聖書を思いつづる書

原氷

聖書を思う

 ただ過ごしています。

 釈尊を信じながら、彼が間違っていたとしても、彼を信じて地獄に落ちたとしても、いいのです。しかし、時折キリストを思うのも事実です。彼は真理だったのでしょうか。

 懺悔、告白、いくつもしてきました。部屋の隅で、何かを探していました。何を? 真理でしょう。

 神はいると思います。それは私の魂から流れ出てくる訴えであり、告白です。神から魂を分け与えられ、なるべく穢さないようにしています。

 私の霊性はひどく敏感です。時折詩人にもなります。心理学者は無意識と呼ぶでしょう。かまいません。私はほとんど無意識から意識へと立ち上っています。また、無意識に話しています。自由があるのか、ないのかわかりません。しかし、大いなる力が天地を支配しているのを感じます。

 仏教はとても理性的な哲学です。聖書は真理かもしれません。私は時折たじろぎます。西洋の哲学書を読んでいると、聖書の力を感じずにはいられません。シモーヌ・ヴェイユ、ポール・クローデル。彼らはとても敬虔的なクリスチャンです。非常に美しいテクストをフランス語で読みます。私が泥となり果てても、何かを汚すでしょう。

 神の前に立つことを目標としています。実を言うと神が来たことがあります。「面白い」と一言言って立ち去りました。サタンの誘惑にも負けませんでした。けれど、私は精神病も持ち合わせているため、本当に来たのか否か、神のみぞ、知る、です。

 哲学が時折、毒だと感じます。果たしてサルトルは正しかったのでしょうか? 私はなるべく善でありたいと願っています。神が死んだと誤解したこともあります。神は、消えていたのです。

 酒をやめました。なるべく純でありたいため、水を飲むようにしています。水は互いに争わないため、非常に貴重な飲み物です。しかし、細菌を含んでいない純な水を人間は飲むことが出来ません。きっと極上の飲み物とは、人間が飲めないものなのでしょう。

 ゆっくり、ゆっくり前進していきたいです。グレゴリオ聖歌を聞くと、魂の糸と波長が合います。とてもゆっくり歩いています。私には哲学的才能も、詩的才能もないもので、鍛錬を積むしかありません。才能がないために努力という精神論を押し付けます。魂が欲しているのです。これは霊性としか言えません。

 スウェーデン・ボルグの本も読んでみました。彼も彼なりに苦労したのでしょう。天使になりたいと幾度私は欲したか。神は天使を人間の上に創りました。これは書いてあります。

 神聖な国が生れたとしたら、それはとても知性的な国でしょう。聖者は時折愚者になります。それは彼が欲した「愚」なのです。女は賢いです。男は繊細です。陰陽のバランスが世界にあります。これは東洋の思想ですね。

 人間は細胞から生まれたと言えばそうでしょう。生物学ではそうです。しかし、精神を発見したフロイトは、やはり偉大でした。私たちは脳ではない。精神もあります。グリア細胞だけで片付けられる問題ではありません。

 私たちはどこから来たのか? こういった疑問は誰もが持ちます。生物学、物理学で人間の起源を探ろうとするのもいいです。しかし、私は直観的に魂を持っていると信じています。釈尊も魂を持っています。キリストも魂を持っています。彼らの魂も神から分け与えられたのだとしたら、彼らの言葉も重要ですし、万人の意見も重要です。何故なら、ユング的に言えば集合意識、すなわち神の魂から出たものだからです。きっと「死ね」という言葉がなかったらその言葉は存在しなかったでしょう。死ねという言葉は軽々しく扱うべきではありませ。いずれ、人間は死ぬのだから、憎悪は消し去るべきです。

 もし神の国というのがあったら、形而上学的ではありますが、犠牲者のいない世界でしょう。釈尊は悟りを開いて涅槃という世界を創り上げましたが、それも神の観念から出てきたとしたら、私は喜んで涅槃を選びます。釈尊の知恵と、神の知恵を比べるまでもありません。神の知恵の方が圧倒的に上です。それにもかかわらず、私は仏教を選びました。そこに信仰があるのでしょう。

 私たちの精神は大切にするべきです。私たちは、自我を持ち、唯一無二の存在なのだから。なるべく穢さずにいたいですが、私も悪をすることがあります。虫を殺すのだって、神から見たら、ひょっとすると悪なのかもしれないのだから。

 人生とは、愛と慈悲を持って生きていても、闘争がゆだねられる時があります。それは自分の生存にかかわることがある時です。だから聖書の中でキリストが「私は剣だ」と言ったのでしょう。人生とは闘争です。時折魂が肉体を引きずらねばならないときがあります。私はそう実感しています。殺せ、と言っているわけではありません。自分を守れと言っているのです。

 

 私にとって書くことは喜びです。それが時折愚かなことだと認識していても、哲学せずにはいられません。書くこと、話すこと、これが重要だと思うのです。あなたの意見を訴えてください。社会に参加して訴えてください。ただ、誰もが間違えるものだとあらかじめ知っておくのがいいでしょう。悪を犯した人間を叩く人間は、叩かれた思いがあるのでしょう。

 間違えた人間を、謝った人間を、私はそっと微笑して見守る人間でありたいと願っています。誰しもが、神の子ですから。そこに友愛があります。私はそう信じております。


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