大好きな「まる」へ、ありがとう

和辻義一

大好きな「まる」へ、ありがとう

 梅雨の時期に入って間もない、ある土曜日のこと。


 休日出勤の仕事を終え、公用車を車庫に入れ終わった時、どこからかキュンキュンと、か細い鳴き声が聞こえてきた。


 不審に思って声のする辺りを見てみると、駐車場の片隅に小さな段ボール箱が置いてあった。どうやら鳴き声は、その段ボールの中から聞こえてくるらしい。


 嫌な予感がしたが、思わず段ボール箱の蓋を開けてしまった。


 案の定、そこには生後数週間ぐらいの子犬が一匹、ほんの少しのドライドッグフードと、水の入った小さな平たい空き缶と一緒に入っていた。


 見るんじゃなかったと、心底後悔した。いつからその中にいたのかは分からなかったが、子犬はプルプルと身を震わせ、段ボールの蓋が開いたことで明るくなったため、さらにキュンキュンと鳴き声を上げた。


 一般的には、野良犬が見つかった場合には役場に連絡が入り、役場はその野良犬を捕まえて保健所へと送る。だが、僕の働く役場では捕まえた野良犬を保健所へ送る前に、約一週間、役場の敷地内で保護することになっていた。野良犬だと思って捕まえた犬が、実はどこかの家から脱走した飼い犬だった場合を考えてのことだ。


 散々悩んだ挙句、僕はスマホを取り出して先輩に電話した。その先輩が、役場で野良犬の捕獲と保護を担当する部署で働いていたからだ。


 話を聞くと案の定、その子犬は住民からの連絡によって捕獲したものの、あまりにも小さかったために通常の保護用の檻に入れておくわけにもいかず、仕方なしに餌と水を添えて段ボールの中に入れ、屋根付き駐車場の片隅に置いていたのだという。


 この子犬を連れて帰ってもいいかと先輩に聞くと、先輩は「そうしてくれるなら、非常に助かる」と言った。僕はその段ボールごと自分のクルマに乗せて、自宅へ連れ帰った。


 それまでの事情を話し、この犬をうちで飼いたいと言うと、当時まだ赤ん坊だった次男を抱いた妻は何とも微妙そうな顔をした。妻は大の猫好きだが、犬はどちらかというと苦手な方だったからだ。


 しかもその子犬は雑種で、今はとても小さいが、どれほどの大きさにまで育つのかは分からない。そして、少し動物アレルギーの気があった我が家の子供達の健康に、どのような影響が出るのかも分からない。


 だが、このまま再び駐車場の片隅に置きには行けないと言うと、妻は仕方がないといった感じで折れてくれた。まだ幼かった長男は、生まれて初めて飼うペットとの出会いにとても喜んだ。


 早速土曜日でも開いている獣医を探し、子犬を連れて行った。獣医の話では、やはり生後数週間ぐらいの子犬で、分かる範囲内で調べたところでは、健康状態には特に問題がなかった。


 子犬のこれからの育て方を獣医から色々と聞き、ホームセンターで子犬用のミルクやドッグフードを買い込んで、僕らは家に帰った。


 しばらくの間は子犬が入っていた段ボールが、引き続き子犬の部屋になる。やけどをしないようにタオルを巻いた電気あんかを段ボールの底に敷いて、キュンキュンと鳴く子犬にミルクを与えてみると、子犬はよほどお腹が空いていたのか、かなりの勢いでミルクを舐めてくれた。


 子犬の名前をどうするか、妻と長男との三人で考えた。いくつか案は出たが、最終的には「生きているだけで丸儲け」ということで「まる」という名前になった。最初は犬を飼うことに微妙な顔をしていた妻も、この頃にはまるの名を呼んで、何度もその小さな頭を撫でていた。


 その日の夜、僕はまるを手のひらに乗せて写真を撮った。成人男性の手のひらにすっぽりと収まるぐらいの大きさのまるは、クンクンと鼻を鳴らした。


 最初に見つけた時から比べると、少し落ち着いて元気になったようだったので、僕らはまるを段ボールの中へと戻し、おやすみと言ってからそれぞれ布団に入った。


 次の日の朝、まるは冷たくなっていた。


 最初にそれを発見したのは、確か妻だったように思う。まるはだらりと小さな舌を口から出したまま、冷たく硬くなって動かなかった。


 前日に診てもらった動物病院は、日曜日の午前中も営業していたので、慌ててまるを連れて行った。だが、獣医は一通りまるを診察した後、静かに首を横へと振った。


 病院での診察の後からのまるの育て方を、すべて獣医に話した。獣医は「皆さんの育て方に、何か問題があったようには思えません。残念ですが、これがこの子の運命だったのだと思います」と言った。


 先輩に再び電話して、事情を話した。先輩は急な話の展開に驚いていたが、先輩の部署では火葬場の管理も行っていたので、まるの火葬を無料でさせてもらうと言ってくれた。


 だが、僕は先輩の申し出を丁重に断った。たった少しの間だけだったとは言え、一度は家族になったまるだ。せめて我が家の一員として、普通に弔ってあげたいと思った。その思いを伝えると、先輩は「分かった」と言って、休日にもかかわらずあれこれと手配をしてくれて、月曜日の火葬場の空き時間に利用予約を一つ入れてくれた。


 日曜日は一日、まると一緒に過ごした。妻はまるのかたわらでさめざめと泣いていたが、長男はそんな妻を励ますように声を掛けつつ「僕は男だから泣かない」などと言い捨てて、家の中の誰にも見られない場所まで走って行ってから、こっそりわんわんと泣いていた。


 月曜日の朝、僕は出勤前に家の庭と近所の空き地から何種類かの花を摘んできて、少量のドッグフードと一緒に、冷たく硬いままのまるが入った段ボールの中一面に敷き詰めた。ほとんど何もしてやれなかったも同然だったので、せめて最後ぐらいは綺麗にまるを送り出したかった。


 妻と長男、そしてたまたま仕事が休みだった妻の両親にまるの火葬を任せて、僕は仕事へと向かった。出勤した僕は先輩の元へと挨拶に向かい、火葬の手配の礼を言いつつ、これから保護されるかも知れない子犬用に使って貰いたいと言って、まるのために買った子犬用のミルクやドッグフードを先輩に渡した。


 それから一日の仕事を終えて帰宅すると、まるは妻が百均ショップで買ったという小さな白い陶器の瓶の中に納まっていた。あまりにも小さな子犬だったので、通常のペット用の骨壺ですらサイズが大きすぎたからだ。


 火葬しても骨が残るかどうか心配だったのだが、火葬場の係員の人達が親切にしてくれた上に、とても丁寧にまるを火葬してくれたという。骨壺代わりの白い瓶の蓋を開けると、中には真っ白い欠片の集まりになったまるの姿が見えた。


 あれからもう十四年がたつが、まるは今でも我が家の一角で、数枚だけ残った写真のうちの一枚と一緒に安置されている。


 出会いから別れまで、たった二十時間ほどしか一緒に過ごすことは出来なかったが、まるは我が家に貴重な出会いと別れを与えてくれた、とても大切な家族の一員だ。

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