毎朝数秒のすれ違い

桐山じゃろ

同じ時間にランニングする二人

 大学生になってから健康のために、早朝ランニングを始めた。

 嘘だ。筋肉つけてモテたくて始めた。

 最初の一週間は辛すぎて「俺なんでこんなことしてるんだろう」と自問自答を繰り返し挫けそうになったが、ランニング用シューズやウェア、かっこつけで購入したワイヤレスイヤホン諸々に注ぎ込んだ金が勿体なくて、意地で続けた。


 ある日、いつものコースを走っていると、前から俺と同じ大学生くらいの女性が走ってきた。

 少々野暮ったい半袖のジャージから、黒いインナーに包まれたほっそりした手足が覗いている。

 大きな胸がゆさゆさ揺れていて、俺は思わず目をそらした。


 いつもはランニングしている人に出会うと思わず会釈してしまうのだが、その日はそのままお互いに何もアクションを起こさず通り過ぎた。


 彼女は一日か二日開けて、同じコースをランニングしているらしい。

 翌々日再びかち合った時は、胸に目をやらないよう注意しつつも自然に会釈ができたと思う。


 ところが、後ろから呼び止められた。

「お兄さんっ、待って!」

 足を止めて振り返ると、女性は膝に片手を胸にあてて息を整えながら、もう片方の手に見慣れたものを載せて俺に差し出した。

「落としましたよ」

「あれっ!? ……あ、ありがとうございます」

 思わず耳に手をやってから初めて気づいた。ワイヤレスイヤホンを落としていたのだ。

「いえ。では」

 彼女はホッとしたような顔で俺にイヤホンを渡すと、そのまま振り返って走り去った。

 お礼は言えたが、もう少し話したかった。せめてドリンクくらい奢りたかった。

 せっかくの出会いに惜しいことをしたなと頭をかきながら、俺もランニングを再開した。



 俺がイヤホンを落とした次の日から梅雨入り宣言が出され、雨で仕方なく早朝ランニングに行けない日が何日か続いた。

 人間とは不思議なもので、春からずっとほぼ毎朝走っていたせいか、走らないと逆に体調が悪い気がしてくる。

 大学から帰ってくると珍しく雨が止んでいて、気候もちょうどよかった。

 俺は四日ぶりにウェアに袖を通し、ペットボトルを二本持ってランニングへ出かけた。


 ペットボトルのうち一本は、先日の彼女に逢えたら礼として渡そうという魂胆だ。


 走り出してから気づいたが、彼女のランニングタイムは朝だ。俺のように思いつきで夕方近くに走っていることなど無いだろう。

 ペットボトルは一本五百ミリリットル。単純計算で二本で一キログラムだ。地味に重い。

 これもトレーニングの一環になるかなと、気持ちを前向きにして走っていた。


 前方から、見覚えのある色の野暮ったいジャージが走ってくる。


 彼女だった。


「あっ、あ、待って」

 通り過ぎる直前に慌てたせいか、不審者みたいな声が出た。

 しかし彼女は奇跡的に足を止めてくれた。

「はい?」

「先日はあの、ありがとう。これ高かったから、助かりました。これ、よかったら好きな方どうぞ」

 ペットボトルはお茶とスポーツドリンクの二種類。

 彼女は暫し何か考えて、ああ、と顔を上げた。

「気にしなくていいですのに。よくいらっしゃるんですよ、ランニング中に何か落とす人。でも、せっかくだからこちら頂きますね。ありがとうございます」

 彼女が選んだのはお茶だった。

「いや、本当に助かったので」

「それならよかったです。では」

 彼女は爽やかな笑顔になると、いつもの方向へ走り去った。



 ランニング中の彼女とはそれきりだ。

 梅雨があけて早朝ランニングを再開したが、彼女が前方から走ってくることは二度となかった。



「同じ大学だったなんてね」

 隣の席に座る彼女の手には、あの日俺が渡したのと同じお茶のペットボトルが握られている。

「通りで同じ時間帯だったわけだ」

 俺の鞄の中には壊れたワイヤレスイヤホンが、彼女との出会いの切欠となった大切な思い出の品として、入れたままになっている。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

毎朝数秒のすれ違い 桐山じゃろ @kiriyama_jyaro

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ