骨身に沁みゆく

いいの すけこ

牙と爪

 枝で羽根を休めていた鳥が、唐突に高い鳴き声を上げる。

 それは危機を知らせる声であり、今まさに命を奪われようとしている者の悲痛な叫びであった。

 幼子の小さな手が、灰毛の鳥を鷲掴みにしている。

 しゃわしゃわと響き渡る蝉時雨よりけたたましく、切実に、子どもの手の中の鳥は鳴き喚いた。

 鳥と戯れたくて加減を間違えたのか、それとも無邪気な悪戯なのかと、窘めようと口を開きかけるが。

 幼子は悲鳴を上げ続ける鳥を口元へと運び、思い切り嚙みついた。

「イサナ!」

 目を疑うような光景に八神やがみが声を上げると、幼子――イサナは、びくりと背中を震わせた。緩んだ口元から解放された鳥が、ぽとりと地に落ちる。

 噛みついた形のままの口をぽかりと開けて、イサナは八神の顔と地に落ちた鳥を交互に見比べた。

「落としちゃった」

 口の端に羽毛をつけたまま、イサナは言う。


「捕まえようとしたのか。この鳥を」

 地に落ちた鳥は、まだ生きているようだった。けれど羽根を痛めたのか、内臓がつぶれたのか、逃げようもなくその場でもぞもぞしているだけ。

「鳥が飛んでるのとか、兎とかいたちなんかがちょろちょろしてるのみると、捕まえたくなるよ」

 つまるところあれは、狩りの光景だったのか。

「人間の牙って、弱いね」

 とおばかりの人の子の姿こそしているが、イサナの本性は獣だ。人間よりもむき出しの、狩猟本能のままに獲物を捕らえたのだろう。

「だから人間は、武器を使うんだね。牙も爪も弱いから」

「そういうことだな」

 人間は獣よりは、狩りの衝動は少ないのだろうけれど。それでも『食べる』という目的のために生き物と対峙するのは人も獣も同等だろう。

「人の前では、人の格好で狩りをしちゃ駄目って、お父さんは言ってたんだけど。おじさんだから、良いかなって」

 人気のない、小高い山中の切通しを行く二人は、一見すると親子のようでもある。けれどその実は人と獣の子、異なる者同士の道行きであった。


 八神は竜追いで、仲間とともに竜を狩って暮らしていた。竜を殺し、捌き、食らいながら生きてきたが、今は仲間と離れて幼子と二人、あてどなく流離さまよい暮らしている。流離うのは、もともとが根無し草なのもあるが。

 生き方を決めかねているからだ。

 竜追いとしての生き方を覆すほどのことが、自分の身に降りかかった。

 それがイサナを伴うことになった理由でもあるのだが、子を育てるどころか、弟子を取ったことすらない八神である。それでもイサナの手を離さなかったのは、もはや降ろしようのないものを背負ってしまったからだった。

「人の時は、動物を追っかけたりしないように気を付けるね」

「そうしてくれると、助かる」

 動かなくなった足元の鳥。一瞬にして、夏の暑さに噴き出していた汗が引くような衝撃的な光景であった。生きたままの動物にかぶりついた幼子は、どんな目の色をしていたか。

「……元の姿に、戻ってしまいそうなことはあるか」

「そうしたら、おじさんと一緒には行けないでしょ」

 それが本心でイサナの望むことなのかは、わからないが。

 そっと伸びてきた手が、八神の手のひらを確かに掴んだ。


 切り開かれた山道を行き、中腹より少し高い地点でわずかに道を外れる。この山はさほど標高が高くないため、麓と大して暑さは変わらないはずだ。それでも鬱蒼とした緑に覆われていて、道を外れて樹林に分け入れば木陰が心地良い。降り注ぐような蝉の声ばかりは、どうしようもないけれど。

 樹齢はいかほどか、威厳さえ感じる巨木に寄り添うように建つ小屋があった。戸口は暑さにも関わらずぴったり閉じていて、留守かもしれない。もしくは仕事に集中しているか。しばし考えていると、イサナがふらりと八神のそばを離れた。何か気になるのか、小屋の裏手へと近づいていく。

「へんなとり」

 イサナがびくりと足を止めた。足元で数羽の鳥がうろつきまわっている。茶色い羽毛に、赤い冠がついた頭。

「鶏は見たことないか」

「ある。人間のところにいる鳥。雉みたいだけど、ちょっと違う。森の中では見ない」

 ここここと控えめな声で鳴いている鶏を、イサナは目で追う。一匹が急に高い声を上げたのに驚いて、イサナは飛び上がるようにして八神の背に隠れた。

 その本性は獣の頂点に立つというのに、見慣れぬものは恐ろしいのだろう。己の背後に回った幼子に、この子どもはよく父親の背に隠れて張り付いていたなと思い出す。着物をぎゅっとつかんで、離さないように。

 小さな手が背中を掴む感触がした、その時。

「何してんだ!」

 突然、大声で咎める声がした。

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