【分割版】数寄の長者〜竹馬之友篇〜

月桑庵曲斎

序章 従尾到頭

第〇服 安赦帰堺(壱)

あんゆるされてさかいに帰る


生まれしも帰らぬものをわが宿に

小松のあるを見るが悲しさ


 文禄三年西暦1594年 秋――

 

 さかいいまいち町にあるせん屋の看板が挙げられた商家の前に、一人の男が立っていた。男は懐かしそうに、店構えを眺めている。旅装で上背が六尺約1・8メートルを超える男は、武人といわれても不自然ではないが、帯刀しておらず、棍のように長い棒を杖にしていた。それは、飾りも素っ気もなく、山伏の錫杖よりも金剛杖に似る。その姿は僧侶のようでありながら、雰囲気はもっと俗っぽく、眼は穏やかというよりも力強かった。


「貴方さまは……もしや?」


 店先へ掃除をしに出てきたのだろう。竹帚たけぼうきを持った使用人が、たたずむ男をいぶかし気に様子を伺っていたが、やがて、目を輝かせて声を挙げた。


「間違いない! ろうさまじゃ! 旦那さまのお戻りや!」

「これ、しげきち。店先で騒ぐでない」


 男は千屋四郎右衛門――田中じょうあんという堺の豪商で茶人でもある。庵号を道庵、斎号を可休斎といった。茶聖・せんのきゅう――堺の豪商・田中そうえきの一人息子で、後世に千どうあんと呼ばれる。四郎右衛門田中紹安であった。


「お帰りをお待ちしておりました」

「長らくであった。皆、息災か?」

「勿論です。みんな、四郎右衛門田中紹安様のお帰りだぞ」


 四郎右衛門田中紹安に気づいた茂吉が店先から奥に声を掛けた。途端にワラワラと、店の者らが顔を見せはじめる。近くの斗々ととからも人が出てきて、千屋の方に集まって来た。


 斗々屋は四郎右衛門田中紹安の曾祖父・与右衛門田中道悦の妻の実家である。千屋は与右衛門が岳父左兵衛谷川道元に支援を受け立ち上げた商家で、祖父・与兵衛田中了専から伯父・与一郎田中康隆に受け継がれていた。利休は千屋の分家であり、その分家を四郎右衛門田中紹安が受け継いでいる。従弟にあたる和泉国牧野のうを――渡辺どうつうと組んで阿波の塩を商い、讃岐・摂津・飛騨に出店していた。


 千屋は利休の実家である。千屋は交易商で、主に印度インドから木綿や更紗サラサを輸入し、生糸や絹布を輸出していた。


 喜兵衛渡辺道通は、はち阿波守いえまさに仕えた渡辺あたると利休の妹の間に生まれた子で、四郎右衛門田中紹安の従弟にあたる。天正年間に渡辺直が亡くなったため、利休が養育し、四郎右衛門田中紹安と共に育った故か非常に仲が良かった。


 飛騨高山にちっきょしていた四郎右衛門田中紹安は、繋ぎの必要から、喜兵衛渡辺道通に無理を言って千屋の支店を出してもらったのだが、金森家が御用達の塩商人として贔屓ひいきにしてくれたため、それ以前とは比べ物にならぬほど稼業は安定した。塩を産さぬ飛騨では塩の確保は貴重であることも理由の一つであろう。加えて法印げん――金森飛騨入道、諱をながちか――は利休の弟子の一人であり、その養嗣子・出雲守ありしげと孫・左兵衛しげちか四郎右衛門田中紹安に弟子入りしたことも一因であった。


 因みに、同年紀州和歌山城主となった桑山修理亮重晴の三子・桑山左近大夫宗仙が同門であり、桑山宗仙は後に片桐石見守貞昌――三寂宗関片桐石州の師となって、道安の茶統が江戸時代の中心となる繋ぎの役目を果たすが、それはまた別の物語である。


 四郎右衛門田中紹安が千屋で阿波の塩を取り扱い始めたのは、舅父母方の伯父・三好筑前守ながよしが亡くなり実家を支えようとする母・と、三好宗家と距離を取り始めた父がすれ違い始めた頃だった。


 堺の塩はげい諸島――即ち安芸国と伊予国のとうしょに覇を唱えた村上水軍に頼りがちであったため、三好氏は独自の確保を狙っていた。四郎右衛門田中紹安は父とは別に商売をしたくなり、阿波の海塩を取り扱い始めたのである。


 十河そごう民部大夫かずまさの子で、三好宗家を継ぐことになった従兄の三好左京大夫よしつぐが信長公に臣従してから、四郎右衛門田中紹安はようやく父と和解した。


 その後、天下も定まり、平穏な世になると思っていたが、今度は父が切腹させられてしまった。それも、天下人・豊臣秀吉とよとみのひでよしかんこうむってである。四郎右衛門田中紹安も利休と共に豊臣秀吉の茶堂として仕えていたが、連座して蟄居謹慎の身となり、飛騨高山の金森家がその身を預かった。

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