あしたも夜
時雨 柚
1
玄関のドアを、音が出ないようにそっと閉めた。
お客さんを出迎えるためのライトが自動で点いて、ドアの前から離れてしばらく経つと消えた。しんと静まった家にほっと息をついて、その家に背を向けた。
「やっほー」
今夜は月がない。あたりは一面闇一色。こんな日はお迎えが早い。逆に満月が爛々とあたりを照らしているような日は、しばらく歩かないと声をかけてくれない。
「やっほー」
やまびこのように言葉を返す。声の方に視線を向けたりはしない。たとえ向けたところで、そこには何も見えはしない。私は彼女の姿を見たことがないのだ。初めて〝会った〟時から、彼女は闇の中に姿を隠し続けている。
闇の化身みたいなその存在とは裏腹に彼女の声は軽やかで、私と同年代か、年下にも聞こえるような声をしている。近所ではただの一度も聞いたことがない声だから、少なくともこの近くに住んでいる人ではない。
今は三時を回った頃だろうか。私も彼女も、きっとマトモな人ではない。通りに人の気配はなく、周りの家々も音や光を出さずにひっそりと立ち並ぶばかりで、暗い世界に一人きりになってしまったような感覚だ。その心地よさに不意に割り込んでくるのが、彼女の声だった。
「学校は?」
彼女は私の心のスキマにぬるんと入り込んできて、どかっと座ってずうずうしく居座っている。追い出したくならないのが不思議だけれど、テーブルを挟んで向こう側にいるくらいの距離感で、そこから動こうとしない。私も退かず拒まないから、その距離感をずっと保っている。無理に攻めてこないのが、すこしありがたい。
「明日はおサボりー」
一人になれるから飛び込んでいた夜が、いつの間にか二人で過ごすものになっていた。決して私が心を開いたわけではない。勝手にそこにいるだけ。一人とひとりが、一緒にいるだけ。
「いっけないんだー」
夜の町。昔はもうちょっとくらいは明るいものだと思っていたけれど、住宅街にぽつんぽつんと置かれた街灯はところどころをぼうっと照らす程度で、道全体を照らすには全然足りない。もっと浅い時間なら着いている家の灯りも、この時間になるときれいさっぱりなくなってしまう。
「いいんだよ、もう卒業できるんだから」
軽い言葉を交わしながら歩を進める。足元はあまり見えないし、それなのに注意深く歩いているわけでもないけれど、転んでも彼女が助けてくれるような気がしていた。もし二人して転んだら、二人して笑ってしまえばいい。
「卒業したらどうするの?」
彼女の声は変わらず弾んでいる。あなたはどうなの、と聞いてみたいけれど、私は彼女のことを何も知らない。昼間の私とは大違いで、夜になると、彼女の前だと、口からするすると言葉が出てくる。しゃべることが心地いいのは真夜中だけだった。
「さあ、どうしようね」
壊れかけの街灯の横を通り過ぎた。ぶつ、ぶつ、と文句をたれる街灯には虫も寄り付いていない。修理されるのはいつなんだろう、とぼんやり考えた。
「大学、だっけ? 行くんじゃないの?」
彼女は無邪気で、聞き上手で、包容力があって、世間のことをほとんど知らない。よく日本語で交流できてるな、なんて思いながらいろいろなことを教えた日々を思い出した。私の身の回りのことから始めて、私には関係のないことまで、聞かれるままに答えていた。彼女はまるで、幼いこどものようだった。
「まだ迷ってる感じかなー」
あまり気の乗らない話でも、彼女が相手ならやっぱりさらりと口が動いた。先生よりも、家族よりも信頼できる存在。友だちとはこういう人のことを言うのかもしれない。私にも新しく学ばされることがあったようだ。
「じゃあさじゃあさ、私と一緒に暮らしてみる?」
立ち止まった際のこつ、という靴の音がやけに強く響いた。声の方に顔を向けてみるけれど、そこに見えるのは闇ばかり。彼女は少し先まで行ってしまったようで、私の横まで引き返してくる気配がした。
「一緒に? 暮らせるの?」
思いがけない提案だった。不審者について行ってはいけませんだとか、知らない人に声をかけられても無視しましょう、といった注意喚起は私の頭からはすっぽり抜け落ちていた。彼女のことを何も知らないからどこに暮らしているのかもどうやって暮らしているのかも考えようとしなかったけれど、向こうから提案されると突然興味が湧いてきた。
「うん。もしよかったら、だけどね。どう?」
目をぱちくりとさせて、何もない空間をじっと見つめてみる。彼女が照れたような気がした。
一緒に、暮らす。あれこれ考えてみたけれど、やっぱり実感が湧かない。それでも今の状況よりはマシだろうと思えた。目的地を決めないさんぽみたいにふらふらとしている今よりも、彼女の隣に落ち着く方がよほど安定している。
家族とか、将来とか、いろいろなことがどうでもよくなったみたいだ。期待で心がふわふわと揺れている。心が軽いというのはこういうことかと、また一つ学ぶことがあった。
「……じゃあ、そうしようかな」
昼間の私よりもずっと小さな声だったけれど、静かな夜の空気は敏感にその音を伝達した。彼女の顔がぱあっと明るくなった気がした。それと対照的にあたりの夜がぐっと濃くなって、神秘的な暗さに沈んでいくような感覚に酔っぱらいそうになった。初めて味わう酩酊は想像していたよりもずっと心地よくて、お酒に手を出していたら溺れていたかもしれないと、今さらながら思った。
「やった! じゃあこれからずっと、よろしくね!」
普段なら夜明けまで歩いて彼女がすっと消えていくのを見届けてから家に帰るけれど、この夜はきっと、いつまでも明けない。その代わりすぐそばに彼女がいて、ここに私がいる。充足感に満たされたまま、私は透明な夜に、じんわりと沈んでいった。
あしたも夜 時雨 柚 @Shigu_Yuzu
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