第14話
彼方さんの行きつけだというカフェに到着したのは、歩き始めてから四十分以上経った後だった。既に店は開いているらしく、まだ少し距離があるここからでも、濃い珈琲の匂いがする。
確かに、開店時間にはちょうどよかったかもしれないが、こんなに遠いとは思っていなかった。
「これ、歩く距離じゃないでしょ」
「いやいやこれくらいなんの」
言いながら彼方さんは店のドアを開ける。自然光で満たされた店内は、そこまで席数が多いわけでもなかったが、かなりこぢんまりとした印象を受けた。
「いらっしゃいませ」
カウンターの向こうから僕たちに向けて女性の声がした。そしてすぐ、彼方さんと同年代くらいの、腰にエプロンを巻いた女性が接客に来る。
「千加、来たよ」
彼方さんは軽く右手を振ってそう言った。
「えっ、彼方? と……君は?」
どうやら彼方さんの知人らしい、千加さんという女性の怪しむような視線がこちらに向く。彼方さんのフォローも入りそうになかったので、僕は正直に自己紹介をした。
「あ、えっと……未鳴遥です」
「名字、未鳴っていうんだ」
隣で彼方さんがそう言って驚く。そういえば言ってなかったか。というか、思ったことをそのまま口に出すところ、どうにかしてくれ。
明らかに不自然な僕たちのやりとりに、千加さんの表情は曇りを増す。
「……二人はどういう関係?」
「友達だよ」
間髪入れずに彼方さんはそんなことを返した。今度は従兄弟じゃないのか、と僕は思う。
「彼方、あんたさ……」
「席の案内はまだ? 今日の私はお客さんですけど?」
何か物言いたげな様子の千加さんの言葉を遮って彼方さんは言った。
「……窓際の席、好きに座って」
しぶしぶ、といった口調で千加さんは僕たちを席に案内した。そのまま彼方さんがナポリタンを二人前注文して、ひとまず千加さんは何も言わずにカウンターの奥へ帰って行った。
一瞬目が合った彼女は、ひどく沈んだ顔をしていた。
「ここ、眺めもいいんだ」
ただならぬ雰囲気とは反して、彼方さんはそんなことを呟きながら窓の外を眺めていた。
「いいんですか、あの人、すごく怪しんでましたけど」
「ん? ああ、あれは心配してくれてるだけだよ。千加は昔から優しいんだ。たまに優しすぎるくらい」
さっきの彼女の表情は、心配とか、そういう類いのものだったのだろうか。初めて会ったばかりの僕には分からない。
「千加は、私の数少ない友達なの」
「はあ」
「大切なんだ」
彼方さんはまだ窓の外に顔を向けていた。けれど、その言葉が嘘じゃないことは分かった。
「あ、そうだ。クイズしよ」
振り返ったかと思えば、彼方さんは唐突にそんな提案をする。忙しい人だ。
「私、どうやって生活してるでしょう」
「なんですか、それ。生活って、どういう意味で?」
「そのままの意味だよ。私が生きるお金はどうやって稼いでいるのかって話」
言われて、改めて考えてみると、確かに僕は彼女の仕事について何も知らなかった。
そもそも、考えようとも思っていなかったのだと思う。だって、彼女は昨日の朝に死ぬ予定だったわけで、そういう覚悟をした人間にとって、仕事だとか生活だとかは、もう関係の切れた過去でしかないのだから。
僕の頭には、本人がどうとも思わないことを他人が思慮するのは無粋だろう、という無意識下での制御がかかっている。余計なことを考えなければ、知らないうちに傷つけることも、傷つけられることもない。
だが、この場合は彼女本人がそれを望んでいるようだし、一度深く考察してみるのも悪くはないのかもしれない。
「じゃあ、質問をいくつかさせてください。ノーヒントは、ちょっと厳しすぎる問題なので」
「おっ、案外乗り気だね。いいよ、じゃあ三つまで」
あっさりと提案を受け入れる辺り、彼女としても多少の難易度を自覚しているのだろう。となれば、ただの会社員だったりする可能性は低いと見ていい。
「それは、客観的に見て、就職者の多い職種ですか?」
「いいえ」
即答だった。
「それは、彼方さんが望んだ通りの職種ですか? っていうのは、その……」
「はい、だね。誓って言える、私はこの仕事に妥協して就いたわけじゃないよ」
僕が言い淀んでいた部分を読み取った上で、また彼方さんはきっぱりとした口調で答えた。
なんとなく、次の質問は浮かんでいた。
「最後の質問です。……それは、絵を描く仕事ですか?」
「はい」
僕の目をしっかりと捉えながら、彼女は肯定する。
「質問は終わったね。じゃあ、遥の答えを聞こうかな」
絵を描く仕事、なんてものは広義的に考えればかなりの数がある。けれど、僕が彼方さんに抱いている印象と照らし合わせれば、不思議と選択肢はないように思えた。
「絵本……絵本作家とか、じゃないですよね」
言いながら、彼方さんの反応を窺う。
「えっ、正解。すごい、一発で当てられたの初めてだよ」
「まぐれです」
僕は驚いていた。
自分で言っておきながら、絵本作家という響きに現実感がなかったからだ。実際にそれを生業としている人を見たことがなかったし、いたとしてもそれこそもっと高齢者のイメージがあった。絵本作家とは、人生に満足した人間が余生を豊かにするための趣味のようなものだと、勝手に思っていた。
「それでも、すごい」
そんなやり取りをしていると、僕たちの席にナポリタンを持った千加さんが現れる。彼女は先程よりも少し落ち着いた様子で、「ごゆっくり」とだけ言い残してからまた店の奥へ帰って行った。
対して彼方さんは、やはり何も変わらない調子でフォークを構えていた。
「ささ、食べよ食べよ。あったかいのがいいんだから」
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