二人の終活
九戸政景
二人の終活
「……突然ですが、私はこれから好きな事をやらせてもらいます」
ある日の朝、朝ご飯を食べていた時に祖母ちゃんがそんな事を言いだした。俺の祖母ちゃんはいつも和服をしっかりと着ていて、背筋もピシッとしているとても88歳とは思えない程に
そのせいか、近所のお年寄りからはその元気さを羨ましがられているし、祖母ちゃんを弱々しい老人だと思って近寄ってくる詐欺師なんかも平気で追い払うというスーパー祖母ちゃんだ。
「……ほんとに突然だな。いきなりどうしたんだよ?」
「貴方も知ってるように私はもう長くありません。なので、残りの時間は今まで出来なかった事に費やす事にしたんです」
「ああ、なるほど」
祖母ちゃんの言葉に俺は納得顔で頷く。
先日、祖母ちゃんは仕事中に突然倒れ、病院に運ばれた。少し前から疲れた様子を珍しく見せていたから、俺や従業員の人達は心配していたけれど、祖母ちゃんはそんな俺達に対して心配はいらないからそんな事より仕事に集中しろと言い、自分の心配を一切させなかった。
けれど、祖母ちゃんは働き過ぎと精神的な疲労で病気に罹っており、お医者からはもう長くなく、1年持てば良い方だと言われてしまっていたのだ。
その事実に従業員の人達はもちろん驚いたが、高校生活を送りながら旅館を継ぐための修行をしていた俺も驚いたし、とても不安になった。
両親を幼い頃に亡くし、親の遺産などもまったい俺は親戚から煙たがられ、この先どうなるんだろうと思っていた時に引き取ると言ってくれたのが祖母ちゃんだったが、温泉旅館を継ぐのが嫌で家を出た母さんとは仲違いをしていた事で祖母ちゃんとは顔を合わせた事が全くなかった。
だから、引き取ると言ってくれたのはありがたかったが、祖母ちゃんと顔を合わせるのが不安で仕方なく、もしかしたら辛い毎日が始まるんじゃないかとすら思っていた。
しかし、俺の予想に反して祖母ちゃんは俺を冷遇する事は無く、それどころか仕事が忙しくても授業参観や三者面談にも来てくれたし、少し厳しかったものの礼儀作法や勉強でわからないところも教えてくれた。
そんな祖母ちゃんに感謝すると同時に、俺は尊敬しており、高校卒業後には温泉旅館を継ごうと考えていて、そのために祖母ちゃんや他の従業員の人達にも教えてもらいながら修行を積んでいたのだ。
そんな中での祖母ちゃんへの余命宣告は俺の不安を煽るには充分であり、最近は学校生活も修行もあまり集中出来なくなっていたので、どうにかしないといけないと日々思っていた。
「まあ、これまで頑張ってきたんだし、俺も従業員さん達も文句は言わないと思うけど、何をやるつもりなんだ?」
「そうですね……あまり旅行などに行った事は無いので、色々な温泉地や観光地に行ってみたいと思っていますし、何か習い事を始めても良いかもしれません」
「やりたい事をやるのに温泉地には行くんだな」
「当然です。温泉に入る事は好きですし、経営などから退く事になったとしても、様々な温泉地に行った経験は今後にも活かせますから。
そして、貴方にもその旅行には付き合ってもらうので、私が亡くなるまでは日々の予定を私に前もって報告して下さい」
「え……お、俺も……?」
「当たり前でしょう? 貴方も今は学生の身ですが、いずれはこの温泉旅館を継ぐのですから、他の地域の温泉旅館がどういう物かを勉強し、今後の経営などに活かして下さい」
「け、けど……」
「けども江戸もありません。そんな事では恋い慕っている女の子にも嫌われますよ。貴方があの仲居さんの娘さんに恋慕しているのは知っているんですよ?」
「なっ……!?」
学校の男友達にしか打ち明けていない事を祖母ちゃんに言い当てられた事でその子の顔が思い浮かび、顔がほんのり熱くなってくるのを感じていると、祖母ちゃんは深くため息をつく。
「……別に旅館の主が仲居の娘を好くのは悪い事ではありませんし、板前と若女将が夫婦となる例も現実にごまんとありますから、それを邪魔する気はありません。
ですが、何かを決める際にはっきりとせずにもじもじしているだけの男性は女性から見れば頼りなく見えますし、生涯を捧げるには値しないと考えても仕方ありません」
「う……」
「まあ、それでも良いと言うのなら、私は何も言いませんが、それで後悔をする事になるのは貴方です。
それが嫌なら、はっきりとした態度を取る事を心掛け、迷う時もただ迷い続けるのでは無く、栄光の未来へ向かえるように頑張りなさい。
迷う事は決して悪い事ではありませんが、迷うだけで時間を消費してしまうのは無駄でしかないですから」
「……わ、わかったよ……」
「とりあえず、行く場所や日程などは私の方で決めますが、何か希望があれば聞くので、その際にはしっかりと私に報告して下さい。そうでなければ、意見の相違によってお互いに嫌な気持ちに……」
いつも通りの落ち着いた様子で話す祖母ちゃんの話を聞いていたその時、ふと祖母ちゃんの足元に何か雑誌のような物が見え、俺は体を伸ばしてそれを手に取った。
「あっ、ちょっと……!」
「これは……旅行雑誌みたいだけど、なんか付箋や書き込みが多いな……」
「貴方には関係ない物です! 早く返しなさい!」
珍しく焦った様子を見せる祖母ちゃんの姿に珍しさを感じながら俺が旅行雑誌の付箋が貼られたページを開くと、そこには温泉旅館の特集記事が載っていたが、それ以外にもタイムスケジュールや俺が好きそうな店として和菓子屋などが何軒かリストアップされていた。
「祖母ちゃん、これって……」
「……見ての通りですよ。修行の一環ではありますが、貴方との外出もこれまで中々出来なかった事なので、せっかくなら楽しんでもらおうと考えていただけです」
「祖母ちゃん……」
「たしかに貴方はこの温泉旅館から逃げ出したあの子の息子ですが、だからといって貴方の事を悪く言ったり冷たくしたりするつもりはありません。
それに、本当に数少ないですが、旦那さんに連れられて何回か今の生活や貴方の成長については話しに来ていましたから、前ほど関係も悪くはありませんでした。
だからこそ、あの薄情な親戚連中に貴方を渡す事は出来なかった。この旅館をこき下ろすだけでなく、あの子や旦那さん、貴方の事まで悪く言うような人達でしたから」
「…………」
「貴方自身の想いでもありましたが、この旅館を継いでもらうためにはしっかりと修行を積んでもらう必要があったので礼儀作法などは厳しくしてきましたが、私も一般的な祖母と孫のようにどこかへ出かけたり一緒に何かをする事でその良さを分かち合ったりしたいと思っていました。
そんな中で私は病気に蝕まれ、先も長くない状態になってしまったので、この機会に今まで出来なかった事をして、その楽しさや良さを貴方と分かち合おうとしたのです。まあ、こんな祖母で貴方は幻滅したかもしれませんが……」
少し不安そうに言う祖母ちゃんの姿はいつものようなカッコ良さと美しさを兼ね備えた物ではなかったが、そこには孫のために色々考えて頑張ってくれた最高の祖母の姿があった。
俺はそんな祖母ちゃんに対して更に感謝と尊敬の念を抱くと同時に祖母ちゃんには生涯をかけても勝てないだろうという思いを感じていた。
「……祖母ちゃん」
「……なんですか?」
「俺、祖母ちゃんと一緒に楽しみながらしっかりと学ぶよ。だから、後から思い返しても良い時間だったって言えるような旅行にしよう。後、何かやりたい事があったら、それにもしっかりと付き合うよ。俺だって祖母ちゃんとの時間は大切にしたいし、祖母ちゃんの事は誰にだって自慢出来るって思ってるしな」
「……まったく、そうやって真っ直ぐに言葉を伝えてくるところとその真剣な顔はあの子とそっくりですね」
「母さんだけじゃなく、祖母ちゃんとも一緒だろ?」
「……そうかもしれませんね」
そう言って微笑む祖母ちゃんの顔は穏やかで、どこにでもいるようなお婆さんの顔だった。そんな祖母ちゃんの顔にクスリと笑った後、俺はこの先に待っている祖母ちゃんとの時間にワクワクしながら胸の奥が温泉のようにぽかぽかしてくるのを感じた。
二人の終活 九戸政景 @2012712
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