第26話・森の館の侵入者3

 用意された軽食を平らげた後、深くソファーに身体を預けているジョセフが睡魔に抗えずに目を瞑った。それを確認すると、マーサは窓際のティーテーブルで待機している護衛騎士のお茶を淹れ直してから調理場へ戻った。


 手早く用意した一人分の朝食をトレイに乗せて、二階の階段を上がって行く。手前三つ目の扉を隙間から覗いてみると、毛布を頭まで被って眠るレイラの周りには子猫4匹がぴたりと寄り添うように丸くなっていた。

 廊下を進んで館の一番奥に位置する主寝室の扉を軽く二度叩くと、始めは拳一つ分だけだった隙間がゆっくりと静かに外側へ開き始める。


「まあ。ティグちゃんもここにいたのね」


 足元を見れば、食べ物の匂いに鼻をヒクヒクさせているトラ猫が、縞模様の身体を擦り寄らせて扉を中から押し開けていた。マーサの運んで来たトレイの中身が気になるのか、ねだるように後ろ足で立ってよじ登って来ようとする。


「ティグちゃんのご飯はちゃんと下に用意してありますから、後でいらっしゃいな」


 猫に開けて貰った扉から入室した後、世話係は部屋の中央に設置されたソファーテーブルの上にトレイを乗せる。そして、チャコールグレーの革が張った三人掛けソファーの端で肘置きと背凭れに身体を斜めに預けた少しだらしない体勢で本を読んでいたベルを、咳払い一つで諫める。


「ジョセフ様は下で休んでおられますわ」

「そう……」


 興味なさげに頷き返し、ベルはソファーの隣に飛び乗ってきたティグの背中の毛を撫でていた。毛流れに沿って背を中心に撫でていると、ごろんと凭れるように倒れ込んでお腹もさらけ出してくる。背や頭よりも少し長めの腹毛はフカフカの手触りだが、あまりしつこく触っていると後ろ足で苛立ったように蹴られてしまうことがあるので注意しなければならない。


 猫達と出会ってから、腕や足の細かい傷が絶えることがない。普段は肉球の中に隠されている爪は意外と鋭く、まさに昨晩のベルの風魔法のように表皮一枚をえぐる程の威力は余裕である。


 マーサに願われてベルがティーポットに手を添えて湯を沸かすと、世話係はそれで少し甘めのフルーツティーを淹れて出した。読みかけていた書籍を横に置いてベルが朝食を口にしている間、マーサはベッドや机の上に積み上げられている書物などを本来あるべき場所へと戻して回った。今手元に置いている物以外は読み終わったまま放置されているだけと判断されたのだが、ベルが何も言わないということは間違っていないのだろう。


 主がいつもの魔女仕様の黒いワンピースを着ているのを横目で確認すると、クローゼットの中から白色のブラウスとスミレ色のスカートを選び出し、これ見よがしにベルの向かいのソファーの背凭れに掛けていく。

 マーサからの着替えるようにという無言の圧力を感じて、森の魔女は口に含んだフルーツティーをごくりと飲み込んだ後、見えないように眉をひそめた。


「そろそろ護衛の交代の時間じゃない?」

「ええ。次の方達は後から来られるそうですわ」

「そう……」


 お供の騎士達の勤務時間に合わせてジョセフも一旦引き上げてくれるのかもという期待はあっさりと覆された。今日はあまり人に会いたくない気分だったが、諦めるしか無さそうだ。

 カップに残るお茶を一気に飲み干して、ベルは渋々ながらもマーサの指示に従って着替えることにする。


「ベル! 無事で良かった」


 今日の気分とは正反対の明るい装いの森の魔女は、ホールに顔を出すや否や、長身の従兄弟から名を呼ばれ、抱きしめられた。いつの間にこんなに身長差が出てしまったのだろうかと、これ以上ない至近距離にいるジョセフの変貌に密かに驚く。決して低い方ではないはずのベルが、従兄弟の胸元までしかないのだから。


 ジョセフは昔からひょろりと背だけは高く、ベルはいつも上から見下ろされていたが、ここまで差は感じ無かった気がする。

 そもそも、彼と話す時はいつだって座った状態で、並んで立ったことは最近ではほとんどなかった。あったとしてもまともに見た記憶がない。


 柄にもなく少し戸惑いながら、ベルは従兄弟の抱擁を押しのけてソファーへと向かう。栗色の少し癖のある髪に隠れた両耳が、動揺の為に少し熱を帯びていたことはその場の誰も気付いてはいない。


 ――ダメね、今日は少し調子が狂うわ。


 人に対して魔法を撃つという初めての経験は、森の魔女の心を多少なりとも乱しているようだった。森で魔獣を討伐するのとは訳が違う。いくら盗賊と言えど、言葉を発し同じように生きている人間に対して、傷付ける目的で放つ魔法はベルの人との距離感を狂わせる。


 苦痛で歪む顔と怯える目は間違いなく自分へと向けられていた。護りたいものを護る為に、仕方ないことだとは分かっているけれど……。


「アナベル? もしや、どこか怪我でも?」

「いいえ、大丈夫」


 向かいの席に腰掛けたジョセフが心配そうに顔を覗き込んでくる。首を振って否定してみせるが、従兄弟はオロオロと視線を彷徨わせているままだった。警備兵の代わりに彼女から昨晩の話を聞き取るのがジョセフの役目なのだが、今はそれどころではなさそうだ。


 ふと、交代の騎士が結界を抜け入った気配を感じ、ベルはマーサに迎え入れるようにと指示を出す。窓際にいた夜勤の護衛も気付いて外に出ていき、しばらくは外から引き継ぎのやり取りが聞こえて来た。

 その後、交代して入って来た壮年の護衛騎士の顔に、ベルはとても見覚えがあった。父と同年代のその騎士のことは、子供の頃からよく知っていた。


「アデルおじ様!」


 驚いたように立ち上がり、駆け寄って行く。彼の登場はジョセフ自身も予想していなかったようで、ぽかんと口を開いたまま固まっていた。本来は現場に出て護衛をするような騎士ではないはずの彼は、柔らかい表情でベルへと笑いかけた。


「アナベル様、お元気でしたか?」

「ええ。アデルおじ様がどうして、こちらへ?」


 冒険者時代からの父の友人であり、剣術があまり得意ではなかった父の相談役でもあった彼は、今はグラン領の騎士をまとめる立場にある。決して、ジョセフ個人の護衛をしている場合ではないはずなのだが――。


「昨晩の話を伺いまして、つい来てしまいました」


 照れくさそうに笑う騎士長アデルの不器用な笑顔に、ベルもつられて破顔した。剣士として突き進み続ける彼には、今のベルの心の揺れが理解できるのだろう。その頼もしさと安心感に気持ちがすっと解れていくのを感じた。

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