第12話

「夢のあること言いますね、彼方さんは」

「あ、馬鹿にしてるでしょ」


 むしろその逆だった。自然現象はいつだって無慈悲なものだ。そういう考えがこびりついている僕に、彼女の語る理想論は眩しすぎたのだ。


「……今日は、何しますか?」

「え? ああ、考えてなかったなあ」


 右手を顎のところに添えて、少しの間だけ彼方さんは何か考え込む素振りをした。その間も、波は砂の粒を攫い続けていた。

 目を瞑った彼方さんの横顔は、琥珀みたいに白く、今にも消えてしまいそうなほど透き通っていた。

 なぜか、また目頭のところが熱くなった。

 ちっとも、悲しくなんかないのに。

 間違っても涙を流すことのないよう、僕は息を止めて、舌で口内の天井にあたる部分を強く押し込む。こうすると、涙がすんでのところで止まることがあるのだ。


「そうだ、似顔絵でも描く?」


 数秒経って、彼方さんがそう提案した。まるで名アイデアであることを自負しているような言い方だった。


「似顔絵……ってあの似顔絵ですか?」


 嫌なことはすぐに思い出す。

 あの、無理やりペアを組まされて正面を向き合い、お互いの顔を模写するという地獄のような時間。僕とペアになった生徒はいつもあからさまに『はずれくじを引かされた』という顔をしていた。

 そうして出来上がった絵に描かれていたのは、僕ではなく、すっかり魂の入っていない抜け殻のようだった。表面だけをなぞった、かたちだけの複製。

 他人から見た僕なんて、そんなものだ。


「他のアイデアはないんですか」


 希薄な可能性だとは思うが、僕は訊ねた。


「ないね。私のボキャブラリーの貧困さを舐めないでほしい」


 だからそんなに自慢げに言うな。


「とりあえずやってみようよ、ほら。だって遥、描くんでしょ?」


 彼方さんの視線は僕が肩から提げているトートバッグに向けられていた。いや、正しくはその中に入っている、未だ白紙のスケッチブックに対して。

 ひとまず彼方さんの言う通り、向かい合わせに僕たちは座って、お互いにスケッチブックと鉛筆を持っていた。

 彼方さんも自分の画材を持ってきていたことに、僕は少し驚いた。昨日死ぬはずだった彼女は、身辺整理の際もこの画材を残していたということになる。彼女のスケッチブックはそれなりに使い込まれたような痕跡があったので、昨日僕と別れた後で急ごしらえしたという可能性は低いだろう。


「じゃあ、制限時間は一時間ね」


 彼方さんの号令で鉛筆を白紙に沈めた瞬間に、それらのことは忘れることにした。こんなことが気になる自分が、なんだか気持ち悪く思えたからだ。彼女の似顔絵に対して真摯に向き合いたいと思う自分もいたような気がする。

 鉛筆の濃い線が、腕の動きに合わせて線を描き、段々とその線は人体の一部を炙り出していく。込めた力がそのまま紙の上に反映されていくのが、僕の胸を静かに踊らせていた。

 人物画を描く際、僕はまず初めに目を描く。それも大体は左目から。理由は単純で、僕が一番人間の顔で好きなパーツが目だから、それと右利きの僕には右目の方が描きやすく、先に右目を描いてしまうと苦手な左側を得意な右側の目に合わせなくてはならないから。

 目には感情が出る。それと人間性も。あくまで受け取り手にとって、という話だけれど、印象が与える影響は実際の人となりと同じくらい大きい。

 歪んだ瞳の人間が語る真実は、本来の真実とは絶対に違ったかたちになってしまう。僕みたいな人間が誤解されるのは、そういう要因も多大にあるのだろう。


「ねえ、話しかけていい?」


 手を動かし始めて十五分ほど経ったころだろうか、僕は彼方さんの顔パーツをあらかた描き終えていた。


「別にいいですよ、どうぞ」

「学校、サボってんの?」


 直球だった。


「まあ、はい」

「いいね。私もそういうのやってみたかった。月並みだけど、やっぱり青春っていいなあ」

「彼方さんもあんまり真面目そうには見えませんけど」

「言うねえ。でも、こんなに自由を振りかざして生きているのはここ最近だけだよ。私、これでも学生時代はわりと真面目だったんだなあ」

「信じられないですね」


 言いながら、僕は彼方さんの輪郭をなぞっていた。

 彼方さんが僕の不登校について咎めなかったのは別に意外じゃなかった。僕が学校をサボってここにきていることくらい、誰にでもすぐ分かることだろう。


「なんで、とか。気にならないんですか?」


 でも、なんとなくそう訊きたくなった。


「ん? ならないよ。ここじゃないどこかに行きたいなんて、誰でもいつでも思うことでしょ」


 確かに、彼方さんの言う通りなのだろうけど、じゃあ一体、彼女が行きたい『どこか』とは、どこなのだろう。多分、そこは暗くて冷たい海の底だ。光の差し込まない、波の動きも届かない遥か先の闇の中。

 勝手に考えているだけなのに、喉が苦しい感じがした。


 それからまた、三十分ほど経っただろうか。二人の鉛筆が紙をなぞる心地のいい音が途切れることなく聞こえていた。

 周りの景色はまだ朝の色を残していて、まるで時間が経っていないみたいな感覚になる。

 止まった世界で、僕は彼方さんの顔のかたちだけを描き続けるのだ。想像すると、今この瞬間が、なんの混じりけもない、心の対話に限りなく近しい時間に思えた。魂の洗濯、いつかどこかで聞いたことがある言葉が頭の中に浮かんでくる。


「どう、ですか。僕は結構描けてきました」


 返事はなかった。

 僕が彼方さんの方を見ると、彼女は呼吸一つさえも許されないような集中のさなかにいた。その眼差しは鋭く、唇は柔らかくもぴったりと閉じられていた。


「彼方さん」

「え? ああ、ごめん。私たまに何も聞こえなくなるときがあって」

「いや、いいんです。進捗、どうかなって。それだけなので」

「結構できてきたよ。でも遥って癖毛なんだね、前髪のところが本物みたいに柔らかく描けなくて苦戦中」


 彼方さんの口から自分の特徴を聞くのは、なんだか恥ずかしかった。


「彼方さんも、前髪が少しカール? しているので、難しかったです」

「ああ、これね。自分でやってみたの、可愛い?」

「……似合っています」


 この人は、僕が素直に感想を言うだなんて思ってない。ただおちょくっているだけだ。そしてものの見事に動揺している自分も情けなくて、嫌味を返そうにも、何一つまともな言葉が浮かんでこない。


「遥って、本当分かりやすい」

「言われたことないですけど」

「分かりやすいよ。ほら、嘘も下手だし」


 そう言って、彼方さんは人差し指を自分の右目の下に当てて見せる。僕の涙の件を言っているのだろう。


「……絵に戻ります」

「ほら、分かりやすい」

「うるさいです。あんまりうるさいと嫌われますよ」


 それこそ余計なお世話だよ、と彼方さんは小さな声で反論してから、「私、嫌われるほど人と話したことないから」と付け加えた。その言葉の意味は分からなかったけれど、いずれ、僕は彼女のその意味を考えなくてはいけないような気がしていた。

 このとき、既に僕は彼方さんのことを利用するためだけの他人としては考えられなくなっていたのだと思う。ただ、自分ではそれに気づいていないふりをしていただけで。


 一時間が経過したことを示すアラームが鳴って、僕たちは互いの似顔絵を見せ合った。


「似てる。なんなら本物より可愛いや」


 彼方さんは大袈裟なくらい僕の描いた絵を喜んでくれた。彼女が描いてくれた僕は、よく特徴を捉えられていて、かつなんというか、つまらなそうな顔をしていた。これはモデルの表情筋の問題だろう。


「遥は、目が綺麗だよ。描いてて吸い込まれそうだった」


 そんなことを、当の本人の目を見ながら大真面目に言って、少しは恥ずかしくないのだろうか。彼女にとっては多分、そんなふうに考えること自体、つまらないことなのだろう。


「まだ、朝ですね。時間が余ってしょうがない。今度からは、ちゃんと時間を決めて会いましょう」

「時間は余ったりしないよ。でも、また会ってくれるんだね」


 彼方さんのとびきり意地悪な顔を見て、しまった、と僕は思う。


「時間は余ったりしないって、どういう意味ですか」


 失言を誤魔化す意味も含めて、僕は彼女に質問した。彼方さんは、少しだけ考える素振りをしてから、それに答える。


「余ってくれない、って言った方がいいかな。無駄な時間とか、馬鹿なこととかなんでもいい、過ごした時間には名前をつけなきゃ。名前をつけなかった時間は、余ったりせずに消えちゃうの。記憶から消えるってことは、この世から消えることと一緒だもん」


 彼女の言っていることは、誰にでも理解されるようなことじゃない。それは分かっていた。でも、僕にとってはすごく自然と肌に馴染むような、どこか安心する言葉だ。

 そして、そういうことを僕に対して言ってくれている、という事実そのものが、素直に嬉しかった。共感者として認められている、そんな気がした。


「じゃあ、この時間はなんていう名前なんですかね」

「それは、遥が自分で決めなきゃダメ。もし、忘れたくないと思ってくれてるなら、できるだけ素敵な名前をつけてよ」

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