張夫人の料理帖

高麗楼*鶏林書笈

第1話

 今日も彼女はひなが一日自室の机に座り、筆を走らせる。

「鳥の蒸物については書いたから次は鳥を焼く料理について書きましょう」

 夫が他界し、家事は全て嫁に任せた現在、彼女は好きな執筆活動に専念している。もともと読書や詩文を書くことが好きだったが、結婚後はもっぱら家事と子供たちの養育の日々を送っていた。そのことには特に不満は無かった。これらのこともそれなりにやり甲斐があり、また面白かった。

 息子が結婚したのを契機に彼女は家の中のことは少しづつ嫁に委ね、自身は隠居生活に入った。

 時間に余裕の出来た彼女は独身時代のように書物を紐解いた。そして詩作も始めようかと思った時、ふと、自分の詩才などたかが知れているし敢えて書き残すことはないだろう、それよりも価値あるものを書いた方がよいのではないだろうかという考えが浮かんだ。自分しか書けない価値あるもの――。何気なく机の脇に目をやると文箱があった。中には、これまで家事をしながら教えてもらったこと、気付いたことを記した紙片が入っている。

「そうだ、これを纏めよう」

 彼女は蓋を開けると紙片を整理し始めた。

「やはり料理関係が多いわね」

 ということでまず料理について纏めることにしたのである。

「鳥の焼き物といえば……」

 彼女の脳裏にある場面が過った。


「夫人、急に友人が来ることになった。何か用意してくれないか」

 夫の突然の要求に彼女は内心慌てたが、

「分かりました」

と笑顔で応じた。

 さて、どうしようか

 彼女は少し考えたが、

「あの鶏を使おう」

 数日前、知人から鶏を貰ったのを思い出した。彼女はすぐに料理女に鶏の内蔵処理をさせて厨に吊るしておいた。それを焼き物にしよう。まず、羽を毟り、羽と足を切り分けて塩をふって少し置く。焼く時には繰り返して水を塗りながら焼いて、仕上げに油と醤油混ぜたものを塗って焼けば雉よりも美味になる。

「それと荷香酒を出せばいいわ」

 彼女は、料理女に指示を出した。そして、漬物、汁物、白飯、果物等々を用意させて膳を整えた。

 来客が帰った後、夫は

「友人はとても喜んだよ。焼いた鳥は美味かったし、酒も香りが良かった。君は、経書は少しは分かるが料理を始めとして家事は駄目だと師匠は仰ってたが、いや、家事も立派にこなせるよ。大したものだ」

と彼女を称賛した。

 彼女の父親は夫の師匠だった。弟子の人柄を知った上で娘を後添えにしたのである。父親の判断は正しかったと彼女は信じている。


「生涯を学問に捧げた士人だったわね…」

 料理について書くつもりだったのに、いつの間にか夫のことを回想していた。夫の回想記の方が筆が進みそうな気がしたが、それを書くのは息子たちの役割だ。料理についてこそ自分が書くべきことなのだ。

 気を取り直して再び筆を取った時、

「お祖母さま、教えて欲しいのだけど」

 戸の外から孫娘の声がした。この娘は何かと祖母を頼る。家事について、書物について詩文について等々。

「私もまだまだ引退出来ないわね」

 彼女が呟いた時、

“そうだよ、子供たち、孫たちをよろしくな”

 どこからか亡夫の声が聞こえたように感じた。

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張夫人の料理帖 高麗楼*鶏林書笈 @keirin_syokyu

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