【制作開始①】

 恋は盲目、とはよく言ったもので。

 水瀬に対する好意を自覚した土曜の夜以降、記憶が断片的になっている。端的に言って、公園を出てから自宅に帰りつくまでの記憶が殆どない。

 そもそも昨日の記憶ですら、写真を現像にまわして夕方受け取りに行ったこと以外定かじゃない。いったい僕は、何をして一日を過ごしていたのか。

 四六時中水瀬のことしか考えられなくなって、何事にも興味感心がわかず、ずっと心が落ち着かない。

 これが恋に落ちるということなら、なんだか厄介だな、と僕は思うけれど、存外に心地良かったりするのだから始末が悪い。まるで恋する乙女のようだ。


 そんな事を考えながら、教室の机の上に先週末撮ってきた夜の丘の写真を並べぼんやりしていると、傍らにやってきた稔が声を掛けてきた。


「ほう。なかなかいい写真が撮れてるじゃないか。充実した夜になったか?」


 意味深な顔で口元を歪める稔。彼にしちゃ珍しい表情だな、と思いながら、「おう」と相槌をうつ。「充実した夜ってなんだよ。そんなことある訳ないだろ」


「ふうん」

「なんだよ」

「そのわりに、心ここにあらずって感じだな」

「寝不足なんだよ」


 投げやりに、返答しておく。痛くもない──いや、おっぱいに触ってるんだから十分に疚しいが──腹を探られるのが嫌だった。


「へえ」と今度は稔。微妙な顔をした。


 授業が終わり放課後。僕たち五人は美術室に集まると、早速、クラスアートの制作作業に入る。

 学校祭当日まで残された準備期間は、一ヶ月と二週間。この間は、部活動より学校祭の準備を優先して良い、というのが学校内に存在している暗黙のルール。きついバドミントン部の練習を休む口実に使えるのだから、まんざらでもない気分だった。

 クラスアートを描くためのキャンバスとして与えられるのは、一メートル五十センチ四方のベニヤ合板。その上に、さらりとした非常に丈夫な繊維である、亜麻リネンが貼られている。力自慢の徹と、消去法的に僕が、二人がかりで美術室へと運び入れた。腕組みをし監督をしているだけの稔に、「お前も手伝えよ」と徹がしきりに悪態をついていたが、僕だって、まあ同意見。

 合板を運ぶ道すがらに他クラスの様子を窺うと、机を寄せてスペースを作り合板を床に置いているクラス。また、壁に立てかけて作業に入っているクラスと様々だった。二人も在籍している美術部員のおかげで、誰にも咎められずに美術室を使える僕たちの、なんと恵まれていることか。画材もある程度揃っているのだから、作業が進めやすいことこの上ない。

 買い揃えた筆や絵の具は、木下が一括して管理していた。一応補足しておくと、水彩絵の具を使うクラスも当然多い。むしろ僕らのように、油絵を選択する方が少数派だろうか。


 美術室に入り合板を壁に立てた後、僕は、撮影してきた写真と水瀬が描いたスケッチを、順番に机の上に並べていった。


「この中から、描く題材として適切だと思うものを、三枚まで選んでくれ」


 稔の声に、全員がんー……と唸り声を上げる。写真とスケッチに視線を走らせたのち、各々が良いと思うものを指し示していった。

 入った票数順に、稔が並び替えていく。最終的に最多票を獲得したのは、僕が撮影した二枚の写真となった。ふむ、と暫く思案したのち、「これを構図として使いたいんだが、どうだろう?」と稔がみんなの顔を見渡し意見した。


 それは、右側に匂蕃茉莉の花が埋め尽くすように写りこみ、中央から左側のスペースに丘の景観と星空が入った構図の写真。僕が撮影してきた中で、最も気に入っていた一枚だ。


「いいんじゃない」

 と徹と木下の声が揃う。

「珍しくお前と意見があったよ」と僕が皮肉めいた口調で言うと、「これまでも、翔と意見をあわせてきたつもりなんだがな」と稔は更なる皮肉で上書きしてきた。


 満場一致で題材となる一枚が決まると、僕はその写真を職員室に持っていって目一杯拡大コピーしてもらった。

 急いで美術室まで舞い戻ると、キャンバスの両脇に立ち準備万端待ち受けていたのは、稔と木下だった。


「本当にお前が描くのか?」

 僕から写真のコピーを受け取るなり、稔が木下に問い掛ける。

「少なくとも、早坂や徹よりは役に立つと思うわよ?」

「ふん、減らず口じゃなければいいけどな」


 何時ものように皮肉を述べた稔だったが、木下の手が動き始めたとたんに息を呑んだ。


「待て待て待て!」

「ん、何よ?」

「お前、なんなんだ、それは?」


 彼が驚くのも無理はない。はっきり言って、木下の鉛筆が踊った後に描かれた線は、到底素人が描くそれじゃない。少々線が硬い、という印象もあるにはあるが、構図が整い過ぎている。


「言ってなかったもんね」と木下がどんどん線を描き足しながら言う。「私、趣味でイラスト描いてんの。一応、将来は漫画家志望」


 漫画家志望、という言葉で色々腑に落ちた。

 だから木下は水瀬が立候補したとき、迷いなく挙手をしたのか。普段のイメージとかけ離れ過ぎていて意外だったが、貴重な戦力になるのは間違いない。

 記念すべき一筆目を木下に奪われた稔も、気を取り直したように鉛筆を走らせ始める。時折、僕が持ってきた写真のコピーに視線を落として構図を確認しながら、二人の鉛筆がリズムよく踊った。キャンバスの左右端から、輪郭線がどんどん描き出されていく。


「そんなに強く線を描いて、大丈夫なのか?」

 思わず心配になった僕が声を漏らすと、

「どうせ上から色を載せちゃうんだから、なんの問題もないわよ」

 と木下が振り向き即答した。歯を見せているのだから、どうやら機嫌は良さそうだ。


 稔と木下は、数分置きにキャンバスを離れると、引きの視点から構図を確認する。そしてまたキャンバスに向かい、どんどん作業を進めていく。


「木下も絵、うめーな」


 徹の呟きに、彼と同様手持ち無沙汰組の僕は、ただ無言で頷いた。

 お世辞なんかじゃない。彼女の技術は、稔と比較しても負けず劣らずだと思う。

 その間に水瀬は、下絵が描かれていくキャンバスと写真のコピーとを真剣な眼差しで比較しつつ、絵の具を調色して塗りやすい固さになるよう、溶き油を混ぜていた。

 溶き油とは、絵の具を描き易い硬さにするために混ぜるものである。溶き油には揮発性きはつせい油 (テレピン、ペトロールなど)と乾性かんせい油 (リンシード、ポピーなど)の二種類がある。

 稔いわく、作業の進捗状況に応じて二種の油の混合比を変えるらしいが、僕には正直サッパリだ。油絵の具の準備に関しては、全て稔と水瀬に任されていた。

 さて、キャンバスの左右端から大まかな輪郭線ができあがってくると、稔と木下は中央付近の下絵に移り、代わりに水瀬が左端から作業に入った。

 薄く溶いた絵の具で、全体を大まかに塗っていく。所々明暗を付けるような感じで色を重ね塗りしていくと、風景が浮き上がってくる──は流石に大袈裟かもしれないが、確実に絵にリアリティがでてきた。

 水瀬のあまりの筆の速さにポカンと口を開いていた徹だったが、我に返ったように彼女の傍らに寄ると、油壺の場所移動や筆の交換をサポートし始めた。

 取りあえず僕も、水瀬が交換した筆が固まらないよう、洗浄の手伝いを始めた。とはいえ、他にやる事がみつからないし無力感が半端ない。


 そうこうしているうちに数時間が過ぎ去った。初日の作業が終わった時点で、全体的に薄く色が塗られた状態まで完成した。


「まあ、順調なんじゃない?」と僕が呟くと、「大変なのは、ここからだから……」と薄っすら額に汗を滲ませた水瀬が言う。


 通った鼻筋。綺麗な横顔の輪郭線。でも──。

 頬にちょっとだけ絵の具が付いている。ドキドキしながらそっと手を伸ばして拭ってあげると、「あ、ごめん」と言って水瀬は恥ずかしそうに顔を俯かせた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る