異世界の桜と貴方と。

澪標 みお

人間として、エルフとして。

 透き通った小川の横の、草木が瑞々しく生い茂る土手の上。両岸に並び立つ木々を眺めながら、私は独り歩いていた。何度見てもこの木たちはほんとうに美しい。春になると鮮やかな色の花を咲かせ、夏には青々とした葉をしげらせ、秋から冬に散ってゆく。そうして次の春、また咲き誇るのだ。二年前から切っていない髪が春の風になびく。


 あの人が植えたこの木は、この世界にはもともと存在しない植物だった。そもそも私の常識上、木がこんなにも美しい花を咲かせるということ自体が驚きだったのだけれど、彼の国ではこの「桜」という木を愛でることが当たり前らしい。


 史上最巧の大賢者とうたわれ、一年足らずで邪悪な魔王を滅ぼしたあの人とはいえ、一度ホームシックになりかけたことがある。その時に私が提案したのが、桜を植えることだった。例えこの世界に存在しないものであっても、あの人の錬金術にかかれば簡単に造り出せる。でも、彼は術を使わなかった。代わりに元の世界とこの世界を往き来できる扉を使い、わざわざ桜の苗木を買って来て植えた。


 『急速成長の魔法を掛けましょうか』と私は言った。なんと趣のない言葉だろうかと今となっては思えるのだけれど、当時の私は“至高の女魔術師アリア”として名声を博していて、あの人の次に自分の魔法は世界一素晴らしいのだと本気で信じていた。

 だから『それじゃあ駄目なんだ』と言われて、私は内心憤慨した。魔法を使えば最初から綺麗な花が見られるのにと思いながらも、あの人が持ってきた桜だからと、しぶしぶ彼の言うことに従って地道に育てることにした。

 それはそれは大変だった。

 雨の日も風の日も、晴れている日でも、その緑色の小さな葉の一片たりとも傷つけまいと、私たちはまるで桜にお仕えする従者のごとく、至れり尽くせりでせっせとお世話をし申し上げた。


 そして、次第に楽しくなってきた。


 桜は顔も言葉も持たないはずなのに、いつしか私たちは桜と会話することができるようになった。植物にも調子が良い日と悪い日があるのだと知った。毎日の水やりを心待ちにするようになり、毎月のように木の背丈を測っては無邪気に喜んだ。そうして桜は大きくなってゆき、彼の頭には白髪が混じり始めた。少しずつ曲がってゆく細い背中を、私は泣きながら抱き締めた。一方、彼と同い年の私は、これからが女盛りとばかりに若妻らしさを増していった。私がエルフだからだ。


 『貴方がよぼよぼになるなんて嫌です、お願いだから若返りの術を使ってください』と私は必死で泣きついた。困った顔をしながら微笑むあの人を私は強制的に若返らせようとしたけれど、老いてなお、私の魔法は彼にさっぱり届かなかった。


 『ごめんな。だけど俺は人間で、君はエルフなんだ。俺は人間として生きてきた。だから人間として死にたいんだ』──。


 そう何度も何度も謝りながら、彼は血管の浮き上がった手で私の身体をさすってくれた。結局あの人は普通の人間として生きたかっただけなのだ。だが私と出会ったせいで、それが叶わぬ願いとなってしまったのではないか?


 『いやいや、後悔なんてするわけないだろ? だってここに来なければ君みたいな美人と結婚なんて出来なかったし、君と出会わなければこんなに楽しくてスリリングな冒険も絶対に無かったんだからさ。そうやって恵まれているからこそ、“普通”を求めてしまう。自分でもなんてバカなんだろうって思うけど、人間ってのは……少なくとも俺はそういう生き物なんだろうな』


 そう言った時の彼のどこかキラキラした瞳に、私はどうしようもなく救われたのだ。貴方と出会えて良かった。貴方と桜を育てて良かったと、心から思えた。


 そして二年前、私たちの桜がはじめて満開に咲いた。史上最巧の大賢者と至高の女魔術師が育てた異世界の木として話題になり、王都から離れたこの辺鄙へんぴな村は、にわかに人で満ち溢れた。彼らが桜の木の下で生き生きとはしゃぐ様子を見ながら、あの人はその秋、静かに死んでいった。


 『幸せになってくれ。自分のために生きてくれ。……そして時々は俺のことを思い出して欲しい、アリア』


 貴方と生きることが私の幸せなのですと何度言っても、結局あの人は死ぬこと、天から与えられた寿命を全うすることを選んだ。


 もう九十になる私は、きっとこの桜が全て枯れてしまうまで生き続けるのだろう。まだ若い私を置いて、あの人が言う“天国”へ旅立ってしまった彼は、この春の霞がかった空の向こうからきっと見ていてくれる──そう信じて、私はこれからもこの桜を見守り続け、最後まで天命を全うするのだ。



  〈了〉

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異世界の桜と貴方と。 澪標 みお @pikoma

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