第三服 有乱寧波(肆)
勘合とは、明王朝の発行した文書の名称で、割符のように突き合わせるものではないため、勘合符というものは存在しない。明王朝では国内の商取引のいくつかも勘合によって許可制になっていた。
最初は規模の大きかった遣明船も、応仁の乱以降は十年に一度で派遣船は三艘、乗員は三百人までと制限された。これは滞在費などを明側が持つため、財政難の続く明が支出の削減を狙ったものだと言われている。
規模が小さくなったとはいえ、それでも、遣明船による日本側の利益は莫大で、細川氏と大内氏は熱望していた。しかし、正徳勘合は大内氏の管轄であるため、高国は弘治勘合を幕府から強引に引き出すことになったのである。
「
「与右衛門はん、感心しとる場合やおまへんがな。その先がオオゴトでっせ」
そもそも、
大内船に遅れること二日、細川氏の弘治勘合遣明船が入港した。細川高国は正使に臨済宗の美濃国瑞光寺から相国寺住持に上がった
不可思議なことに寧波の市舶提挙司が行う臨検は、到着順で行われるのが基本であるにも関わらず、市舶司
その夜、両使節団が招かれ、歓待の宴となったが、上座に細川方、下座に大内方という席次である。面白くないのは謙道宗設ら大内氏の使節団だ。臨検を待たされた挙げ句、あとから入港した細川氏らが先に臨検を受け、しかも上座に坐っている。歓待の宴は罵声の飛び交う修羅場となったが、居心地の悪さを感じる鸞岡瑞佐に対して、宋素卿は平然としており、それに謙道宗設はますます憎しみを滾らせ、月渚永乗が必死に宥めた。
宋素卿というのは、明人で貿易商である。明は民間の自由貿易を禁じていて、貿易をしていたということは、当然密貿易であり、倭寇と繋がりを持っていた。
しかし、遣明船が再開されると、倭寇が下火になることを察し、すぐさま
堺を拠点に貿易で身を立てた宋素卿は、
飛魚服というのは、
宋素卿が賄賂を贈り誼を結んだ劉瑾は、同年に起きた安化王の乱の原因であると主張されていた。安化王の乱とは
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