1.アトウッド家について

 まずは現状把握をすべきだとミーリアは部屋を出ることにした。起きたばかりで歯も磨いていない。記憶が確かならば、何もせずに昼まで寝ていると出戻り娘の次女ロビンにやかましく怒鳴られる。

 八歳児であるミーリアの記憶を辿たどると、次女ロビンは父親に似たのか気が強くて強情な性格をしているようで、みそっかすのミーリアは事あるごとにああだこうだと嫌味を言われていた。ミーリアは日本人であった記憶がよみがえる前まで、ぼんやりしている女子だった。何を言われても言い返さないことから、次女ロビンからは体のいいストレス解消の道具に見られていたのかもしれない。

(次女ロビンにはかかわらないほうが良さそうだね)


 洗面所へ下り、謎の枝で歯を磨く。

 歯ブラシ草という植物で、柔らかい毛のような葉が生えており、いかにも歯ブラシっぽい。ミント系の香りがすることから、古くから歯ブラシとして使われている植物だ。

(王都に行けばちゃんとした歯ブラシがあるのかな? これも悪くないけど、なんか物足りない)

 自分用の歯ブラシ草でしゃこしゃこ歯を磨き、洗面器にある水を木製コップですくって、口をゆすいだ。

 蛇口をひねれば水が出る。記憶ではそんな魔道具もあるようだが、このど田舎でそんな高級品が置いてあるはずもなく、村の人々は井戸水をくんできて生活水として利用している。

 ミーリアは洗面器の水が、思っている以上に新鮮でれいなことにあんした。病気には絶対なりたくない。

 ついでにと顔を洗い、タオルはなかったのでぷるぷると顔を振って乾かすことにした。着ているワンピースで拭いてもいいかと思ったが、あまり清潔ではなさそうなのでやめておいた。ところどころ汚れている。あとで洗いたての服に着替えたい。

 リビングに入ると朝食は終わっていた。

 キッチンに向かえば、母親のエラ・ド・ラ・アトウッドが懸命に肉をさばいていた。

 ミーリアと同じ薄紫色の髪をひとつ結びにした、地味な女性だ。五十代前半に見える。

(人んちの母親って感じだよねぇ)

 前世の母親が記憶に深く残っているため、どうにも自分の母親だと思えない。髪の色は母から遺伝したんだな、となんとなく思った。

(この人、脳筋のアーロンに反論しない事なかれ主義みたいだ。言い返してる記憶が一切ないよ)

「おはよう」

 ミーリアは以前の性格を踏まえてぼうっとした目つきで母親に挨拶をした。

 母親が顔を上げ、寂しげな笑みを浮かべた。

「おはよう。歯は磨いたの?」

「うん」

「そこにパンがあるでしょ。手が離せないから一人で食べて」

「うん」

 言われるがまま、キッチンの脇に置いてあったパンとイチジクらしき果実を手に取って、リビングに戻って食べた。誰もいないのはありがたい。

(パン硬っ。水がないと無理)

 キッチンのみずがめから木製コップに水を入れ、またテーブルに戻った。

 品質を度外視して栄養面だけに特化したようなパンをもそもそ頰張りながら、ミーリアは思考を巡らせた。

(ミーリアはぼーっとして手伝いはほとんどしてなかった。これだけは大きなアドバンテージだよね。今頃他の姉たちは仕事をしているはずだ。自由に動けるうちに、何か打開策を考えなきゃ)

 思い出せる限りの記憶を引っ張り出し、この世界について確認をしていく。

 アドラスヘルム王国は貴族による中央集権国家だ。

 成人は十五歳とされているものの、結婚は十二歳から許可されている。婚約については年齢など関係ない。乳幼児と婚約、なんてこともザラだ。さすが貴族社会とミーリアは独りごちる。

(って感心している場合じゃないよ。やばいよ。このままだと商家(笑)に嫁ぐバッドエンドルートまっしぐらだよ!)

 人様の商家をかっこ笑い扱いとは失礼な気がしないでもないが、ミーリアにとっては死活問題であった。記憶に残っているボロい駄菓子屋風な店構えを思い出したあとでは仕方がないかもしれない。

 パンを食べ終わり、イチジクっぽい果実にかぶりついた。

 ほのかな甘味が口に広がった。

(まずくもなく、しくもないって感じ)

 栄養が取れるなら万々歳だと言い聞かせ、無言で果実を食べていく。

(この世界、人間以外にも魔物がいるみたいなんだよね……、詳しくは調べないとダメだな)

 八歳児の知識には限界があるのか、世界の有り様についてはこれ以上わからない。

 魔物がいて、人間に危害を加える。

 ということだけははっきりしていた。

(あとは私にとって重要な、家族についてだ。家族構成、年齢、性格を確認しよう)

 ミーリアは果実を食べ終わり、細い指についた汁をめた。

 貧乏だから取れる栄養は限られている。少しも無駄にできない。ミーリアはかなり食い意地が張っているらしく、何かを食べろという声が、脳内で警鐘のように鮮烈に鳴り響いていた。たくさん食べたい、いっぱい食べよう。そんな思いが膨らんでいく。ちょっと不思議に思うも、日本人であったミリアも食べるのは好きだったため、この気持ちを抑制しないでおいた。誰も見ていないなら指を舐めるくらいいいだろう。

 何にせよ、毎日焼き肉食べ放題のできる小金持ちが目標だ。

 貧乏、ど田舎、婚約寸前と尻に火のついた現状である。時間は無駄にできない。

 新鮮な水を飲んで一息つき、家族へと思いを巡らせる。

(領主はアーロン・ド・ラ・アトウッド。年齢はたぶん五十九歳。ガサツで脳筋。人の話を聞かずに勝手に物事を進める。……なるほど、父親に談判して婚約をなしにするのは難しいかもしれない。私、ミーリアのことは厄介者と思ってるみたいだし……)

 ミーリアは男運のなさを呪った。

 どうやらこの異世界でも父親に恵まれていないようだ。

(しかしねぇ……子どもが全員女ってどうなの……? 貴族として残念すぎるよ)

 七人の子どもは全員が女だ。

 家族構成を脳内にまとめるとこんな感じになった。


 領主 アーロン・ド・ラ・アトウッド 59歳

 妻  エラ    49歳

 長女 ボニー   22歳 婿養子 アレックス・モルガン・ド・ラ・アトウッド(子なし)

 次女 ロビン   19歳 嫁ぎ先 コープランド家(出戻り)

 三女 クララ   15歳 嫁ぎ先 クルティス家(子なし)

 四女 ジャスミン 13歳 嫁ぎ先 未定(保留中)

 五女 ペネロペ  12歳 嫁ぎ先 未定(保留中)

 六女 クロエ   10歳 嫁ぎ先 未定(保留中)

 七女 ミーリア  8歳 嫁ぎ先 村の商家(笑)予定


(そっか、長女ボニーが婿養子を取って、その子どもに騎士爵を継がせるって魂胆か……ああ、思い出してきた! 長女ボニーに跡取りが生まれないから父親アーロンの機嫌がずっと悪いんだった。ひどい話だよ。ボニー姉さま、何も悪くないのにさ……)

 毎晩毎晩、食事中に「子どもはできたか」と確認する脳筋な父アーロン。デリカシーのデの字もない。長女ボニーが小さな声で「まだです」と言うたびに、アーロンは婿養子のアレックスにガンを飛ばす。

 こうして楽しくないばんさんの出来上がりであった。

 しかも調味料が塩以外ない、悲劇的なキッチン事情だ。すべてが塩味。完全なる飯まずであった。

 考えれば考えるほどミーリアとしての記憶が鮮明になっていく。

(えっ……これはッ……!?)

 がたん、と立ち上がって、夢ならばと木製テーブルに頭を打ち付けてみた。

 頭蓋骨とテーブルのぶつかる音が響いて眼前に火花と星が舞った。

(やばいよっ……このアトウッド家、想像以上にアカン……やばいがツヴァイでヤヴァイよ……!)

 くらくらする頭を押さえ、意味不明な心の叫びを全身に響かせてミーリアは走り出した。

 母親の声が後ろから聞こえた気がしたが構っている暇はない。

 さして大きくないしきを飛び出し、裏庭を駆ける。

(長女ボニーの婿養子アレックス二十五歳……まさか四女以下、義妹の貞操を狙っているなんて……!)

 婿養子にやたら身体からだを触られた記憶がよみがえった。あれはアレだ。アレのアレだ。確信が持てる。想像を絶するアトウッド家の惨状に、日本にいた頃のほうがまだマシだったような気さえしてきた。

 領主は脳筋でアホ、母親は事なかれ主義、長女は針のむしろ、次女が浮気出戻りで性悪女、婿養子がロリコンときた。魔の巣窟も尻尾を巻いて逃げていきそうなそうそうたるラインナップだ。最強打線が組めそうな勢いに、ミーリアはカキーンと脳内でボールの飛ぶ音を聞いた気がした。

(四女ジャスミンは目が悪くて使用人のばあさんといつも一緒だ……相談は難しい。となると頼りになりそうなのは……六女クロエ姉さまだ!)

 六女クロエ。

 この時間は街へ出荷するラベンダーの花摘みを行っているはず。ミーリアは懸命に足を動かした。体力がないのかすぐに息が上がってくる。本来ならばこのように走る姿を家族に見せないほうがいい。ぼんやりしている七女を演じるほうが他人の目をごまかせるはずで、今後も家庭内で動きやすいだろう。

 しかし、ミーリアの足は止まらなかった。

 ミーリアが言うところの、やばいがツヴァイでヤヴァイ状態に突き動かされていた。

(この身体……体力なさすぎ…………もしものとき脱出するなら……体力はつけておかないと……)

 今後の課題に体力向上を追加し、肉体に精神が引っ張られているのか、高校生だった頃より衝動的になっている気がすると冷静に分析もする。

(聞かないと……クロエ姉さまに……魔法について!)

 美しく広がるラベンダー畑。

 ざわざわと風が吹き、遠くで作業をしている六女クロエの長い髪が揺れる姿が見えた。



 アトウッド家六女、クロエ・ド・ラ・アトウッドは癖のない黒髪ロングヘアーをれんな右手で押さえ、屋敷の方向から走ってくる薄紫色の物体に目を向けた。ラベンダー畑を抜けてくるラベンダーの妖精かと一瞬思ったが、そうではないらしい。

「うそ……ミーリア?」

 今年十歳になった六女クロエは深紫の瞳を大きく開いた。

 普段から何を話してもぼんやりしている七女ミーリアが弾丸のごとく走ってくる。

 他の家族はどう思っているのか知らないが、ミーリアの愛らしい見た目とのんびりした性格が好ましく、目に入れても痛くないほどに可愛がっていた。クロエにとってミーリアは、魔の巣窟アトウッド家唯一の癒やしだった。ミーリアもクロエには全幅の信頼を寄せているのか、クロエがいれば吸い寄せられるようにして近づいてくるのが常だ。

「ハァ……ハァ……クロエ姉さま……」

「ミーリア、そんなにあわててどうしたの?」

 ラベンダーを摘む手を止めて、クロエはミーリアの背中をでた。

 アトウッド家の秀才であるクロエは、即座にミーリアの様子が変わっていることに気づき、じっと観察するようにして末っ子を頭上から眺める。クロエは十歳でありながら読み書き計算ができ、心の機微にもさとい。屋敷にある書物では足りず、読んだ内容を自己流で応用し日々の生活に使おうとしていた。一方、読み書き計算のできない領主アーロン。本当に脳筋アーロンの娘なのか村人が疑いの目を向けるほど、クロエは優秀な女の子であった。

 ミーリアはクロエの温かい手を背中に感じ、呼吸を整え、顔を上げた。

(六女のクロエ姉さま……美人だ。十歳の幼女なのにそこはかとないエロスを感じる。クロエロス姉さまだ……)

 相変わらず自由な脳内のミーリアだった。そして、日本人の記憶がある今だからわかる。クロエは類まれなる美少女だ。

 クロエは理知的な瞳をミーリアに向けると、優しく両目を細めた。

「私の可愛いミーリア。走っているところを初めて見たわ。さ、あそこにちょうどいい岩があるの。座りましょう。お水もあげるわね」

 黒髪美少女のクロエに手を引かれ、ミーリアは子どもの高さに合った岩に腰を下ろした。

 クロエが竹筒の水筒からコップに水を入れてくれた。

 ありがたくもらって一口飲むと、だいぶ気持ちが落ち着いてきた。

 美少女のクロエがツギハギだらけの作業用ワンピースを着ていると奇妙な気持ちになる。チグハグなコスプレ衣装を見せられているみたいだった。

「クロエ姉さま、ごめんなさい。びっくりさせて」

「いいのよ。それよりもどうしたの? 今日のミーリアはいつもと違うミーリアね?」

「ええっ? そ、そうかなぁ……あはは……いつもどおりダヨ」

 ミーリアの役者への適性は皆無であった。

 おろおろしているミーリアが可愛いので、クロエは破顔して末っ子のラベンダー色の髪を撫でた。

「ごめんね、お姉ちゃん困らせちゃったわね。ミーリアはいつでもミーリアだもの。あなたの代わりはいないわ」

「うん……ありがとう」

 クロエの優しさに感動して泣きそうになるミーリア。

 日本にいたとき、優しくしてくれたのはお婆ちゃんだけだった。そんなお婆ちゃんも寝たきりになって入院してしまい、自分が引っ越した時点で離れ離れになった。高校生活で友達はいなかったし、バイト先で誰かに嫌われるのは精神衛生上もう無理、という状態であったので必要以上に人と接することはなかった。

 そんなボッチ高校時代を思い出していたら、六女クロエの存在が尊く思えてしまい、つい彼女の腰を両手でぎゅっと抱いた。顔を胸にうずめてみる。

(ラベンダーの香りがする……あと甘いにおい……)

 成長中であるクロエの細い身体は女性らしく柔らかかった。

「ミーリア……」

 ミーリアのほうからぎゅっとしてきたことなど今まで一度もなかったので、クロエは最初びっくりして、すぐに胸の奥がキュンとなった。まあなんて可愛いの、と心の中で歓喜しながら、ついつい頭を撫でる速度が上がってしまう。


 収穫期のラベンダー畑は一面紫色に染まっている。

 風が吹くと、はかなげな少女のように花が揺れた。

 ミーリアとクロエはしばらく抱き合い、どちらからともなく目を合わせた。

「あの、クロエ姉さま」

「なにかしら?」

「私、色々気づいちゃったんです。あの……アトウッド家は……その……あの……」

 ミーリアはクロエには正直に話そうと思った。

 もちろん転生したことは言わないにせよ、アトウッド家のひどい現状に気づき、それを打破したいと伝えて知恵を貸してほしいと懇願するつもりだ。きっと六女クロエも同じ気持ちだろうと思う。彼女がこの家の現状を鑑みないはずがないと、実際に話をして確信できた。

(どこからどう話せばいいんだろう……。この世界についても知りたいし、魔法についても教えてほしい)

 ──魔法

 この世界には魔法が存在する。

 火を起こしたり水を生み出したり、空を飛んだり雪を降らせたりもできる。

 人間を超越した存在が人間の中には存在し、人々は羨望のまなしで彼らを魔法使いと呼ぶ。

 世界で魔法を使えるのは一部の人間のみ。適性がなければまったく使えない。数百人に一人の割合と言われており、そこから実用的な魔法を使える者はさらに減る。

 アトウッド家の領地内に魔法使いはいない。

 小さな村が四つと、地方町役場のえないバザーのような市場がくっついただけの領地内に、高給取りの魔法使いがいるはずもなかった。

(もし私に魔法使いの素質があったら……すべて解決する。魔物狩りで稼いでもよし、金持ちの専属魔法使いになってもよし、旅の道すがら魔法を使って小銭を稼ぐ気ままな生活もよし……無限の可能性が広がるよ)

「わが家の現実に気づいてしまったのね」

 考えているミーリアの横顔をクロエがのぞんだ。

 長いまつ毛が向けられ、ミーリアは思考から引き戻された。

 クロエはアトウッド家の現状を思ったのか眉をひそめる。

「お父様はアレだし、アレックス様はアレだもの。あなたが不安になるのは無理もないわ。そろそろあなたには話しておかなければと思っていたところだったの」

「そうなの?」

「ミーリア……。お姉ちゃんはね、この村を出たいの。息が詰まるようなこの閉塞的な村から逃げ出したいんだわ。ええ、そうなのよ」

「クロエ姉さまも思っていたの?」

「このままではどこの馬の骨と結婚させられるかわかったものじゃないわ。狩猟のための森林使用権とかいう、くだらないもののために捨て駒にされるなんて……全身に悪寒が走るわね」

 六女クロエは美少女で秀才だ。ぜひ嫁に来てほしいと村内でも引く手あまたであり、領主アーロンはクロエの美貌を利用する気満々なのか、ハンセン男爵家にめかけとして送り込むべく手紙のやり取りをしていた。もちろん自分は文字を書けないから、妻エラの代筆だ。

「南に広がる森林の使用権利と引き換えなのよ? 私を入場券代わりにとでも思っているのかしら。しかも二十五人目の奥さんですって……笑えないわ」

 白い肌をちょっとばかり青ざめさせて、クロエが作業用のワンピースを握りしめた。

 アトウッド家から南へ進み、魔物の生息地を抜けると広大な森林地帯が広がっている。人間領域であり、魔物は出没しないため絶好の狩猟場になっていた。領主アーロンはその使用権利がどうしてもほしいらしい。

 年に二度来るハンセン男爵家の商隊長がクロエを見て、その美しさを男爵に伝えたのがクロエの運の尽きであった。無い金を絞り出し画家に絵姿を描かせてアーロンが男爵家に送り、婚姻の話が進んでしまっている。現在は次女ロビンの出戻り問題があるので正式な婚約まで至っていないが、ほとぼりが冷めたらどうなるかわかったものではない。ミーリアもさることながら、クロエも相当にヤヴァイ状態であった。

「十二歳までに家を出ないと」

 六女クロエは澄んだ瞳をぱちぱちと開閉した。

 アドラスヘルム王国では十二歳から婚姻が可能だ。十歳であるクロエに残された猶予は二年だった。

 何か決意した表情になると、ミーリアの両肩に手をのせて顔を覗き込んできた。本気の顔つきにミーリアはごくりと生唾を飲み込んだ。

「よく聞いて、ミーリア。十年前に即位された女王陛下がお作りになられた、アドラスヘルム王国女学院という学校があるわ」

「王国女学院?」

「ええ。アドラスヘルム王国で初めて設立された、女性のための学校よ。優秀な女性の地位向上と社会進出を狙った学校なの」

(日本で言う女子校がこの世界にもあるの?)

「私は学院を受験するわ。教会のお手伝いでめたお金を受験費用に使うの。すべてを受験に賭けるのよ」

「クロエ姉さま……」

 ミーリアは黒髪を揺らすクロエを見つめた。

(これは人生を賭けている人の目だ……十歳なのにさといよ。私、高校生だけど、お姉ちゃんと呼んでもいいかい?)

 すでに姉さま姉さまと呼んでいるくせに少しずれた脳内思考のミーリア。

「私はね、あなたのことが心配なのよ……ああ、私のいとしいミーリア。あなたを一人こんなへんで、田舎で、ラベンダーぐらいしか取り柄のない、貧乏人がその日暮らしをしている、世界の果てみたいな場所に置いて行くなんて……」

 愛情深いクロエはミーリアの頭を撫でた。丁寧なのに機敏な撫で方だ。指を入れれば抵抗なく抜けていくミーリアの髪を存分にたんのうしているプロの手つきである。要領の良さをこういうさいな箇所でも発揮してくるのは、六女クロエの性格とも言えた。

 あまりの心地よさに眠くなってよだれを垂らしそうになったミーリアは、あわてて我に返った。

「クロエ姉さま、私も姉さまと同じ気持ちです」

「私を好きということね? ええ、ええ、わかっていますとも、ミーリア。私とあなたが相思相愛だなんてあなたが生まれた瞬間からわかりきっていたことよ。ラベンダーが紫色ぐらい当たり前のことだもの。ええ、私も好きなのよ、ミーリア。あなたのキラキラした瞳も小さなお口も細いお手手も私は大好きなのよ」

 クロエがじようぜつに語り始めた。

 なんだかいけない方向にベクトルが向いている気がし、ミーリアはクロエの手を握った。

「違うんです姉さま」

「ち、違うの? ミーリアはお姉ちゃんのことが好きじゃないの……?」

「ああ、そういうことじゃなくって」

 クロエが悲しげに顔を伏せたので、ミーリアは握っている手を上下に振った。

「私もアトウッド領から出たいの。でも知らないことばかりだから、色々教えてほしいの。ダメ……かな……?」

 姉が人生を賭けた受験をすると聞いて、自分があれこれ教えを請うたらお邪魔になるかもしれないとミーリアは不安になってきた。今までの人生で友達も兄弟姉妹もいなかった。現在はミーリアの記憶があるものの、それは自分が体験したものでなく記憶でしかない。クロエが自分のことを好きと言う言葉がうれしくもあり、それと同時にくやっていけるかを不安にも思った。ミーリアは様々な思いを胸に、上目遣いにクロエを見上げた。

「クロエお姉ちゃん?」

「……」

 愛らしい八歳の妹に心配そうな瞳で見られたクロエはたまらない。

 ミーリアの薄紫色の髪、アメジストのような瞳、可愛らしい顔立ちがクロエの母性本能をくすぐる。しかもお姉ちゃん呼びだ。前から呼んでほしいと思っていたクロエはもだえそうになった。

「あ、ごめんなさい! お姉ちゃんだなんて呼んでしまって! お母さまに怒られちゃう」

 ミーリアが手を放して頭を下げる。

 地味な母親は貴族の立ち振る舞いに関してはうるさかった。

 クロエは素早くミーリアの頭を抱え込んで、自分の胸に押し付けた。

「いいのよミーリア。お姉ちゃんはお姉ちゃんなんだから、二人のときはクロエお姉ちゃん、と呼んでちょうだい。わかった? できる? ほら言ってみて。クロエお姉ちゃんって」

「……クロエお姉ちゃん」

「そう、そうよ。二人のときはそう呼んでね」

「うん。クロエお姉ちゃん……えへへ」

 ミーリアはクロエが今日で本当の姉になったような気がし、頰が熱くなった。勝手に口角が上がって笑顔になる。

 クロエは妹の可愛い表情を見て胸キュンし、顔をのけぞらせた。

 だらしない顔を妹に見られるわけにはいかなかった。

「それでクロエお姉ちゃん、色々教えてくれる?」

「もちろんいいわよ。私がミーリアのお願いを断るはずがないでしょう」

 クロエが表情を引き締めてミーリアを見つめた。

「それで、何から教えればいいのかしら?」

「うん。まずは魔法について聞きたいんだけど」

「魔法ね……」

 クロエは端整な顔を残念そうにし、あやすようにミーリアの頭を撫でた。

「ミーリア……昨日受けた魔力適性テストのときに言ったでしょう? あなたに……魔法の才能はないのよ」

「魔法の才能が…………ない?」

 クロエの言葉に、ミーリアは崖から突き落とされて真っ逆さまに落ちていくような絶望を感じた。



 ミーリアは頭の中が真っ白になった。

 心のどこかで、転生した自分が特別な存在だと思っていたのかもしれない。

 小説サイトに出てきた主人公たちのように、自分にも隠れた魔法の才能があると信じて疑わなかった。よくよく思い返せば、自分は教会で行われた魔力適性テストのあとに高熱を出して寝込んでいた。

 アドラスヘルム王国ではどんな辺境の地でも、八歳になった時点で適性テストを受けることができ、費用はすべて王国持ちだ。東の村の婆さんがぎっくり腰になった、などが最大トピックスであるアトウッド領にとって、魔力適性テストは年に一度の最大級のイベントである。

 ちなみにアトウッド領ができてから百五十年、一度も魔法使いになれる人材が現れたことはない。

 ミーリアもそれに漏れず、魔力適性テストで『適性なし』と判定された。

(なんてこった……私、魔法使いになれない……どうしよう……このままじゃ一生この土地に縛られて生きることに……)

「ミーリア、ミーリア。どうしたの? 頭が痛いの? お水を飲みなさい、ほら」

 クロエが心配をして木製コップに水を入れてくれた。

 混乱したまま水を一口飲むと、どうにか冷静になることができた。

「クロエ姉さま……ありがとう。ちょっと思い出してショックだっただけだから、心配しないでね」

「いいのよ。それに、違うでしょ。クロエお姉ちゃんでしょう?」

「あ、そうだった。クロエお姉ちゃん、ありがとう」

「どういたしまして」

 優しく微笑ほほえむクロエに癒やされ、ミーリアは一息ついた。

 お尻をずらして岩に座り直し、目の前に広がるラベンダー畑を眺める。紫色の海が風でざわざわと揺れており、村人の女たちがけ帽子をかぶって花を摘んでいる姿が遠くに見える。話に夢中だったため、観光地のような長閑のどかな景色に気づかなかった。こんなに美しい村なのに閉塞的な空気が流れていることが不思議でならなかった。

 冷静になった頭で昨日の出来事を思い返してみる。

(偉そうな神父が旅馬車でやってきたんだよね。八歳になる子どもは教会に集まって、水晶に手をかざすっていう簡単なテストだった。水晶が光れば魔力適性アリ、光らなければナシ。シンプルだよね……)

 ミーリアはコップを両手で持ち、青空を見上げた。

 雲一つない青色が一面に広がっている。

(そういえば水晶に手をかざしたとき、身体が熱くなったような気がしたけど……あれは魔力とは関係がないのかな? 調べたほうがいいよね。せっかく異世界に来たんだし魔法はあきらめられないよ。十二歳までまだ四年ある。それまでに家を出て独り立ちする手段を確立すればいいんだ)

 持ち前の図太さで立ち直り、クロエを見つめた。

「昨日ね、水晶に手をかざしたとき身体が熱くなったんだけど、魔法と何か関係があると思う?」

「身体が熱く? それでお熱が出たの? すっかり忘れていたけどお熱はもう大丈夫なの?」

 クロエがミーリアのおでこやら頰をぺたぺた触る。

「熱はもうないよ。適性テストで熱が出たかはわかんないよ」

「水晶で身体に熱を感じた……」

 クロエが風でなびく黒髪を押さえ、真剣な表情を作った。

「どういうことかしら? 適性ナシで熱を帯びるなんてことある? 『魔法初歩解説』にもそんな記録はなかったと思うけど……」

「私、魔法使えないかな?」

「……水晶に手をかざして何か反応があったという村人は今まで一人もいないわ。私も魔法が使えないかとあれこれ調べたの。魔法使いになることがこの土地から出ていく一番の近道だからね。そう……身体に熱を帯びたというのは気になるわね……」

「調べられない?」

「そうね……あとでこっそりお父様の書斎で調べてみましょう。私が見落としている文献があるかもしれないわ」

「クロエお姉ちゃんありがとう!」

「ええ、ええ、可愛いミーリアのためだもの。お姉ちゃんにまかせなさい。これから二人のときはクロエお姉ちゃんと呼ぶのを忘れないようにね」

 年齢の近い人に優しくされたことのないミーリアは心の底から喜び、クロエに抱きついた。なんだかクロエに優しくされるだけで嬉しさが止まらない。八歳児の身体に精神が引っ張られているような気もしたが、別にいいかと思った。クロエにはお婆ちゃんからもらった優しさとは別の温かさを感じる。

「可愛いミーリア、愛しいミーリア、私がいなくなってからが心配だわ」

 クロエは高速なでなででミーリアの頭を撫でくりまわし、学院に合格してこの土地を離れたあとを早くも心配し始めた。ひとしきりミーリアの髪を堪能すると、瞳をれいに細めて、動かしている手を止めた。

「ミーリア、よく聞いてちょうだい」

「なに?」

「このことは私以外に言ってはいけないわ。秘密にしておきなさい。なんでかわかる?」

「……お父様?」

 クロエがゆっくりうなずいた。

「もし奇跡的にミーリアが魔法使いになれると聞いたら、筋肉と狩猟にしか興味のないお父様はあなたを利用するでしょう。領地拡大のため、魔物を倒せと延々命令されるわ。あなたをこの土地に縛りつけようともするでしょうね」

 クロエの言葉にミーリアは背筋が震えた。

「魔法が使えるとわかったわけじゃないわ。それでも用心しておきましょうね」

「お姉ちゃんって頭いいね。十歳なのに」

「私のほうがびっくりよ。あなたがこんなに利発な子だったなんて……驚きよ」

「熱が出てからね、急に頭の中が綺麗になったんだよ?」

(クロエお姉ちゃんに見捨てられたら生きていけない。変だって思われないように言っておかないと……。元々は日本人ですなんて信じてもらえないから、魔力適性テストと高熱が原因ってことにしておこう。これで魔法が使えたら……完璧なんだけど)

 クロエは全面的にミーリアの言うことを信じたのか、優しく目を細めてうなずいた。

「あなたは村でも変わった子だと思われていたわ。きっと神様が可愛いあなたが健やかに人生を送れるよう、知恵をくれたのかもしれないわね」

「そうなのかな?」

「そうに決まっているわ。ミーリアはこんなにいい子なんだもの」

 美少女のクロエに言われるとそんな気がしてくる。

 神様がいるのだとしたら、まず手始めにクロエが姉であることを感謝したかった。

「私はあなたのお姉ちゃん。何があってもミーリアの味方なの、知っていた?」

「うん……ありがとう。私もクロエお姉ちゃんの味方だよ?」

「うふふ、可愛い味方さんね」

 ミーリアが満面の笑みを浮かべると、クロエが嬉しそうに微笑んだ。

「さ、手をつなぎましょう。転んだら大変だわ。私の仕事が終わるまで一緒にいましょうね」

「はぁい」

 いい返事をして、ミーリアは姉の細い指を握った。

 自分を大切にしてくれる家族がいる。そのことに、心があたたかくなった。



 六女クロエは十歳でありながら、質のいいラベンダーを選定して摘む労働を課せられていた。

 上質なラベンダーは高級ジャムとして、ハンセン男爵の治める街で販売される。

 アトウッド家で現金化できる商品の中で利益率の高い商品だ。品質が落ちれば買い手もつかなくなるため、ラベンダーの選定は非常に重要と言っていい。

 クロエは幼さの残る横顔で黙々とラベンダー畑をかつする。

 ラベンダー畑から最高品質のラベンダーだけを選定して摘み取っていた。ミーリアにはどれもこれも同じラベンダーに見える。

(クロエお姉ちゃん、ほんと十歳とは思えない。私が十歳の頃なんて……ダメおやにご飯作ってたな。あの頃はノートもシャーペンも買ってもらえなかったから、なるべく白いチラシをノートっぽくして……それを見かねた担任の先生が……ううっ、思い出したら悲しくなってきた……忘れよう、うん。そんなことより、クロエお姉ちゃんだよ。十歳でこれだけ思慮深いって、天才なのかな?)

 ミーリアはクロエの頭の良さに感服した。

 幸か不幸か、複雑な家庭環境がクロエの成熟を早めているのであろう。

 みそっかす扱いをされていた七女ミーリアは家の手伝いをしなくとも、とがめられることはない。なので、ミーリアはクロエの仕事ぶりを見ながらお手伝いをし、十歳ながら博識な姉の言葉に耳をかたむけた。

 もっとも、お手伝いと言っても、かごを持ってテクテクついていくだけである。それでもクロエはずいぶんと嬉しそうだ。

「私はね、学院に入学して商売の勉強がしたいの」

「商売の?」

「ええ。優秀な学院に行けばコネもできるでしょう。それでお店を開いて、どんな場所にでも物を売ることができる大きな商会を作りたいのよ。アドラスヘルム王国のいたるところに商品を運び、誰でも公平に品物を買えるようにする。どう、素敵じゃない?」

「素敵だね!」

 クロエの夢に、ミーリアは素直に感心した。

 それと同時にクロエの夢はこの領地が閉鎖的だから生まれた夢であることも実感した。

 村にある唯一の商店は、生活必需品をわずかに扱う申し訳程度の規模だ。ミーリアが言うところの村の商家(笑)である。

 なぜなら、アドラスヘルム王国最西端に位置するアトウッド家は取引をしようにも、近場の街まで一ヶ月かかる。

 南方の街ハマヌーレに行くには魔物の領域である街道を通過する必要があり、魔物が活動を弱める日中しか移動できず、旅慣れた者でなければ魔物の餌食になってしまい踏破できない。ハマヌーレを統治するハンセン男爵は年に二回、騎士団による商隊を組み、アトウッド家へ必要物資を大量に販売してくれる。裏を返せば二回しか来たくない、ということだ。

 ハンセン男爵もお国から命じられていなければ、アトウッド家との交易などとっくに放り投げている。大事な騎士団が死ぬかもしれない街道など誰が通りたいものか。子どもでもわかることだ。

 ハンセン男爵が毎年、交易の補助金アップを王国に陳情するのは恒例行事になっていた。皮肉なことに、貴族が会話中に「アトウッド領に行く」と言えば、「金がかかって死ぬかもしれないけど仕方なく行く」とする比喩表現になっている。


「アハハ……うちってそんな田舎なんだね……」

 クロエから簡単に状況説明を聞いたミーリアは苦笑いしか出ない。

(自力脱出は本当にヤバ谷園にならない限り実行しちゃいけないね。魔物にがぶり、とか、せっかく転生したのにいやだよ。がぶりされるならせめて焼き肉お大尽になってからだな)

「南から西にかけて深い魔物の森に覆われ、東は断崖絶壁の渓谷、北は誰も行ったことのないへき……ふふっ……陸の孤島とはアトウッド家のことね」

 クロエがハイライトの消えた遠い目でラベンダー畑を見つめた。

 話題を変えるべく、ミーリアは彼女のワンピースの裾を引っ張った。

「クロエお姉ちゃん、ここから自力で逃げ出すのは……やっぱり無理だよね?」

「ああ可愛いミーリア。冗談でもそんなこと言わないでちょうだい。あなたの身に何かあると考えるだけで胸が張り裂けそうよ」

 コンビニまで徒歩一時間だった家より過酷な状況だ。街に買い物に行くよっ、と言って一ヶ月かかり、しかも生死不明の危険な旅になるなど正気の沙汰ではない。

 クロエはラベンダーを丁寧に摘み取り、ミーリアの目の前に出した。

「だからよ。私たちのように、地方領地には困っている子どもがたくさんいるわ。物がなければ心は貧しくなる。本も読めず、外の世界も知ることができない。だから夢も希望もなくなる……。そんな子たちを私は救いたいの。そのためにはお金が必要よ。わかるかしら?」

「うん。なんとなくわかるよ」

「このことは秘密にね? お姉さま方にも言ってはダメよ? 特にロビン姉さまには絶対言ってはダメ。なぜだかわかる?」

 ミーリアはクロエの澄んだ瞳を見て、こくりとうなずいた。

 次女ロビン。絶賛出戻り中の要注意な姉だ。足を引っ張られる未来しか浮かばない。

「私たちの秘密ね」

 にっこりと嬉しそうにクロエは笑い、手にあるラベンダーをかごに落とした。

 そのとき、カン、カン、カン、と甲高い音が屋敷の方向から聞こえてきた。

(仕事が終わりの合図だ)

 クロエがかごをひょいと持ち上げ、笑顔を向けた。

「帰りましょうミーリア。今日は夕飯が早いみたいね」

「うん!」

 誰かと帰る。たったそれだけのことで心が躍るミーリア。

 恐る恐るクロエの空いている手に触れると、彼女は驚いた顔をし、すぐに破顔した。

「守りたい、小さな手……」

「お姉ちゃん何か言った?」

「なんでもない。なんでもないのよ。さ、行きましょう。お姉ちゃんにしっかりつかまってちょうだい。転んでをしたら大変だわ」

 ミーリアの手をにぎにぎするクロエ。このときばかりは秀才と言えど、年相応の笑顔だった。

「うふふ」

「えへへ」

 にまにました笑みが次から次へこぼれてくるミーリア。

 だが、これから夕食という事実に気づいて表情筋がこわばった。

(あれ? 夕食ってことは……家族全員集合じゃん? 脳筋領主、出戻り姉、アレな婿養子と顔を合わせるって…………どんな顔して食卓につけばいいのかわからない……)

 記憶では家族と食事をしているが、転生した自分が対面するのは初めてだ。

「どうしたのミーリア? さ、行きましょう。遅れるとお父様がうるさいわ」

「う、うん」

 ミーリアはどうにか口角を上げて返事をし、クロエに手を引かれるままラベンダー畑を後にした。

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