片隅の人生

はなのあ

第1話 罪

 はぁ、何してんだろう……。


 降り止みそうにない土砂降りの雨の下で、ただ一人公園のベンチに座っていた。傘も差さずに意味もなく打たれ続け、貰ったパーカーには水が染み込んできて、藍色の靴は色が変わり始めている。すでにもう全身が濡れ、重く冷たい。それでも気にしてないし何とも思わない。あの瞬間、あの出来事が、まだ頭に纏わり付き支配してしまっているからだ。だから期待しているのかもしれない。


 この雨が記憶、想い出、そして罪を、全て洗い流してくれることを。




 ☆   ☆   ☆ 




大地だいち! 大地!」


 炎で真っ赤に染まる街をただ呆然と眺めるなか、僕の名前を呼ぶ声だけが耳に届く。そして背中からぎゅーっと誰かが抱きついてきた。暖かく、妙に落ち着くこの感触。母さんだ、顔が見えなくてもすぐに分かった。


 どうしたの? 振り向きながら母さんに聞くと、ごめんね、と辛そうに僕に言ってくる。と、同時に僕の肩にすがりながら涙を流し始める。

 どうしたらいいか分からなくなった僕は、ただじっとその光景を見つめていた。すると母さんはそのまま。


秋帆あきほ……。秋帆……ダメだったみたい。……ごめんね、何もできなくて……」


 小さな肩で顔を隠しながら、細く弱々しい声でそう言った。

 その言葉の意味が分かった瞬間、母が泣く声、避難所に来ている人たちの会話、街に響くサイレンの音、全てがすーっと消えていく。


 ――死んだんだ……姉が、死んだ――


 もう一度聞き返そうとしたが、声が出なかった。

「大丈夫、姉ちゃんは助かるから」そう言った大人は今どこで何を。そしてその言葉を真に受けた僕はいったい何を。

 冗談だと言ってほしかった、こんな状況でも冗談だと言ってほしかった。でも本当なのだろう、一度も見たことのなかった情けなく泣く母さんの姿が、全てを物語っている。


 ――グオァァァァァン――


 突然、耳へと届く咆哮。全身に鳥肌がたつ。周りの人も動きが止まり、咆哮が聞こえてきた場所、真っ赤に燃える街を眺めている。


 そしてバサバサっと大きな翼を羽ばたかせながら、一匹の悪魔が火の海から飛び出てきた。全身黒くて、長い尻尾に二つの角、たとえ夜でもその姿をはっきりと目で捉えることができる。

 あれが、ドラゴン。

 あいつが姉を……あいつが何もかもを奪っていった。いつも通りの平和な一日が、あいつのせいで。僕の隣では母さんが、怒りを表すような鋭い目つきでドラゴンを睨んでいる。でも僕たちにできることは、それしかなかった。悠々と空を舞いながら消えていくドラゴンを、ただひたすらに見ることしか僕らにはできなかった。


 負けたのか、あの人は。

 あの人はいま何を。


 ――おい、大野おおの。大野――


 ん? 誰だ、母さんではない。かすかに僕を呼ぶ声が耳に入ってきた。でも辺りを見渡すが誰もいない。父さんか、いや違う。遠くのようで近くから。すぐ近くで誰かが僕を呼んでいる。


 ――大野、大野!―― 


 次第にだんだんと声が大きくなっていく。


 ――大野、授業中だぞ!―― 


 授業中?


 ――大野、起きろって!――


 は!


「……。……あ、あれ? 俺っていま――」

「寝てた」


 俺の言葉にかぶせるように佐々木が言う。周りで頷くクラスメイト。


 寝てしまっていたらしい。

 嫌な夢を見たものだ。

 ふっと寝る前の記憶を思い出す。

 そうだ、そういや保険の授業を……保険!?

 いきなり身体がゾワッとした。寝起きながらもクラスに異様な空気が漂っているのは気づいてたが、もしかして……。俺は恐る恐る視線を前にする。


 あれは完全に怒ってますね。


 腕を組み、黒板にもたれながらこちらを睨みつけてきている、体育教官兼担任の内海うつみ。全身赤ジャージに首から笛を垂らしている、体育教官特有の衣装。よりにもよって学年一怖い内海の授業で寝てしまうとは。内海から感じる地獄のようなオーラが突出して教室中に染み渡っている。


 ああー終わった。せめての行いとして。


「すみませんでした」


 俺は立ち上がり頭を下げた。どちらにしろ怒鳴られるのなら先に謝って、少しでも怒りを抑えよう作戦。シーンとなった教室で、外から聞こえるカラスの鳴き声が響き渡るなか、俺はずーとずーと頭を下げ続けた。まるで時間が止まったかのように静寂に包まれた教室、早く怒鳴るなら怒鳴ってくれ、そう願いながら内海が喋るのを待つ。


「おい大野」

「は、はい!」


 やっとこさ口を開いた内海に、若干声がひっくり返りそうになりながら返事をする。

 内海はそのまま話を続けた。


「放課後残っとけ」


 そのまま話が終わった。帰るの遅くなるやつだ、マジか。

 佐々木が馬鹿にするよう、こちらを見てにやついてる。周りのクラスメイトも悪戯っぼい笑顔で俺を見てきた。


 ――キーンコーンカーンコーン――


 真っ白な頭の中に、チャイムの音だけが全体に行き渡る。

 号令が終わるや否や、佐々木が悪い笑みを浮かべながら近づいてきた。


「よーお眠りさん。ちゃんと寝ないとダメでちゅよ」


 今日は自分のターンだと言わんばかりに俺を煽ってくる。


「性格悪いぞーこのバカ坊主」っと、負けじと煽り返しておく。

「へへへっいつものお返し。まー内海と放課後デートできるなんて、幸せものじゃねーか」

「ちくしょう、最悪だ。もう何事もなく夏休みに突入できると思ったのに」


 そう、明日の終業式が終われば長い夏休みが始まる。好きな時間に起きて、好きな時間に飯を食って、飽きるまでゲームができる、そんなハッピーライフが送れる夢の休業期間。


「まあいいや、適当に返事しとけば終わるだろ」

「ならいいけどな! へへっ」





「気をつけ、礼!」

「「「さようなら」」」


 終礼が終わると、一斉に教室を飛び出すクラスメイト。男子は楽しそうにわーわー喚き、女子はそれを華麗にスルーしたり巻き込まれたり、俺はそんな光景を教室の隅にポツンっと座りながら眺めていた。羨ましい、帰れるって羨ましい。


 内海に『五分後に来る、それまで待っとけ』なんて声をかけられ、行儀よく俺は五分待つことにした。


 すっかり静まり返った教室。どこか儚げで寂しく、次第に緊張感も高まってくる。

 結局十分程待ったあと、廊下から小さく足音が聞こえた。これは来たな。

 ガラガラっと前扉が開くと共に、深刻な顔をした内海が入ってきて、そのまま教壇の前に立つ。俺は無言で立ち上がり、内海の正面へと向かった。


「……待たして悪いな」


 少し言いずらそうに話す内海の籠もった声に、一気に教室に重々しい空気が流れ始めた。


「いえ、失礼なことしてすみませんでした」


 俺は深々と頭を下げ詫びる。

 すると内海は、微少に生えた白い顎髭を触りながら、喋りだす。


「まぁその件については良い。許す。それとは違うことで残したんだ。お前に頼みごとがある」

「頼みごと?」

「そう。会いに行ってほしい子がいる」

「は、はぁ」

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