第29話・魔力治療2

 最近では珍しいことに、館の中はしんと静まり返っている。

 ご飯を食べてお腹がいっぱいになった子猫達は、四匹が重なるようにソファーの上で眠っていた。あまりに密集している為に、よく見ないとどれが誰の足だか尻尾だか分からないくらいで、毛色が入り混じった一つの毛玉のようにも見えてくる。


 その向かいの席には、アナベルに言われた通りに深く腰掛けているレイラと、隣で心配そうに顔を覗き込んでいるティグの姿があった。

 ソファーの背凭れ越しにレイラの背後に立つ森の魔女は、深呼吸するようにふうっと長い息を吐いた。レイラの肩に添えた両手から、ほんの少しだけ魔力を放出していく。弟子の肩に走る魔力腺の中に自分の魔力を注ぎ入れ、傷付けない程度の力で腺を内側から押し広げるつもりなのだ。


 力加減を誤れば、そのか細い腺を破損してしまいかねない。書籍には施術の失敗例もいくつか紹介されていた。念の為にと用意した回復薬の存在が無言のプレッシャーをかけてくる。


 微調整を繰り返しながら探ってみれば、少女の肩の魔力腺には左に二か所、右に一か所の滞りが見つかった。捻じれを起こしていたせいで、その箇所は他に比べて細くなり、魔力流れの勢いを妨げているようだった。

 なので、単純に押し広げていくのではなく、捻じれを修正する為に逆向きに魔力を捻じりながら流していかなければならない。


 思いもよらず繊細な動きが必要となり、アナベルの額には薄っすらと汗が滲み始める。力を入れ過ぎてしまった際には、レイラが痛みを感じて喉をくっと鳴らして耐えているのが背後にいるアナベルからもよく分かった。


 左肩の二か所の治療が終わり、残すのは右の一か所。その時、アナベルは一瞬だけくらりと身体が揺れるのを感じた。寝不足に加えた極度の緊張が限界に達し始めたのか、額の汗が粒となって流れ落ちていく。


「アナベル様?」

「心配ないわ。あと一か所だけだから、頑張ってね」


 肩から感じる魔力が途絶えたのを心配気に振り向いたレイラに、アナベルは頷きつつ微笑んで返してくる。再び前を向くよう指示されて、また肩に置かれた手からアナベルの魔力を感じ始める。

 三か所目ともなると少しは慣れたのか、治療自体は他の箇所よりもスムーズに完了し、アナベルはそっとレイラの身体から手を離す。


 と、またもや大きな揺れを感じて、アナベルは支えるようにソファーの背凭れを掴む。それほど魔力は使っていないので、魔力疲労ではないけれど、身体をふわふわした不安定な感覚が襲ってくる。


「アナベル様?!」


 ソファーの後ろでしゃがみ込んでしまったアナベルに気付き、レイラは慌てて立ち上がって駆け寄る。肩を支えて歩かせ、何とかソファーへ座らせた後、少しばかり呆れたように溜め息をついてみせる。


「寝不足なのに、無理なさるからですよ。お部屋に戻って、ちゃんと眠って下さい」


 いつもとは違い、ちょっと強い口調の弟子の言葉に、アナベルはおかしそうに笑っている。けれど、その笑顔もどこか弱々しい。しばらくするとふら付きが落ち着いたのか、諦めたように立ち上がって自室へと向かうアナベルには、誰かから言われなくてもティグが当たり前のように寄り添って歩いていた。


「ティグちゃん、アナベル様をよろしくね」

「にゃーん」


 手摺りを使いながらゆっくりと階段を昇っていく途中、アナベルはレイラを振り返る。


「少しはマシになってると良いんだけど」


 早く力を試してみたいというレイラの心の声でも漏れていたのだろうか、傷薬ならいくらでも作って良いわよ、と楽しそうに笑って言ってのける。

 アナベルが無事に階段を昇り切るのを確認すると、レイラは作業部屋へと向かう。自然と早足になってしまっていることは、自分では気付いてはいない。


 すでに何度も一人で作ったことのある森の魔女の傷薬のレシピは、一種類の薬草だけを使う。レイラの魔力の量では小さな壺と鍋を扱うのが精一杯だったが、それでも最初から仕上げまで一人で作り上げることができる薬ができたのが嬉しかった。


 自分専用になっている壺へ乾燥した薬草を放り込み、蓋を閉めてから粉砕の為の風魔法を発動する。添えた手に魔力を流して壺の中で小さな竜巻を起こすのだが、いつもなら少しずつ回り始めた風が徐々にその回転速度を上げていき、ようやく竜巻状へと変わる感じだった。

 けれど、今の風の動きはこれまでとは全く違う。


「あれ?」


 魔力を流した瞬間から壺の中に出現した竜巻。レイラは驚いて思わず声を出してしまう。量は増えないけれど勢いは増すかも、という師の言葉の意味がようやく理解できた。


 これまでは無駄に流していた初動となる魔力。それが要らない分、全体の魔力量は増えていなくても使える量は大幅に増加しているはずだ。持っている魔力を最大限に活かせることができるなら、持久力も調薬の速度も随分と変わったかもしれない。


「アナベル様、すごい……」


 体調が万全でないにも関わらず、レイラの為に力を使って治療を施してくれた師の知識と技術に改めて尊敬の念を抱いた。


 以前のアナベルの雑な発注によって大量に抱えていた薬草の在庫を思う存分に使って、魔力疲労を起こすギリギリになるまで、その日のレイラは傷薬の瓶を木箱いっぱいに詰め込んでいた。

 しばらくの間、薬店からの傷薬の納品依頼が途絶えることとなったのは言うまでもない。

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