くらやみ一期一会

泡濱ゆかり

初めましてとおやすみなさい 1

 煙草の煙を突き抜ける様に、グラスが私に向かって投げられた。


「うるせぇんだよ!」

  

 硝子が割れる音と同時に発された男の怒鳴り声は、怒気を通り越して殺意さえ感じられる。

 グラスを寸でのところで避けた私は本能的に生命の危機を感じ取り、慌てて窓から飛び降りた。

 飛び降りる、とは言っても此処はアパートの一階だ。窓と地面を隔てる高さに然して差は無く、私は難なく脱出に成功する。

 あの男は追ってこなかった。


 ばくばくと暴れ続ける心臓を宥めながら、私、滝島クロハは誰も通らぬ夜道を歩く。

 通勤・通学時にご近所同士で声を掛け合う住人達の声も、大音量を響かせ、大勢の人間が手を振っている選挙カーの走る音も。今は聞こえない。

 全身黒に身を包んだこの身は、地面と私の境目を余計曖昧にさせていた。

 未だ恐怖心が拭えない上、あの男が居るのでは部屋に帰る事など到底出来ないであろう。今日は外泊しようと早々に決意し、足を速めた。

 


 そうして辿り着いたのは住んでいるアパートからそう遠くない、住宅地にある木製の小屋。

 鍵が取り付けられていないそれは意外としっかりした作りで、蝶番が外れかかった両開きの扉から中に入ってしまえば、冬以外は眠りにつける私の居場所だった。

 内側には取っ手がないので、後で出られるよう少しだけ開けておく。それでも、時間帯も相まって中はすぐに真っ暗闇へと誘われた。

 普通の人は長時間居ると不安にもなりそうだが、私は夜目が効くので何も見えないという訳では無い。寧ろ見え過ぎるくらいだ。

 そう、例えば。今私の隣にいる存在の姿とか。


「そこの君、私の姿が見えているのかね?」


 とても見えてしまっているし、聞こえてしまっている。

 スーツに身を包んだ恰幅の良い男性。初老くらいだろうか。私が小屋に入った時点で実は居たのだが、敢えて目を合わせずに一晩乗り切ろうかと考えた。屋根のあるバス停で、赤の他人と同じベンチに腰掛けるように。

 しかし、こうして声を掛けてきたという事は、どうやら私の考えは見抜かれたようだ。一瞬目が合ったように思えたのは気のせいでは無かった。

 大多数の人に見えない上、明らかに気難しそうな声と話すのは気が引ける上に、場合に寄っては身を危険に晒す可能性もあるけれど、今日の最悪な出来事を思い出して半分自棄になって応えた。


「はい、見えていますよ」

「嗚呼、やっぱりか!」


 何処かの会社の管理職にいそうな威厳があるせいか、思わず少しだけ背筋を伸ばして敬語になる。すると男性は、希望の光を目にしたかのように顔を綻ばせた。


「良く見えないが、察するにお嬢さんかな、宜しく。私の事は便宜上、親父さんと読んでくれ」

「宜しくお願いします」

 

 こだわりの飲食店を経営してそうな渾名だ。


「ところで君、何故こんな場所にいるんだ。ご両親が心配しているんじゃないかい?」


 家の事を問われて思わず顔がぐしゃりと歪みそうになるが、当然の疑問だ。気持ちを抑えて涼しい顔を作る。


「いいえ。家に居ると、母の彼氏に暴力を振るわれるのが嫌で、逃げて来たんです」

 

 尋ねはしたものの、薄々ろくな内容でない事は予想していたのだろう。私の気持ちを代弁するかのように、彼はぎゅっと眉間に皺を寄せた。


「暴力だと。お母さんは何も言わないのか」

「母は抑も知りません。相手が上手に隠していますから。私ではちゃんと伝えられないので、気づいてくれる時を待っています。本当は、傷でもこさえて見せるのが一番分かりやすいのでしょうが」


 命に関わるので避けてしまいます、と苦笑する。眉毛と眉毛をくっつけてしまうのかという位、親父さんの眉間は益々狭まった。


「酷いもんだな……。私に何か出来る事はないか?これから一緒に戻ってその糞野郎にぎゃふんと言わせてやろうか」

「大丈夫です。母は男を見る目が無くて、こういった事は初めてでは無いので。今回の対処も段々慣れてきたのでお構いなく。お気持ちだけありがたく頂戴いたします。それに、」


「貴女はもう、朝までこの小屋から出られませんよ」

 

 







  

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