第2話

 彼女は乾きたての洗濯物みたいないい匂いがした。甘くて、どこか懐かしい匂い。とはいえ、僕の家の洗剤と同じものを使っているというわけではないと思うけど。

 改めて近くで見ると、彼女は明らかに僕より年上で、なんというか、お姉さんと呼ぶのが妥当な雰囲気を纏っていた。色の白い肌は雲のように透き通っていて、確かに彼女には、早朝の海がよく似合う気がした。

 一瞬、さっきの彼女の後ろ姿を思い出した。雲を海に溶かしたら、きっとあんなふうに溶けていくんだろうな、と僕は場違いに呑気なことを思う。

 お姉さんは僕のことを疎ましく思っているだろう。だって、自殺を邪魔されたんだから。

 死ぬのは簡単なことだけど、というかみんな死ぬけれど、でも自分で死ぬのを選ぶのは簡単じゃない。きっと僕なんかには想像もつかないような苦悩の末に導き出した決断だったのだろう。

 それを、なんにも知らない高校生に邪魔されて、どんな気持ちになるだろうか。それだって、僕には想像もできない。


「君は落ち着いた見た目のわりには、随分わんぱくなんだねえ」


 くすくすと笑みを零しながら、厚いガーゼみたいな質感のハンカチで、お姉さんは僕の顔を軽く叩く。パラパラと舞う砂が、僕のズボンの上で星屑みたいに無造作な模様をつけた。


「雨が降るので、急いで教えようと」


 白々しい、そう自分で思った。あれは明らかに、彼女の行動を自殺と決めつけた呼びかけだった。


「ふふ、優しいんだね。でも生憎、今日は雨も槍もお金も降らないよ」


 お姉さんが両手を広げてどこか得意気にそう言った直後、僕たちのいる屋根付きのベンチに、パラパラと小雨がぶつかる音がした。

 みるみるうちにその雨音は大きくなって、周囲の空間を呑み込んだ。

 突然、それも予想だにしてなかったであろう豪雨に、お姉さんの顔色は一変した。


「嘘、本当に降っちゃった……」


 だんだんと濁る海を遠目に眺めながら、お姉さんは驚きと、少しの呆れを含んだ声で言った。そしてそのまま彼女は膝を曲げ、座っている僕の顔をいぶかしげに覗き込む。


「なんで雨が降るって分かったの?」


 予期していた問い。しかし上手い返しが用意できているわけでもなかった。

 結果、僕は半ば投げやりに答えた。


「……天気予報で言ってたんですよ」

「嘘だ」


 お姉さんは食い気味に否定する。何か裏づけでもあるのだろうか。


「嘘だよそんなの。私、新聞とテレビと、それからこれで何回も確認してから来たんだから」


 そう言いながら彼女は、水色の背景に油絵の雲が散りばめられた、極めてシンプルなデザインのカバーがつけられたスマートフォンをこちらに突きつけた。

 画面に表示された天気予報には、確かに晴れの予報が出ている。

 予想を超えた語気の強さにたじろぎながらも、僕はあくまでしらを切った。説明するという選択肢は、はなからなかった。


「僕が見たのは昨日の時点での予報でしたけど、間違って更新されることだってあるんじゃないですか。予報はあくまで予報、希望的観測なわけですし。それに、別にそんなのどっちでもいいでしょ、実際にこうして雨が降ってることは事実なんですから」


 厳密に言えば、雨が降ることを知っていたのではない。僕はただ、その前兆を受け取っただけに過ぎなかった。しかしそんなことを彼女に伝えたところで、信じられるはずがない。受け入れられるはずがないのだ。

 受け入れられたことなど、一度もないのだから。


「むきになるところがますますもって怪しいよ」

「むきになんてなって……」


 反論したい気持ちを途中で抑えた。

 否定をすればするほど、彼女の思惑通りになるだけだ。

 お姉さんの追い詰めるような視線から逃避する為に、視線を逃がして屋根の外の様子を窺った。

 水が地面にぶつかる勢いはまだ弱まりそうになかったが、駆け足で階段を登ってホームの軒下に辿り着くことくらいは、なんとかできそうだった。

 そうと決まれば行動は早い方がいい。僕は先程転んだときに解けてしまった靴紐を結び直す。


「それじゃあ、僕は帰るので。未遂に終わったあれなら、また晴れた日にでもやり直してください」


 皮肉を吐き捨ててから、僕は傍に置いていたスケッチブックを脇に抱えて立ち上がり、その場を後にしようとした。

 天気予報を入念に確認するくらいだ。雨の日に自殺したくなかったであろう彼女にとって、僕がしたことは悪いことじゃないだろうし、これ以上関わってもお互いの得にならないだろう。それに、どのみちこの雨では、僕の本来の目的も果たせそうにない。


「待ってよ」

「え?」


 スケッチブックを傘代わりにして雨の中に繰り出そうとした僕の腕を掴み、お姉さんは言った。思わぬ接触に僕はたじろぐ。


「もう少しだけ、一緒にいてくれないかな?」


 お姉さんの手は、不気味なくらいに冷たかった。

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