話って?」

 そう尋ねた楓の顔は、先程の微笑みから打って変わって不安げな表情だ。

「うん、でもその前に。今日は久々に会えた日だってのに、どことなく憂鬱そうだね、何か不安なことでもあるの?」

 丈一郎は、持ち前の優しい顔を崩さず、ぶっきらぼうにそう尋ねたが、楓を見つめるその目は、一切の誤魔化しを許さないかの様に真っ直ぐだ。

「うん、今書いてる最新作のアイデアがね、ちょっと煮詰まっちゃってて…」

 楓はそう言うと逃げるかの様にベンチから立ち上がり、前にある柵に体をもたれかけ、目下の行き交う人々の姿に目を落とす。夜のみなとみらいということもあって、大半はカップルか家族連れだ。

「そうね、今日は一ヶ月ぶりに会えた日なのに私ったら。ごめんなさい」

丈一郎の方を振り返ることもせず、まるで柵の下の地面を幸せそうに連れ立って歩く人々に語りかけるかの様に、楓はそう呟く。

「少し根を詰めすぎじゃないのかい?」

 そう言いながら丈一郎も立ち上がる。

「ま、ちんけなビデオ会社のカメラマン如きには、売れっこ小説家の気持ちは分からないかな。話はもうちょい後でいいや、せっかくの夜景だ、ゆっくり眺めよう」

 丈一郎はそう言って、楓の横に並び、同じ様に柵に体を預ける。浜風が二人を包む。

 

 私は、また静かに目を閉じる。今、目の前に見えているみなとみらいの風景はいつもしきりと私に、脳みその奥の奥の引き出しに封印しておいてある記憶を引っ張り出そうとさせてくる。

 物心ついた時から、私はずっと孤独だ。今から数十年前のとある夏の日の深夜、児童養護施設の前で、私、といってもまだ私が私であることさえも把握していないほどに幼き赤子は、段ボールに囲われ毛布に包まれた状態で発見された。施設の職員に保護された私は、二歳になるまでその養護施設が提携する乳児院で育ち、三歳になった時に改めてその施設に入所した。ちなみに、風間楓という私の名前は園長先生が命名したものであり、誕生日は拾われた日ということになっている。

 施設では、当時の私と同じ三歳の幼児から十八歳の高校生まで、当然入れ替わりはあるもののおおよそ合計して五十人ほどの子ども達が暮らしていた。性別が同じで歳が近い二~三人ごとに一つの部屋が割り振られており、同部屋になった子を中心に、打ち解けて話をする子は自然とできた。特に、三歳から施設にいた私は、同年代の中では最古参であり、新しく入ってくる子どもの面倒を見る役になることも多かった。しかし、周囲との関わりが多少生まれてこようとも、自身の本質は孤独であり、それが変わることはないことを私は次第に知るようになっていった。「楓ちゃん、私はあなたのお母さんだからね。」という言葉が口癖の若い女性の職員が突然辞職した五歳の時。「将来施設を出たら一緒に住もうね」とことあるごとに言い合ってた同部屋で同学年の唯一無二の親友が親戚に引き取られて去っていった九歳の時。数えればキリがない喪失の体験が、私の心に孤独を深く刻みつけ続けた。

 そして、それらの喪失を少しばかり癒してくれたのは、元々本が好きだった私にその職員が最後にくれた絵本と、親友と私が大好きだったファンタジーの小説だった。今と違ってインターネットもない時代、孤独の味を真に薄められるのは、私にとっては唯一、読書しかなかった。学校でも普通に話をするくらいの友人はいたが、深く関わりにいくことはなかった。勿論、施設暮らしの私と親密になろうという物好きなど元々いなかったこともあるが、どうせ私の元からいなくなる他人と仲良くしたところで何の意味があるか分からなかったのだ。反面、本は、私の前から去ることはない。その思いでますます読書に没頭した私は、施設や小学校の図書室にある本をあらかた読み尽くした挙句、学校が終わると近所にある大きい図書館に行き、大人向けの難しい小説を片っぱしから読み漁っていた。

 そんな私が、物語を書く側に回りたいと思う様になるのにそう時間はかからなかった。自身の経験した悲しさ、虚しさ、切なさ、儚さといったマイナスの感情を、原稿用紙にぶつける。そして、それらを綺麗に破壊する、現実世界には決して存在しない永遠の救いを表現する。紙の上において私は神だ。全てが自由だ。実際、物語を書いているときは、現実世界で常に付き纏うネガティブな感情とお別れすることができていた。一種の麻薬だ。私は、取り憑かれたようにペンを走らせていった。

 書くという行為自体に目的があったが為に、私にとってその行為の結果である作品に価値はなかった。しかし、捨てるのも味気無いとの思いで、いくつか開かれている新人作家向けのコンクールに、試しに自身の書いた小説を応募してみた。そしたら、予想外にもとあるコンクールで大賞を受賞する運びとなってしまい、出版社から施設に電話がかかってきた。電話越しにおそらく若い男であろう編集者が話をしてきたが、当たり障りのない感想をつらつらと喋りにしゃべった挙句、上から目線な物言いでアドバイス的なものをむやみに投げてきたので、少々頭にきてしまった。「満たされた人たちに、私が何を思って、何をこの筆に託して書いてるかが分かる筈がないでしょ」と、思いっきり叫びたい気分だった。目の前にいるわけでもない「読み手」とかいう仮初の存在に迎合した挙句、筆をとった本来の目的を揺るがすのは私には到底無理だった。数日の間イライラを引きずった挙句そこからコンクールに作品を出すのは止め、その出版社からの連絡も全部無視してしまった。

 そんな私が、執筆とは別の、己の孤独を救済しうるルートの存在に可能性を見出したのは高校二年生の頃。そのルートの入り口にある扉を開けるキーになったのは、高校時代に自身の所属していた文芸部に入ってきた、一年後輩の滝沢真司だった。今でも、彼の人懐っこい笑顔をよく思い出せる。

 自分の幼少時代を刹那的に回顧した私は、閉じていた目をより一層ぎゅっとつむる。ここから先はしっかりと過去、そして、「彼」と向き合わなきゃね。そう覚悟を決めて、私は再び目を開ける。

 

「丈一郎くん、私の話を聞いてくれる?」

 楓は柵に体をもたらせかけたまま、神妙な面持ちで丈一郎に問いかける。 

「勿論」と、丈一郎は優しく微笑む。

 十四年前に遡る。

「この前の部誌の風間さんの作品、すっごいよかったです!」

 五月の放課後、部室に入ってくるなり、真司は屈託のない満面の笑みでそう高校生の楓に話しかける。

「それはありがとう。それで、滝沢君は、具体的にどんなところを評価してくれたの?」

 楓は、意地悪な顔を真司に向ける。どうせ普通の子に私が作品に込めた思いなど分かる筈がない、そう言いたげな少々バカにした表情と口調だ。

「不快に思ったならごめんなさい」

 真司はそう前置きした上でこう続ける。

「風間先輩って、純粋に自分の為に書いてますよね、物語を」

「え?」

予想とは違う角度からの返答だったのか、楓は素っ頓狂な声をあげる。

「いや、物語を書く人って、大体は読み手に刺激を与えようと思って、その為に書いてると思うんですよ、僕もそうです。でも逆に、見えない相手を意識し過ぎてしまって、表現を無駄に派手にしたりとか、無理に構成をいじったりとか、どうしてもしちゃうんですよ。でも風間さんの書く物語には、そうした卑しさがない。どこまでも自然なんです」

 真司はキラキラした目で楓を見つめる。

「なかなか鋭いわね、滝沢くん」

「では、正解、ということですか?」

「そうねぇ、合格点をあげるわ」

「ほんとですか、風間先輩から褒めていただけるなんて、感無量です」

 真司が頭をかきながら恥ずかしげにそう言うと、「ハハっ、大袈裟ねぇ」と、楓は表情を大きく緩めた。

 自分の部屋に帰った楓は、日記帳を開き、ペンをとる。

「今日は刺激的な日だった。彼、言い方は優しいけど、胸を強く突きさすことを言う。この言葉では表現できない気持ち、凄く久々。滝沢真司、面白い人」

 楓と真司は、そこから頻繁に会話や本の貸し借りをする様になる。本の感想は当日には口で言わずに、本に挟んだメモを通して言葉で伝える、それが二人の決まりごとだ。

 そんなやりとりが二ヶ月ほど続いた七月のとある日、寝る前にその日返してもらったとある小説のメモの文字を見て、楓は目を大きく見開く。

「『ダンスホールの蝶』、場末のクラブのダンサーが、様々な人々と出会い、多くの経験を積みながら、成長する物語。この主人公、表面的には、明るさや楽しさ、希望に満ち溢れている様に見える。だけど、根底にあるのは他でもない、虚しさ。必死にたくさんの明るい色を塗りたくってるけど、それは中心にある黒々しい塊を隠したいだけ。」

 翌日、真司が部室に入ってくるなり楓はおもむろにそのメモを見せながら尋ねる。

「これ、どうしてそう思ったの?」

「今週の日曜日、空いてますか?」

「え?」

 楓は、思いもよらない返答に戸惑ったような表情を見せる。

「すみません、びっくりさせちゃいましたね。これ、風間先輩と一緒に見たくて」

 そう言って真司は、二枚のチケットを楓に見せる。

「その小説が原作の舞台、この前完成したみなとみらいの劇場でやるんですって。僕の父親がその劇場の関係者と親しくて、チケットを貰ったんです。だけど、父が仕事で行けなくなっちゃって。風間先輩がよければ、一緒に行きたいなって」

 真司は下を向きながらうわずった声でそう言う。

「空いてるけど。いいの?こんな貴重なチケット」

「勿論です、むしろ原作好きの風間先輩にこそ見て欲しくて。じゃ、日曜日の十四時に桜木町駅の前で、待ってます。すみません、今日は用事あるんで、これで失礼します」

 そう早口で話しきると、立ち尽くす楓を置いて、真司はバッグを持ち風を切るように部室を飛び出していく。

 施設に帰り自室に戻った楓は、すぐに日記帳を手に取り、ペンを素早く走らせる。

「青天の霹靂。休日に誰かと会うなんて、初めてかも。不思議と胸が高鳴る」

「楓ねえ、なんかいいことでもあった?」

 同じ部屋で暮らす一個下の夏生が、いたずらな笑顔で横から日記を覗こうとする。

「ちょっと、見ないでよ」と、楓は両手で日記を隠す。

「見えちゃった。ふーん、どうやら男の子だね、楓ねえもデートしちゃう年齢かぁ」

「アンタの方が年下でしょ、それにデートなんかじゃないし」

「男の子と二人で会う、これをデートと言わずなんと言う。それより場所は?私が全身コーディネートしてあげるよ」

「みなとみらいの劇場だけど。てか余計なお世話よ、アンタの安っぽい恋愛ドラマに染まりまくったお花畑コーデなんて」 

「いいから、任せといてよ。てか楓ねえどうせロクな洋服持ってないでしょ。私はバイトのお金は大体服に費やしてるから、いっぱい持ってるのよ」

 図星だったのか楓は黙る。デパートの店員の様なキビキビとした動きで自分のクローゼットを開けてワンピースやスカートを大量に取り出した夏生は、それらを次々と楓の体に当てる。楓は直立不動でされるがままだ。

 一通り試し終わった後、夏生が楓に背を向けてクローゼットで再び他の洋服を探し始めたとき、「ねぇ夏生」と楓が口を開く。

「私たちって幸せになれると思う?」

「えー、どういうことー、いきなり怖いよ」クローゼットを漁りながらぶっきらぼうに夏生は応える。

「みんな親戚だとか里親だとかに引き取られていって、高校生になってもまだここにいるの、私たちだけじゃない。あと何年かしたらここも出ていくわけだし。なんか、結局ずっと一人な気がする」

「私はそこそこ幸せだよ」とモスグリーンのロングスカートを引っ張り出した夏生は言う。

「楓ねえは真面目すぎなんだよ。人生なんとかなるでしょ、別に一人だろうがなんだろうがドンと来いだよ。渡る世間に鬼はないっていうしね。それに…」

 満面の笑みで夏生は、白い半袖のティーシャツと、そのモスグリーンのロングスカートを楓に差し出す。

「私には楓ねえがいるもん。楓ねえがここ出てって一人暮らし始めたら私もついていっちゃおうかなー、なーんて、その男の子と一緒に住むことになるかもしれないし、お邪魔だよね。バシッと決めておいで、楓ねえ」

「バカね、アンタは。でも、今回は救われたわ。感謝してる」楓は、差し出された洋服を受け取り、はにかんだ笑顔を見せる。

「楓ねえ、最近心なしかイキイキしてるし、私は嬉しい。身近にちょっとでも心をウキウキさせるものがあるだけで、十分幸せなんじゃないかなって私は思うな」散らかした洋服を片付けはじめながら夏生はそう言う。楓もそれを手伝いながら、「そうね、そうかもね」と、ボソッと呟く。

 約束の日曜日になる。多くの人々で賑わう桜木町駅の根岸線のホームの前で、夏生から借りた洋服に身を包んだ楓は、ソワソワしながら突っ立っている。すると、改札口から黒いシャツにジーパンの真司が小走りで出てくる。

「ごめんなさい、待たせちゃいましたか」と息を切らしながら真司は楓に近づく。

「ううん、気にしないで。私が早く来すぎちゃっただけ」

「風間先輩、やっぱ私服だといつもと雰囲気違いますね。女の子って感じです」

「いつもはどう思ってたのよ」と楓が睨むと、「ほら、会場あっちですよ」と真司は逃げるように駅前の人混みをかき分け進み始める。歩きはじめて暫くすると、西洋風の装飾で覆われた白い大きな劇場を二人は目にする。建物の前は、舞台を見に来たであろうお客さんで溢れている。

「こんな大きいと思わなかったです、席真ん中くらいですけどちゃんと見えますかね」と真司は入場列の途中で不安そうな表情を見せるが、劇場のホールの中に入って席に着くと一転、「いい感じに見えそうですね」と得意げな顔になる。

「若い人が意外と多いわね、『ダンスホールの蝶』やっぱ人気作だけあるよね」

「はい。お、そろそろ始まりますよ」そう真司が応えるや否や、劇場の照明がパッと消え、開演のアナウンスが鳴り響く。

 キャスト陣の渾身の演技と最新の技術を用いた大迫力の演出に、客の目線はステージの上に釘付けだ。楓と真司も、思わず口元を緩めたりしながら、瞬きもせずにずっと前を見つめている。

 そして暫く経った頃、眩いスポットライトと共に、舞台の中央に蝶の羽をつけた主人公が現れ、バレエダンサーの様な優雅な踊りを見せ始める。観客も盛り上がり、手拍子をする者も多い。そして、天井からワイヤーで吊るされている主人公の恋人が主人公の元に降りて手を握ると、主人公も恋人と共にワイヤーに吊るされ、空を舞い始める。衣装も相まって、客席から見ると、蝶が自らの羽で舞っているように見える。観劇している者はみな、清々しい笑顔で二人の空中舞踊を見守っている。そして二人が飛び立って客席から見えなくなり、舞台の幕が下りると、割れんばかりの拍手と歓声が劇場を覆い尽くす。

「ありがとう滝沢くん。今日は楽しかった」劇場を出ると楓は充実感溢れる顔でそう言う。

「いえいえ、こちらこそ来てくれてありがとうございました。そういえば、僕が風間先輩を誘った理由、分かりました?」

「えぇ、『ダンスホールの蝶』、やっぱりあなたの感想通りだったわね。最後のダンスのシーン、音楽も陽気で踊りも華麗、一見すると華やかなシーンだけど、踊り手の主人公の表情はそうじゃなかった。今にも消えてしまいそうな、そんな切ない表情だった。まぁそんなことに気づいたのは私たちくらいかもだけど。そして……」

「そして?」

「私が思ってた通りでもある。あなたは、私もこの作品の本質を『虚しさ』だと思ってるだろうと考えた。そして、その共感を舞台を見た後により深く分かち合おうとした。そうじゃない?」

「うーん、三十点です」

 真司は意味ありげに笑う。

「主人公のダンサー。ど真ん中にある虚しさを隠して綺麗に舞い続ける蝶。これって風間先輩のことだと思うんですよね」

「私?」

「ええ、多分自分でも気づいてますよね。

先輩、立居振る舞いも立派だし、何より凄い素敵な物語書くし。でも、僕、先輩の育ってきた環境のことも当然知ってますし、知った上で言いますけど」

 そこまで言って真司は口を閉ざす。沈黙が夕方の浜風とともに二人を包む。

「ごめんなさい、ちょっと海の方に行きませんか?」そう言って真司は劇場から出てくる客とは反対の方向に歩き始める。楓も黙ってついていく。

 海に面した公園に到着すると、二人は海が見えるベンチに黙って腰掛ける。

「さっきの話の続きですけど」と、真司が沈黙を破る。

「風間先輩、ずっと苦しかったんですよね?」

「え?」

「先輩の作品読んでると、あぁこの人は人の痛みに敏感な人なんだなってすごく感じるんです。人の痛みに敏感になれる人って、沢山の痛みを受けてきた人なんじゃないかって、そう思うんです」

 そこまで話し終わると、覚悟を決めたかの様に真司は大きく息を吸う。

「僕じゃダメですか?」

「え?」

「風間先輩と話してると僕はすごく楽しい。人と一緒にいたい、もっと話したいと思ったことなんてすごく久しぶりなんです。僕、先輩の生い立ちは知ってます、でもその上で、僕は先輩の痛み止めになれたらいいなって思ってるんです」真司は、頬を紅潮させ、楓の目を強く見つめる。「風間先輩、僕はあなたと、もっと、ずっと、一緒にいたいです」うわずった声でそう叫ぶ。

 空気を切り裂くほどの蝉の鳴き声が二人を取り巻く空間全てに響き渡る。

「すみません、ご迷惑でしたよね。風間先輩の気持ちも考えず、僕ばっかり話しちゃって。別に返事とかは要らないんです、ただ伝えたかっただけで。もうこんな時間ですし、帰りましょうか」

 真司は早口でそう言い切ると顔を伏せて立ち上がり、駅の方向へと歩き始める。

「楓!」と、楓は大きな声を真司の背中へぶつける。真司は振り返る。

「楓って呼んで。私の名前。普通の人みたいにちゃんと付けられた名前じゃないけど」

 そう言うと楓は真司をじっと見つめ、にこりと微笑む。

 真司は頬を緩ます。「はい、楓さん」

 桜木町駅に着くと、「それじゃ、楓さん、また今度」とはにかんだ笑顔を見せた真司は、楓に手をふる。

「ええ、また今度会いましょう、真司くん」そう言うと、自らも不意に下の名前で呼ばれた嬉しさを噛み締めている様子の真司をおいて楓は、大船方面の電車のホームを昇っていく。


 私は目を閉じる。当たり前に来る「今度」なんてない。そんなことは施設で育った身として、物語を紡ぐ身として、当然の様に知っていた。でも、そんなことを忘れてしまうほど私は浮かされていた。私にとって真司は可能性だった。孤独や不幸といった霧がかかるダンスホールから晴わたる空へ、私という蝶を導く存在、そう思っていた。

 でも心のどこかで、そんな都合のいいものは夢の中にしか存在し得ないことを分かっていたのだろう。だからなのか、桜木町駅で別れた翌週、真司が事故で死んだことを電話越しに聞いた日も、不思議と心は落ち着いていた。もちろん動揺はしていたけれども、悲しみというよりもどこか諦めに近い感情だった。酷く残酷な運命を与えた神への恨みではなく、どこか変な期待を持ってしまった私自身への自責によって、私の心は占められていた。葬儀にて、私を救ってくれていたその優しい笑顔が一際強調された彼の遺影を見ても、涙はなぜだか出なかった。

 現世に救いなんてない。救いがあるのは、いや、救いを作り出せるのは紙の上だけ。その思いから逃れられなくなった私は、ひたすらに物語を書きまくった。避けていたコンクールへの応募も再開した。プライドだけは高い世間知らずの生意気なガキだった私も、一人で生きていくためにはお金が必要で、お金を稼ぐためにはひたすら書くだけではダメだと分かるほどには大人になっていた。

 私は純文学の新人賞を獲り、デビューに至った。そこからというもの、出す本は軒並みヒットを飛ばした。端から見れば順風満帆を地で行く作家生活だ。でも、私は空っぽだった。編集者や批評家は、「切なさと救済をリアルに描くのが、稀代の純文学作家、風間楓の持ち味」と雑誌やインタビューなどで語る。でもそれは私にとって何も特別ではない当たり前のことだった。書くしかなかったから、私には。書かないと死んでしまいそうな気がしていた。辛いことしかない人生に一筋の光を与える、それは私自身の書き連ねる文章以外にはない、そう思っていた、いや、思わざるを得なかった。この人生に蔓延る不運と絶望を自分の中で消化できなきゃ、それらに逆に呑み込まれるに違いない。だから筆を走らせるしかない。今は人気作家、風間楓にすり寄ってきている人たちも、どうせ売れなくなったらいなくなる。救いなんてものは人には期待しない、それが自然と編み出した自分を守る術でもあったのかもしれない。

 そんな中、牧野丈一郎と出会ったのは、デビューから五年ほど経ったある日のことだった。出版作品が初めて映像化されることになり、その撮影を担当した映像制作会社のカメラマンが彼だった。気乗りしない中、出版社の人に半ば無理矢理連れられていった打ち上げパーティーで、私は彼と出会った。彼はデビュー時から私の小説のファンであったらしく、目を輝かせて私の小説を褒めてくれた。

 思い返せば、彼の無邪気な笑顔と芸術について熱く語る若き彼の姿は、どこか真司に似ていた。魅かれた、というのは大袈裟かもしれないが、上っ面な褒め言葉ばっかりの自称ファンや編集者には決して感じない親近感のような感情を彼に覚えたのも、それが理由だったのだろう。どちらから言い出すまでもなく、そこから頻繁に二人で会うようになった。そして何回目かのデートの終わり際、彼は私に告白し、私もそれを受け入れた。空っぽな私の大きな余白が、一時的にでも埋まるかもしれない、そんな希望を心の中ではまだ捨てられていなかった。

 彼といるとき、私は幸せを感じていただろうか。思い返せば、その幸福感を素直に受け切れていたわけではなかったのかもしれない。私は彼のことを、痛み止めとしてしか認識していなかった。痛み止めは、痛みを少しの間忘れるためのものであって、消すためのものではない。そして、いつか使い切ってしまい、目の前からなくなるもの。無意識にそう思ってしまっていたのだ。

 かつての私のネガティブすぎる思想を思い出し、ため息を着いたその瞬間、「僕と、結婚して下さい」響き渡るその大きな声で私は思わず目を開ける。

 

「僕は君を幸せにしたい。君の話は勿論全部聞いてた。その上でこう思う。君は、幸せになれる」

 丈一郎は楓の目をじっと見つめる。

「そんなことない、私は不幸から逃げられないの」

 楓は目を伏せる。

「いや、違う。君は思い込んでるだけだ。自分なんかが幸せになれるはずがないと、幸せにしてくれる人が現れるはずがないと、幸せになってはいけないと」

「もうダメなの、最近小説もスランプだし。もう何もかもダメなの。ごめんなさい、今日は帰るわ」

 荷物を持って立ち去ろうとする楓の背中に、丈一郎が語りかける。

「自分でももう分かってるでしょ。最近思い通りの物語が書けなくなってきてるのは、自分の根底にある痛みがなくなってきたからだって」

 楓は立ち止まる。丈一郎は続ける。

「断言しよう。今、君は幸せなんだ。そのことから目を逸らしているだけ。そしてここで約束する。僕は絶対に君の元から消えない。君をずっと幸せにし続ける。痛みを癒すんじゃない。君の痛みは自分の痛み。痛みがもしあるならそれを共に乗り越えていきたい。君と一緒に幸せになりたい、心からそう思うんだ」

 黙って話を聞く楓の目には、光るものが見える。

「もう自分を誤魔化すのはやめてほしい。痛み止めなんかいらない。書くことが痛み止めになってたのなら、そんなものはもうやめてもいい。僕と一緒に幸せになって下さい」

 丈一郎は、深々と頭を下げる。

 目を涙で溢れさせた楓は、声を絞り出す。「はい、お願いします」

        

 エンドロールが流れる。左手には変わらず、重ね合わせた彼の右手の温もりを感じる。痛みを癒すヒーラーの手ではない、共に寄り添い合うパートナーの手だ。

 エンドロールが終わり、映画館が明転すると、周囲の観客は一斉に立ち上がり、大きな拍手を送る。作家風間楓の引退作かつ最大のヒット作である自伝小説「痛み止め」。今日は、この作品を原作にした、映画監督牧野丈一郎の初監督作品の初日舞台挨拶である。

 司会者の声と共に、キャスト陣がスクリーンの前に勢揃いする。

「監督と先生も前へお願いします」

 その声を聞くと、私と彼は席から立ち上がり、二人で前へと歩いて行く。彼の右手と私の左手は勿論繋がれたままだ。私は、成人期の風間楓役を演じた、私とは似ても似つかないほど綺麗な女優さんの右隣に立つ。

「では、原作者の風間さん、感想をお願いします」と司会者が言う。

「はい。やっぱり自分のことなんで、途中恥ずかしくて思わず目を閉じてしまう場面もありましたが、大事なシーンはしっかり見ました。妻の過去の恋を描くのなんて嫌だったかもしれませんが、しっかり全部描き切ってくれた彼の覚悟と向き合おうって、そう思いました。素晴らしい作品をありがとうございました」

 そう言うと、映画館は笑い声と大きな拍手に包まれる。左上を見ると、彼がにこりと微笑んでいたので、私もにこりと微笑み返す。

 あぁ、私は今、幸せだ。

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