第五章 彼岸淵の砂海 探索編 3
「蜘蛛の糸……ってなんだっけ、聞いたことある。芥川龍之介?」
聞いたことある、と言った瞬間、キュウはわずかに目をこちらに向けたが、そのあとすぐに失笑した。
「あぁ、そういえばあったなぁ、そういうタイトルの話」
「違うのか?」
「まぁな」
キュウは鼻を掻いた。車がガクンと揺れる。
俺は芥川龍之介の『蜘蛛の糸』を思い出したが、ぼんやりとしか浮かばなかった。
「なんだっけ? 空から蜘蛛の糸が垂れてくるのか? それを上れば現世に戻れる的な?」
冷やかすように言ってみると、キュウはこちらをゆっくり見た。目が笑っていない。
「少し違う。でも、その糸を見つけたら現世に戻れる、らしい」
「……マジかよ」
冗談で言ったつもりが本当だった。その衝撃と同時に車がさらに大きく揺れた。
「そんなのがありゃ、こんな面倒くさいことやらずに一発で現世に戻れるじゃん」
「都市伝説だけどな」
キュウはすぐさま一刀両断した。
「なんだよ、都市伝説かよー」
少し期待したのに。キュウはケラケラと笑った。
「よーし、そろそろ砂海だ! 全員車の中に入れー!」
ノウさんが大声で呼びかける。どこまでも真っ赤な大地は乾いており、砂海の境目となる場所から先はいくらか色素の薄いサラサラた砂が広がっていた。車輪が折りたたまれていく。車を動かしていた
窓を開けて外の様子を眺める。砂海は水となんら変わりない様子であり、ムカデの
「これが砂海……」
「そう、彼岸淵の砂海だ。まだ浅瀬だが、だんだん深くなっていく。現世の海と同じようなものさ」
ハチがつまらなそうに言う。ノウさんも車内に入ってきて全員が円になって向き合う形となった。
「さて、今回の任務だが──砂海の北方面にあると報告があった
ノウさんが厳かに説明した。
「二人一組で行動する。フウとキュウは待機、ハチとレイは海底探査。俺とハトは先に行って様子を見てこよう。いいな、お前ら、あとで落ち合おう」
全員が神妙に頷く。俺はハチをチラリと見た。ハチも俺の視線に気づき、憂いげに眉を下げた。
やがて風が吹き、砂面に波が立つ。船を揺らす波はまさに海そのもの──なんだろう。海に行ったことが一度しかないので自信がない。彼岸淵の岸辺が見えなくなった頃、おもむろにノウさんがムカデの
「さぁ、始めようか」
ノウさんがゴーグルを装着しながら言うとハトさんと一緒に砂海の中へ飛び込む。俺たちもすぐにゴーグルを装着した。ノウさんたちが砂の中へ落ちていく。それはさながら蟻地獄に沈むようだった。俺たちは沈みゆく二人を見送る。
「これ、どうやって上がってくるの」
堪らず俺は訊いた。
「この下はほとんど空洞だ。上がるには船にロープをくくりつけているからそれを上るか、飛べる
「過酷!」
海のように体が浮くわけじゃないから自力で上るしかないのか。つらい。
そして俺たちもそうして船に戻るしかないのだということも同時に悟り、それまであったわずかな高揚感が一気に消え去った。
「気ぃ引き締めろよー。ここから先に待つのは地獄だ」
ハチが首元のネックウォーマーを鼻まで引き上げて言う。俺も真似してネックウォーマーを引き上げた。
そうして砂海の中へ飛び込むも、勢い虚しくゆっくりゆっくり沈んでいく。
「気をつけろよー!」
沈みゆく俺に向かってキュウが声援を送る。片手を上げて応えた。
それから俺とハチは下へ落ちていく。砂の中は生ぬるく、サラサラと細かい粒子がまとわりつくような感覚が気持ち悪い。下へ落ちるのは流れに身を任せてしまえばいいが、帰りのことを考えると憂鬱になってくる。
「嫌だなぁ……面倒だ」
「無事に帰ってこられればいいがなぁ」
ハチがのんびりと恐ろしいことを言う。またいつもの脅しだろう。その手に乗るものか。
下へ沈むと、確かに空洞となっていた。隆起した岩や柔らかい砂山がある。俺たちはちょうど岩の上にあった柔らかな砂山に落ちた。拍子抜けするほど柔らかく、衝撃も何もない。ただ俺たちが降りてきたせいか砂埃が舞った。
砂山に寝転がる俺をハチが見下ろし、手を差し出してくる。
ハチの手を借りて立ち上がり、あたりを見回すも先に降りた二人の姿がすでにない。
「足跡もない」
「そりゃそうだ。この砂はほとんど粒子だ。歩ける水って感じかな」
そう言いながらハチがゴーグルを外すので、俺も倣って外した。ネックウォーマーを下ろせばいくらか呼吸が楽になる。しかし砂海の底は空気がよどんでいて、カビや鉄のようなニオイで充満していた。
二人で岩を滑り降り、いくらか足場のいい場所を行く。ノウさんとハトさんがつけた足跡はすでに柔らかい砂に埋もれてしまっていた。俺たちの足跡も形がつかずに消える。ランタンを首からぶら下げて周囲を照らさなければ、周囲を視認することができないほど薄暗い場所にしばらく二人、無言のままその場に待機した。
海底は音を出すのも憚られるほど静かだ。
「……なぁ、ハチ」
沈黙が堪えられないので話しかける。ノウさんが言っていたこと、今回の任務の真意、いろいろとわからないことが多い。
「今回って、ただ単純に
「あぁ。
「その
なんとなく言葉の響きからして嫌な気分になってくる。
「……そうだな。まぁ見りゃわかるだろうが、要するにこの前の喫茶
低い声音で言うハチの顔色はあまりよくない。何かを警戒するかのように神経を研ぎ澄ましている。
そうか、アレがいるのか、ここには。
俺はまだ妖怪に取り憑いた
「そんな中で呑気にトランプしようって言えるハチの神経が怖い」
「まぁ、考えたら死ぬからなぁ」
互いにおどけるように言ってみても大して効果はない。
ハチと俺は海底から沈まないようしばらくその場を歩くことにした。
時折、砂が降ってくる。それはなんだか雪のようだった。海底は砂面から離れるごとに気温が低くなっている。いつもの制服の上からケープを着ていてよかった。
「……ノウさんたちは北へ向かった。今の所、とくに問題はないようだし、俺らは周辺を散策しよう」
目印も何もない海底の奥地を見つめるハチ。俺は彼の後ろをただついていくことしかできない。
海底はところどころ光の筋が入り、明るいところと暗いところの差が激しかった。主に空洞ばかりだが、たまにゴツゴツとした黒い壁がそびえ立つ。まるで洞窟のようだった。
「そう言えば、昨日はなんだってあんな洞窟に行ってたんだ」
昨日のことを思い出したらしいハチが唐突に訊く。
「ネミさんから聞いたんだ」
「あー、あのサボり魔ね。どうりで市内のどこにもいねぇと思った。俺が外してる時はやたらキュウちゃんと一緒にいるが、ついに二人でサボるようになっちまったのは想定外だったなぁ」
「別にサボってないし! ちゃんとサナギとか虫とかは殺したし」
つい言い訳っぽくなる。ハチは肩をすくめた。
「もうちょい頑張らねぇと現世へ還れないぞ」
「うーん……」
ハチのいつもの軽口を聞き流すも、俺は少し迷った。キュウが話していたことがどうにも引っかかっている。
「なぁ、ハチ」
現世へ還る方法、実はあるんじゃないか──しかし、言葉は形にならなかった。
ハチがこちらに振り向いた瞬間、俺の視線の先に白い光がよぎる。瞬間、何かがハチの頭を思い切りかすめた。
「ハチ!」
「ん?」
彼はのんびりと前方を見やった。彼の髪の毛がはらりと落ちる。
「……おっと?」
俺たちの間に割って入ってきたのは細長い針だった。
「えー、何これ?」
ハチは自分の額に刺さった針を抜いた。
「刺さってんじゃん!」
「お? おぉ、お前が話しかけるからな。いや、いいじゃん。お前に当たらずに済んだ」
抜いたところから血がぴゅっと噴き出す。それでもハチは気にしない様子で針をじっくり眺めていた。
「向こうから来た……この針は、おそらく蜂だな。なるほど、海底に住むやつね」
「ハチ? ハチが蜂に刺されたってこと?」
「そういうことらしい」
なんて他人事な言い方だ。彼は気だるそうに一歩進んで、懐から拳銃を出した。一発放つ。手応えがあるのかどうなのか、ハチは首に手を当てて「うーむ」となんとも言えない様子で唸る。
「まぁ、砂海じゃ割とポピュラーなやつだ。レイ、虫の
そう言うと彼は先へ進み、洞窟の中に入った。俺は怖いのでついていかずにその場で待機。
ほどなくして、ハチがUターンして戻ってきた。
「やべぇ! レイ! やべぇ!」
「え? 何!?」
走って戻ってくるハチに腕を掴まれ、来た道を戻る。足が砂に取られるので思うように先へ進まない。やがて背後から大きな蜂が大群を引き連れて飛んできた。
「やべぇ!」
「一旦体制を立て直す! レイ、飛べ!」
そう言うとハチは俺の体を振り回し、近くにあった岩場へと放り投げた。ハチだけが蜂の標的になる。俺はそのまま岩場に足をかけて勢いのままてっぺんの部分まで飛び上がる。
そうしているうちにハチは拳銃で大蜂を撃ち抜いた。それでも他の蜂に囲まれていく。それは一つの塊と化すようにハチの体へ纏わりついた。
やばい。あんな大群に飲み込まれたらさすがのハチも食われかねない。でかい獲物は動きが単純だし仕留めやすいが、小さなものが攻撃性を持って向かってくると歯が立たない。俺は腰のベルトに差していた火炎放射器を掴んだ。ハチに向かって狙いを定める。
「今だ! やれ!」
ハチの声と同時に放射器をぶっ放すと、火が噴射された。やがて人形の火だるまが出来上がる。
「ハチ……!」
耳を塞ぎながら火だるまを見つめる。
やがて彼は引火したケープを脱いで砂へ投げ捨てた。ハチはところどころ火傷しているが、大事には至らなかったようで面倒くさそうに焦げた服を叩いていた。
「はぁ、なんとかなったな」
全然なんとかなってないけど。
「これからこんな感じでやってくの? 命がいくつあっても足りなくない?」
「仕方ねぇだろ。ここ最近、砂海の
「じゃあ、最近ハチたちがたびたびいないのって……」
ハチの頬の火傷がみるみるうちに治っていくのを見ながら俺は顔を引きつらせた。
「うん。最近はここによくいる。つい最近、俺らの班員が死んだんで、お前ら
ここでの死──すなわち
俺は頭を抱えてその場に崩れた。
「最悪じゃん!」
「だから言っただろ、無事に帰ってこられたらいいなぁって」
嫌だ! 今すぐ帰りたい!
そんな願いは虚しく海底に飲み込まれたまま、誰の耳にも届くことはない。
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