第二服 同乳連枝(弐)

おなじうしてえだつらねる


 多呂丸の推察は間違っていない。乳母はここに留まらず、数日ののち国許に帰るのだ。これからは紗衣が千熊丸の乳母になるのだろう。


 紗衣を二人に取られてしまうという一抹の寂しさはあるが、それ以上にこの睦まじく眠る二人の赤子が離れ離れにならずに良かったという不思議な感情が多呂丸の心を占めていた。


 志郎丸が生まれた大永二年西暦1522年は穏やかな年である。昨年の帝の代替わりから続いた一連の大騒動が片付いたからだろうか。


 大騒動の発端は永正十八年西暦1521年三月七日4月23日、細川右京大夫たかくにと反目した足利よしたねが京をしゅっぽんしたことだった。同月廿二日5月8日に行われたかしわばらせんの儀および即位の礼に武門のとうりょうたる征夷大将軍が欠席し、細川高国が警護を代行するという異例の事態となった。これにより、細川高国は事実上の天下人となったと諸大名は受け取っている。だがその実、将軍家の家臣の立場を保持しており、あくまで将軍権威の下の天下人であった。


 践祚とは、皇太子または皇太弟・皇太孫などの皇位継承者が皇位を受け継ぐことを云う。即位の礼が国の内外に知らせるのに対し、践祚の儀とは「おやがみに告げる」ものだ。この二つの儀礼を警護するのは武門の棟梁たる将軍の重要な務めである。それをおこたったというのは、朝廷の信頼を損ねることに他ならなかった。ただでさえ不安定な幕府の屋台骨が傾きかねない。室町幕府というのは、それほど中央の権勢が強くなかった。鎌倉幕府と異なり、内乱に次ぐ内乱を武力ではなく政戦両略によって解決した大名連合政権であった上に、応仁の乱以後、細川氏の専横で将軍権威は揺らいでいる。かろうじて朝廷と有力大名らの支持によって命脈を保っているに過ぎなかった。人望のある者や政治力の高い者が将軍であれば、然程問題とはならぬことも、後継者を定めぬまま歿してしまうと内紛の火種を抱えることにもなるし、政治に関心のない者が就けば、私心ある有力大名らに政治が左右されてしまう。ましてや、室町幕府は遠方に奥州探題・羽州探題・九州探題を据え軍事指揮権を与えていた。さらに関東には鎌倉府を置いて分割統治をしている。その結果、鎌倉公方と幕府の確執は何代にも渡って常態化し、反目するまま、応仁の乱に先駆けて関東で享徳の乱が起こった。鎌倉府は戦火に飲まれ、古河公方と堀越公方が対立する。しかし、堀越公方がわずか二代で伊勢新九郎入道宗瑞伊勢盛時に滅ぼされ、今度は古河公方の父子の対立が永正の乱を引き起こした。これによって北条と氏を改めた伊勢宗瑞の子・左京大夫氏綱が関東を席捲する。関東と畿内の大戦が立て続けに起こりで、幕府や鎌倉府の統制力は事実上なくなり、実力のみが問われる戦国の世が幕開けた。


 その戦国の世にあって幕府を支える細川京兆家との仲違いである。元々、高国は積極的に義稙公を擁立したわけではなかった。大内義興の軍勢と戦って敗れることを回避するために、疑り深く馬の合わぬすみもとと袂を分かっただけのことである。先に高国を敵視したのは澄元なのだ。故にあっさりと義稙追放を決めた高国は、先の将軍・義澄よしずみの遺児・亀王丸を京に招くことで敵対勢力の取り込みを図り、政権の安定を図る。赤松義村とともに播磨各地を転々としてきた亀王丸は、ようやくひと心地つくことができた。


 永正十八年西暦一五二一年四月六日5月26日、京に入った亀王丸は、細川高国に迎えられ、将軍就任の準備に入った。


 七月廿六日9月6日には将軍家学問始である「読書始どくしょはじめ」が始まる。同月廿八日9月8日、高国と文章もんじょう博士・ひがしぼうじょうかずながが選んだよしはるの名乗りを与えられ、従五位下に叙された。


 八月九日9月19日には、元服前の儀式である涅歯でっしを終え、同月廿三日10月3日しょうげん。永正が大永に改められ、同月廿八日10月8日だい代始だいはじめの参賀を行う。ちなみに、称元とは天皇即位に際して元号を変えることで、在位中に改めることを改元といった。

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