ヴィーゼル皇国戦記~女帝は怪異と共に戦場を駆ける~

筧千里

プロローグ-邂逅-

 暗闇の中に、少女は一人蹲っていた。

 分厚い雲に覆われた空は、月明かりはおろか星の瞬きすらも見えない。本来ならば月光が差し込むであろう木々の隙間は、光の一つも拾わず暗闇に佇んでいる。絶対的な闇の中、少女にはただ震えることしかできなかった。

 震えているのは、寒いからではない。夜半といえ、夏の盛りである。日中の暑さはその残滓を残し、生温い蒸し暑さとなって襲って来る。そんな湿気の強い風が、肌にまとわりつくような不快さを持って少女を襲っていた。


「うぅっ……」


 少女はか細く、小さくそう嗚咽を漏らした。

 靴もなく裸足で夜の森を走ったためか、その小さな足は傷だらけになっている。みずぼらしいとさえ言える簡素な麻の服は、ところどころを木の枝に引っ掛けたのか擦り切れてぼろぼろだった。その肢体にも、それぞれ打ち身や切り傷が数多くあり、可愛らしい少女の顔立ちは炭と灰で真っ黒になっていた。

 だが、少女が泣いているのはそんな理由ではない。確かに鈍く痛みは続いている。貧しい濃度として生まれた少女に替えの服などない。村一番の美少女と呼ばれた顔立ちが炭と涙で歪んでいるのも耐えられない。

 しかし、それ以上に少女を蝕むのは――。


――アリス、お前は……逃げろ……!


――うるせえ! しゃしゃり出てくるんじゃねぇガキぃ!!


 目の前で、野盗と思しき輩に斬られた、兄の姿だった。

 名もない小さな村の家に、一番上の兄とは十三歳の差をもって生まれた末娘、それが少女――アリスである。

 逞しい三人の兄と、優しい二人の姉に囲まれて、日々農作業に精を出す毎日だった。作っても作っても貧しさは変わらず、百の作物のうち八十は税として召し上げられる、過酷な毎日ではあった。しかし、それでも家族仲は良く、子供を身売りに出さなくても良い程度には稼ぎもあった。

 だからアリスも、いつかは同じ村の男衆の誰かへと嫁ぎ、両親と兄姉と暮らす現在のような、貧しくても幸せな家庭を作る、というささやかな夢も持っていた。


 それが――完全に瓦解したのは、つい一刻ほど前のこと。

 村にやってきた行商人が、「最近は野盗が増えて困る」と愚痴を言っていたのを耳にした。次いで、「前帝が崩御されて、もう三ヶ月だ。皇帝の血が絶えて以来、貴族がそれぞれ皇帝を名乗る始末。そのせいで戦を繰り返して税が上がるばかりさ。食えなくなった村が総出で賊をやってる奴もいる、なんて噂もあるぜ。おたくも気ぃつけな」――と、アリスには少し難しい話をしていたのを覚えている。

 しかし、アリスにとっては他人事に過ぎなかった。確かに野盗が増えたということは、それだけ困窮している人が多いのだろう。しかし、アリスも同じように貧しい。腹いっぱいに食事をした覚えなどここ最近は全くない。食卓に並ぶのは野菜屑が入ったスープと、稗、粟、黍を主とした雑穀を少しだけ、という程度だ。稀に芋を煮たものが出ることもあるけれど、それでも育ち盛りのアリスにとって満足できる量ではない。

 だからこそ、アリスは考えた結果として、自分には関係ない、と判断したのだ。

 野盗が食べ物が欲しくて人を襲うのであれば、アリスの村などを襲っても何もない。せいぜい、それぞれの家が僅かに持っている備蓄を手に入れる程度だろう。それならば、こんな村よりももっと食べ物のある場所を襲えばいいのだ。例えばいつも大量の税として作物のほとんどを持っていく貴族の館とか。


 だが――現実はそんなに甘くはなかった。

 野盗も考える。確かに食料を溜め込んでいる貴族の館を襲えば、食糧難は一気に解決するだろう。だが城主の館には当然ながら兵が配備されており、飢えた結果として野盗をやっている彼らが正規の訓練を積んだ兵に勝てるはずがない。


 だからこそ、弱い者から奪う。

 自身が貴族という絶対権力者よりも弱い者だから奪われる。だからこそ、暴力という面で自分たちより弱い者から奪う。

 負の連鎖と言っても良いそんな考えが、アリスの村を襲った。


「う、うっ……! お父さん……お母さん……! 兄さん……姉さん……!」


 家の扉が突然に蹴り開けられ、剣の一閃で斬られた父。

 唐突な野盗の襲撃に呆然とし、そのまま声もなく斬られた母。

 突然襲ってきた野盗に、毅然と立ち向かった長兄。

 アリスを守るようにその身で隠し、盾になった長姉。

 物陰から隙を窺い、アリスが逃げる機会を探ってくれた次姉。

 アリスが逃げる間、周りの野盗を相手にクワを振るった次兄。

 目の前に立ち塞がった野盗を相手に、体ごとぶつかった三兄。


 みんな――みんな、斬られた。そして、死んだ。

 父と母は、突然の野盗に何も反応できずに斬り殺された。兄と姉は、ただアリスを守ろうとして、アリスを逃がそうとして、斬り殺された。

 アリスが最後に見た景色は、燃え上がる村の姿。野盗が火を点けたのだろう。村人を皆殺しにして、目ぼしい食糧を奪い取り、最後は証拠を残さないために燃やす――恐らく、他の村でも何度も行われてきた光景なのだろう。


 アリスは、許せなかった。

 両親を、兄を、姉を殺した、野盗が憎い。

 高い税をかけて食糧難に陥らせ、野盗を増やした領主が憎い。

 ただ農民からは搾り取り、戦争なんてしている自称皇帝が憎い。

 そんな世の中にすると知らずに、勝手に死んでいった前帝が憎い。

 だが何より――そんな状況において、ただ守られるのみで何もできなかった自分が、一番憎い。


「うぅっ……!」


 こんなときに、泣くことしかできない自分が憎い。父も母も兄も姉も守れなかった自分が憎い。何一つ力を持っていない自分が憎い。ただの少女でしかない自分が憎い。

 力が――。


「う、うっ……! わたしに、力が、あれば…………!」


 憎い野盗を皆殺しにできる力が。

 父も母も兄も姉も守れる力が。

 領主を縊り殺し首を取る力が。

 皇帝をも倒せる力が。

 世の中を、変えることのできる力が――!


――力が、欲しいか?


 それはまるで、天啓のようにアリスに響いた。

 まるで己の望みを全て知っているかのような、頭の中に囁きかけるような声。思わず空を見回すが、当然ながらそこには夜闇以外の何もない。


――力が欲しいならば、我を呼べ。我が名は――


 響いた言葉。囁かれた名。

 アリスは僅かの混迷も、微塵の躊躇も、刹那の逡巡も、微々たる狼狽も、眇眇たる困惑もなく、ただ、答えた。

 中空の何者かに向けて。己の幻聴であっても縋りたい、と。

 例えそれが悪魔でも、妖怪でも、悪鬼でも、邪神でも、例え死神であっても。

 これ以上の絶望など、存在しないのだから。


「ユースウェイン!!!!」


 叫ぶと共に、アリスの目の前が歪むような感覚。まるで違う次元から無理やりに干渉してくるような、そんな気配。

 歪んだ空は当然のようにそこに違和を生じさせる。つい先程まで、ただ夜闇しか見えなかったはずのそこには――白銀が、いた。


 身の丈はアリスの四倍にも及ぶだろう。下手をすれば一丈はあるかもしれない。その全身を白銀の鎧で包み、右手には体格に見合った黒光りする長柄の槍を、左手には花弁を模したのであろう大盾を持っている。頭全体を覆う兜に走った溝は、恐らく視界を確保するためのものだろう。しかし、その向こうに生者の気配はなく、闇の中に紅の灯火が浮かんでいるようにすら見える。

 全身鎧の異形――その姿に、アリスは震えた。その圧倒的なまでの存在感に。


 巨人はゆっくりと、片膝をつき、頭を垂れる。

 その姿勢は、巨人の膝ほどの背もない、アリスに向けて。


「我が名はユースウェイン・シーウィンド。

 我が身は汝の剣となり、我が身は汝の盾となり、我が足は汝の馬となり、我が目、我が耳は汝の斥候となり、我が智は汝の軍師となる。汝が名誉を望みし時は万難を排して手に入れよう。汝が咎を望みし時は我が首を掻き斬ろう。汝が飢えし時は我が肉を与え、汝が渇きし時は我が血を与え、汝が炎天にありしは差す太陽の影となり、汝が極北にありしは我が身を焼いて捧げよう。汝の誉れは我が誉れ。汝の喜びは我が喜び。汝の死は我が死。ここに騎士として、契約を結ばん」


 アリスに言葉を挟ませず、そう長い言葉を口にした白銀の騎士――ユースウェイン。











 これが後世、ヴィーゼル皇国が海を挟んだ大陸にある帝国からの侵攻を受けるにあたり、何十倍もの兵力、兵站を持つ帝国に対して五度の防衛をし、帝国最大の名将と呼ばれたアレクサンデル・ガドルフより「我が帝国における唯一の不幸は、かの女帝が健在であるうちにヴィーゼル皇国を攻めたことである。かの女帝により、我が帝国は二十万の兵と四十八の優秀な指揮官、数多の武器と兵器と馬を失った。これは二十年の歳費をもってしてようやく元通りになる大敗である」と述べ、ヴィーゼル皇国の歴史にその名を刻む最強と呼ばれた唯一の女帝。


 ヴィーゼル皇国の歴史にその名を刻む『女帝』とその第一の従者、初めての邂逅であった。

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