このまま世界が沈めばいいのに

日々曖昧

第1話

 世界というものは残酷なほど不条理だと、僕は物心ついたときから知っていた。


 始発から二番目の電車には僕の他に誰も乗っていない。平日の早朝から海を目指す人間が他にいないことに、少し寂しさに似た感覚を覚える。それは単に僕が他人の共感に飢えているというだけなのかもしれないけれど。

 真四角のスライド窓を少し開けると、生活と潮が混じった匂いがした。なんとも言えない心地良さに僕は思わず欠伸をする。乾き切った目尻に水滴が溜まって、薄水色の風景を滲ませた。

 一昨日買ったスケッチブックには、まだ何も描かれていなかった。

 正しくは、まだ何も描く気になれていなかった。


 家の最寄りから三駅行ったところに目的地はあった。

 『横須海岸前』、いつ録音されたか分からないような古びた車内音声が駅名をなぞる。プシュー、ドアの開く音が電車のため息みたいに聞こえた。

 ずっと同じ曲を流していたイヤホンを外して席を立った。誰もいない座席と座席の間を、僕一人だけが通り抜けていく。人類が絶滅してしまった後の世界はこんな感じなのかもしれない、なんて突拍子もない考えがよぎった。

 無人で動く電車がないことは分かっているけれど、もし仮にそんな電車があったら迷わず乗り込みたいと思う。きっとそれは停車駅すら定かではなくて、終わらない線路の上をぐるぐると回り続けるだけのものだろう。どこにも行かなくていいという気楽さが、ときどき何よりも魅力的に思える。

 電車とホームの間に覗く、幅十数センチほどの隙間は、いつ見ても落ちてくる人間を待っているようなどす黒さを秘めていた。いつか思わず足を挟んでしまっても、それも仕方のないことだと思えそうなくらい。


 電車を降り、相変わらず無人のホームを抜け、海辺に繋がる長い石階段を下りる。濃い磯の香りがした。

 一段ごとに潮の満ち干きの音が大きくなり、薄いサンダル越しにアスファルトの僅かな隆起を感じる。以前踏み外しかけた経験を生かし、僕は足元から目を離さない。人間は学習をする生き物だから。

 慎重に石段を下り終え、最後の一段を飛び降りた僕が見たのは、想像していた通りの透き通る海と、視界の真ん中に立っている、膝まで海水に沈んだ女性の後ろ姿だった。

 そう、光り輝く水面を割りながら、静かに入水自殺をしようとしている女性がいた。


「……え、」


 決して呑気にしていられるような光景ではないと分かっていながらも、僕は数秒、視界を埋めるその一枚絵に見蕩れてしまっていた。なんなら今すぐここに腰を下ろして、まだ白紙のままのスケッチブックに、この景色を描き殴ろうかとも考えた。

 理性以前にそんなことを思い至ってしまうほど、彼女を誘うように引いていく波と、汚されることを厭わない純白のワンピース姿に、心を奪われてしまっていた。

 生温かい。

 自分の頬に伝う雫に気づいたことで、僕はやっと素に戻る。彼女はあんな場所で、何をしようとしている? 釘のように打ち付けられていた両足を必死に動かし、今にも消えてしまいそうな彼女の背中に向かって声をあげた。

 もしかしたら勘違いかもしれない、なんて冷静さは、このときの僕にはなかった。


「今から雨が降ります。自殺するには向いてないですよ」


 どうやら僕の声は波音に掻き消されずに届いたらしく、額縁の中の彼女は静かな動きでゆっくりと振り向く。まるでスローモーションみたいに、僕にはその挙動の一コマ一コマが鮮明に見えた。

 彼女の体が完全にこちらを向いたころ、必死に砂を蹴っていた足がもつれて、僕はそのまま無様に転んだ。顔面から砂に潜るような、傍から見ればこの上なく滑稽な転びようだった。


「……誰?」


 前方からの声に、慌てて砂まみれの顔を上げる。今更慌ててもしょうがないが。

 手傘をさしてこちらを向く彼女の瞳は、ガラスでできているみたいに輝いていた。そしてその半透明は、僕に逃げ場のない視線を向けている。


「あ、あの……」

「雨、降るの?」

「降ります! 絶対に、降ります」

「……そっか。なら、君の言う通りにしとこう」


 高校一年、夏休み初日の朝、僕は一人の女性の自殺を止めた。


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