第四服 晴遷三坊(参)

せいさんぼううつ


 今は大永四年西暦1524年上巳じょうし節供せっく――現在のひな祭りに行われた宴が終わり、会所之衆かいしょのしゅうらが道具の片付けや御物の点検をのんびりと行っている。反対に御供之衆おとものしゅうらは二日後に予定されている御成のため、忙しく準備に追われていた。


 会所とは、寝殿造りの客亭から派生した建物で、もとは建物の一部であり、常御殿や泉殿と兼用されることもあった。


 常御殿とは邸の主の日常の場であり、平安時代は寝殿で代用されていたが、室町時代になると独立した建物として別殿となった。


 泉殿は邸内にある湧泉で池を造り、これに臨んで建てられた納涼や遊興に用いられる小亭のことである。平安貴族が曲水の宴などを愉しむ川や池が傍らにあった。


 会所は武家の建物が書院造りに変化していく中で独立した建築様式へと発展していき、奥まった私的・公的を問わず催し物が行われるれの場となっている。ここに詰めたのが|会所之衆――会所之同朋衆である。


 御成とは、広義では将軍や貴人が外出することをいうが、一般的には将軍の御成を言うことが多い。将軍ともなると招かれたとしても、御成に用いる道具は饗応の者が用意するのではなく、同朋衆が選別した道具や家具を持ち込んで、茶を点てたり、給仕を取り仕切ることになる。それは将軍だけではなく、御供衆ら供の者らや、御成に付き添う公家衆にも同様に振る舞った。主催者が招いた客は邸主がもてなすことになる。こうした役を担う同朋衆を|御供之衆――御供之同朋衆と呼ぶ。


 御供之衆は会所之衆の中から選ばれた者たちで、特に茶湯に通じた者が選ばれることが多い。これは人前で点前や給仕を行うからであり、所謂いわゆるのちの茶頭さどうのことである。


 今回の御成は前々から決まっていたこととはいえ、節供の設えと重なれば支度が慌ただしくなるのも致し方ない。御供之衆は会所之衆から選ばれているため、両方に携わる者も少なくないからだ。


 この時代、連歌に式正能に茶会と将軍は多種多様な催しを行っており、その興行は幕府の収益でもあり、文化の保護でもあり、寺社への奉納でもあり、民への施しでもあった。相次ぐ戦や不安定な政権であった幕府の大事な財政を支える事業と認識されている。


 但し、御成はどちらかというと政治の話で、この度の御成は高国が家臣への褒美として乞うた面が強い。それを理解しているのかいないのか、義晴公は二つ返事で決めたと聞こえる。


 御成のために集められた道具を箱から出し点検している茶坊主らに、古稀を過ぎた老人が混ざっていた。


「千阿弥様、細かいことはお任せあって宜しゅうございます」


 わかい茶坊主らに混ざってれやれやと忙しく動き回る老人が、初老の男に声を掛けられていた。老人はせん阿弥あみ道啓どうけいという千阿弥家の三代目で、若い方はその一族のさい阿弥道奕どうえきといって、歳阿弥家の二代目である。道奕の父・道憺どうたんは道啓の弟にあたり、三年前に歿していた。


そう奉行はぎょく阿弥殿やったな」


 道奕がうなずく。惣奉行とは、惣茶湯奉行のことであり、外様とざま公家くげ、側近以外の来客に茶を点てる役だ。それに対し、御茶湯奉行というのが、将軍に茶を点じる役になる。千阿弥が担う惣支配は裏方であり、酒食や菓子などを取り仕切る饗応の責任者であるが、道具を選定するのも惣支配の役割であった。勿論、お伺いを立てるのであり、最終決定するのは将軍である。御奉行や惣奉行は表の差配と呈茶の役である。茶会であれば、千阿弥が義晴公の側に控えて、道具の話などを補う後見――現代でいうところの半東――をするのだが、御成は茶会ではないため、その役がない。


「玉阿弥様は道具の扱いの確認に御会所殿の方へ行かれておいでですが」


 御会所殿とは会所之衆筆頭のしゅん阿弥家の四代目尊房そんぼうのことである。春阿弥家は千阿弥家の一族で、どちらかというと春阿弥の方が本家であったのだが、初代春阿弥亡き後、初代千阿弥道円どうえんが一族を取り仕切ったため、分家のような扱いになっている。


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