プロローグ-裏-
ティル・ナ・ノーグ。
古き言葉で『楽園』と冠されたこの地は、その言葉通り楽園である。決して歩いていけない隣に存在するこの世界は、いわゆる世界から『忘れられた者』が集う場所であった。
神話、伝承にたびたび登場する怪物、悪魔、化け物。民間に伝えられる妖怪、妖精、精霊。
科学技術の進歩した現代において、妖怪や悪魔など見かける者などそうはいないだろう。それは一般的に有名な解釈である『昔の人間は未知を恐れた。そのために恐れる相手を妖怪や化生の類として形作り、妖怪として名を与えることで未知を既知にしようとした。ゆえに、現代社会において発達した科学技術から未知というものが消え去り、現象に全て折り合いのつく説明が為されるためにそのような物はいない、という結論がついた』という一見その通りに思えてしまう理由ではない。彼らは、決して消えてなどいないのだ。
何故ならばティル・ナ・ノーグは――幻想に生きる者が集う地。
かつて強大な力を持つ一人の王が建国し、法を敷き、楽園として作られた大地なのだ。その地に住まう民は王の庇護を受け、神話や伝承に伝えられる『英雄』を相手に戦う必要もなく、安住することができる。現在も様々な平行世界における、『忘れられた者』が入国しており、ティル・ナ・ノーグ全体の民の数を数えることなど誰もできないだろう。
しかし、幻想に生きる者とはいえ、数が集まればそこに序列が生まれるのは当然だ。生産する者と生産しない者に同等の庇護を与えては、生産する者のやる気を削ぐ結果にもなりかねない。そのため、ティル・ナ・ノーグにおいて勤労は民の義務とされた。
しかし、膨れ上がり続けるティル・ナ・ノーグの民全てを賄えるほどに国内産業は栄えておらず、公共事業を行っても、それは一時的な凌ぎにしかならない。建国王と称される偉大なる王が去って以来、評議会における運営を行っていたティル・ナ・ノーグは、ある対策を打った。
平行世界への、戦力の派遣である。
幻想に生きる者は、食事を必要としない。いや、中には一種の娯楽としての楽しみがあるが、基本的には食事を必要としないのだ。では彼らに必要なものは何なのか――それは、
ゆえに、ティル・ナ・ノーグの評議会は平行世界への戦力の派遣と、それに伴う戦力維持のための
この体制は既に百年以上も続けられており、様々な平行世界へと様々な幻想に生きる者が派遣され、それぞれに戦い、研究、変わったところでは観賞用などといった用いられ方をしている。様々な世界の様々な絶望、渇望――求めに対して、召喚を行い契約者の助けとなる、というのはティル・ナ・ノーグに生きる者にとっては当たり前の仕事だった。
それを踏まえて。
ユースウェイン・シーウィンドは無職だった。
ティル・ナ・ノーグ職業安定所。通称職安と呼ばれるこの場所は、ユースウェインにとっては何度も来慣れた場所だった。勿論、悪い意味で、である。
いつも通りに列に並び、自分の番を待つ。いつだって盛況のこの職安であるが、別段ユースウェインのような無職の者が多いというわけではなく、様々な世界から『忘れられた者』が集まるため、民の数が日々膨らんでいるのだ。そして新たにやってきた民は、ティル・ナ・ノーグで生活を行うにあたり、必要である勤労に就く、そして得た
次々と仕事が決まり、様々な世界に送られてゆく同胞を見ながら、ユースウェインは溜息をつかずにはいられなかった。皆、ちゃんと仕事を斡旋してもらっている。しかしながら、ユースウェインが職安に通い始めて既に二十日以上経っているというのに、未だユースウェインに対しての仕事は斡旋されない。
その理由は、単純であるがゆえにどうしようもない。
「次の方どうぞ……ああ、ユースウェイン・シーウィンド様ですか」
「……仕事はあるか」
既に顔見知りになった――なってしまった、カエル顔をした職員を相手に、ユースウェインはそう切り出す。二十日以上も、同じ問答の繰り返しだ。そして職員が、これから何を言うのかも当然ながらユースウェインには分かっている。
「……ユースウェイン・シーウィンド様は、かの建国王に仕えた『十信徒』の一人、『華』の血を引くお方なのですよ?」
「我が血脈の説明など求めておらん。仕事はあるか」
「何度も申し上げておりますように、この召喚システムというのは、契約者に対して
職員はどこかうんざりしながらも、早口でそうまくし立てる。どことなくゲコゲコ、と鳴き声を混ぜてくるのはご愛嬌、といったところか。ここまでの内容は、これまで何度も聞いてきたことだ。そのため、ユースウェインの表情にも変化はない。もっとも、その全身は金属鎧に包まれているため、表情の機微など本人にしか分からないのだが。
ですので、と職員は更に続けて。
「私どもは何度も申し上げていると思いますけれども、ユースウェイン・シーウィンド様のスペックを扱うことのできる契約者は存在しません。そのため、ユースウェイン・シーウィンド様にはいつも通り、ティル・ナ・ノーグ内での仕事をお勧めさせていただきます。勿論、『華』の血族にあるお方ですので、評議会の仕事は如何でしょうか? そちらで宜しければ青の看板があるカウンターにお並びください」
「このカウンターに来ている時点で、そのつもりはない。我が力を捧ぐに足る契約者が存在するかどうか、早く調べろ」
職員の言葉を、切り捨てるように否定する。これに対して職員は、大きく溜息をつくのみだった。
もっとも、これが二十日間ずっと繰り返されてきた問答なのだから、その溜息も仕方ないことだろう。勿論、カウンターは幾つかあるため職員が二十回も同じことを言ったわけではないが、少なくとも四回目であることは間違いない。
「……はぁ。承知致しました。では……」
職員は半ば諦めるように呟いて、手元のコンソールを起動させる。その画面はユースウェインからは見えず、職員の瞳越しにしか見ることはできない。
慣れた手つきで操る職員が、唐突に、その手を止めた。
「……あれ?」
「何か見つかったか」
少しだけ身を乗り出し、ユースウェインは尋ねる。これまでに一度もなかった反応だ。少なくとも、ユースウェインが通ったこの二十日間、一度もこのように職員が戸惑うことはなかった。
カエル顔の職員は、少しだけ眉間に皺を寄せて、小さく溜息をつく。
「……ユースウェイン・シーウィンド様にご紹介できる案件がございました」
「あったのか!」
思わぬ言葉に、思わずユースウェインの心は弾んだ。何一つ収穫のなかった二十日間。絶望すら感じていた中に差した一縷の光は、あまりにも輝かしい。
「はい。先程の言葉は訂正させていただきます。一件のみでございますが、内容を確認されますか?」
「無論だ」
「ヴィーゼル皇国という国です。契約者の名はアリス様。十四歳の少女です。生まれた村が賊に襲われ、アリス様以外は全滅してしまったようですね。そのため、深い憎悪と怒りを抱いております。この方、随分と変わった経歴をお持ちですね……」
「何かがおかしいのか」
「ええ、
「ワタリ?」
「世界を渡った者のことですよ。本人は知らないようですけど、幼い頃に別世界から現在の世界へ転移していますね。なるほど……これなら規格外の
「どういうことだ」
職員の言葉に、意味が分からずそう問うユースウェイン。
ワタリという言葉も初めて聞いたが、それゆえに
「アリス様の生誕した世界は、
「……どういうことだか、分からんが」
「まぁ、このあたりは別段関係のない話ですね。っと、説明を続けさせていただきます。まず仕事内容ですが、常勤になります。一日あたり二十四時間の労働時間となっており、基本的にはアリス様に休日を頂く形ですね。時間給が二千マナ、十八時から六時までの十二時間は深夜手当てがつきますので、二千五百マナになります。一日あたりの総量は五万四千マナですね。ちなみにティル・ナ・ノーグ労働基準法上、七十二時間以上の連続勤務はできません。また、帰還後は八時間以上の休みを義務づけられていますので、ご了承ください。今からの出勤で問題ありませんか?」
「問題ない」
「では、初回の転移は当所の転移陣にて行わせていただきます。ティル・ナ・ノーグに帰還されますと当所にまず出ることになりますので、予めご了承ください。あと、帰還時はこれを使ってください。次回からの転移は当所の受け渡しカウンターにて自宅用の転移陣を用意しておきますので、受け取って自宅にてご使用ください。では――」
転移を、行います――。
そう、職員が告げると共に、ユースウェインはまるで宙に投げ出されるかのような錯覚を覚えた。世界の狭間を通る感覚。最初は慣れないものだ――そう、知り合いが笑っているのを聞いたことがある。
契約者に捧ぐ、最初の言葉。何が必要か。騎士として何と告げるべきであるのか。ユースウェインはゆっくりと考えて――そして、やはり妥当な線でいこう、と手を打つ。こんなときに求められるのはオリジナリティではない。例え陳腐であっても、心に響く言葉だ。
ゆえに、ユースウェインは告げた。まだ見ぬ契約者に向けて。
――力が、欲しいか。
これが、戦場において『白銀の鬼』、『女帝の騎士』、『銀の旋風』、『破壊の銀光』――数え切れぬ二つ名を持ち、『女帝』に生涯従ったとされる第一の従者にして、その姿を戦場に見せるだけで兵士は慄いたとされる最強の騎士。
ユースウェイン・シーウィンドと『女帝』アリス、初めての邂逅であった。
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