マトリックス・メモリー

瑠璃光院 秀和

前編 東オリオン夜曲

 

 前編:東オリオン夜曲



 第1章 モリヤの笛


 現在、私が彼または竜胆(リンドウ)と呼んでいる「それ」が、私の眼の前に初めて現れた時、「それ」は、どう見ても「それ」としか呼びようがない代物だった。

 私は、6年前に短大を卒業してから、そこそこ中堅の化粧品メーカーに就職したが、スタイルもルックスも中の中、性格も控えめと云うより暗いに近い私は、1年も経たないうちに営業から事務の方に回された。

 回された先の職場は、「オフィス事務センター」と云って、大臣だか奉行だか殿様だか知らないが、そんな名前のパッケージソフトに明けても暮れても伝票を打ち込む、ただそれだけのお気軽だが退屈な職場だった。

 「入力オペレーター」と言えば聞こえは良いが、単なる「打ち込み屋」に過ぎない。

 入力以外の事務は「総務課」や「経理課」、「人事労務課」だのとちゃんとした名称の部署があって、「オフィス事務センター」の社員は、社員と言うよりアウトソーシングされた部署に派遣された他社のスタッフに近い存在だった。

 所属するメンバーだって、社会常識的には「廃人」と呼ぶ方が相応しい無口なセンター長と女性社員が4名居るだけという、まさに「ショムニ」の世界が広がっていた。

 「ショムニ」と違うのは、裏で派手に活躍したり、役員から愛人のお誘いが有ったりしないだけで、「会社のハキダメ」という意味ではこちらの方が、むしろ正統な「ショムニ」に違いなかった。

 私が、更に気に入らないのは、この前の組織改正で「事務センター」の前に「オフィス」という名称が付いた事だ。

 会社の上の奴って一体何を考えているのだろう?

 事務機器のIT化に伴う「組織改正の一環」らしいが、何か仕事のやり方が変わったと云うのならまだしも、何ひとつ変わっていないのに、ある日突然、私の職場の名称が変わった。

 「事務センター」と「オフィス事務センター」の違いを、ちゃんと説明出来る奴が居たら、お目にかかりたいものだ。

 最近では「人事労務課」の方に、人材派遣会社が盛んに「売込み」に来ていて、会社も色々と検討したみたいだけど、結局、私たちを職場転換させる先がない為に、今の所見合わせているらしい。

 それと、うちの会社にも一応「組合」というものが有って「組合」が、これもまた一応反対はしてくれて居るらしい。

 当然よね、これまでバカ高い「組合費」を6年間も払い続けて来たんだから。

 少しは私達の役に立って貰わないと。


 それでもこれからは、会社から何かと「嫌がらせ」が有ると云う噂もあって、私達を早く会社を辞めさせたい本音は変わっていないようだ。

 「私達が辞めたら、もっと賃金が安い上に愛想まで良い、もしかしたらセクハラしても黙っていて呉れるかも知れない派遣社員に切り換えられるものね。」

 セクハラは兎も角として、私が経営者だったとしても、やはりそちらの道を選びそうだから、それは或る意味で仕方が無かったのだが。

 若しそう成ったら、この会社とはさっさと「おさらば」して、別の働き口を探そうかとも思う。

 しかし、それはそれでかなり面倒臭い気もしていた。

 その日も、そんなお定まりの愚痴をこぼしながら帰路に着こうとした、只の平凡な一日だった。

 八木沢から私の携帯に1通のメールが入るまでは。


 ところで、私の職場にも、たった一つだけ良いことが有って、それは会社の終業時刻から1分と違わず「お疲れ様」と云える事だ。

 残業は1年を通じて、期末と年度末の頃に一寸有るだけだから、うちのセンターの女性社員は皆、「習い事」とか「合コン」だとかに血道を上げている。

 私は、元々、面倒臭さがり屋のうえに、「合コン」で誰かのダシにされるのが我慢出来ない性格なので、ほとんどアフターファイブで同僚に付き合うことは無かった。

 そう云う意味では、私の職場はやたらと「飲み会好き」の上司がいる訳でも無く、日頃から愚痴っている割には、働き易い自由な職場と云えるのかも知れない。

 人はきっと、自分が抱えている「不幸」より大きな「不幸」を想像する事が出来無いんだわ。


 「由佳、面倒な事が起こった。至急、オレのマンションに来てくれ。」

 八木沢からのメールは、いつものように愛想がない文章だったが、「面倒が起こった」と云う事実を、先に私に伝えた事がいつもと違っていた。

 八木沢は3年程前に、或る場所で知り合った「元カレ」で、「元カレ」と云っても、私に恋愛経験が全く無かった為に、何回か情を交わしただけで柄にもなく「彼氏が出来た」と大騒ぎをして、実際、その気に成った男だ。

 だが、八木沢にとって私は只の遊び相手にも満たない存在だった様で、私の身体への執着は無いに等しく、女としてはあっさり捨てられて、「元カレ」は私の自己満足を少し保つだけの悲しい称号に成った。

 只、八木沢はそんな薄情な男だったが、私とは妙にウマが合うと云うか、淋しがり屋の癖に孤独を好む所が似ているとお互いに感じていて、私は八木沢から捨てられてからも、面倒見の良い姉のような役割を果たしていた。

 その話をすれば、会社のOL共から、バカのお人好しだのと「物笑いの種」にされることが分かっていたので、私は誰にもこの話はしていない。

 だが、実際は、そう云う悲しいというより阿呆らしいと呼ぶべき結末で、八木沢との「恋愛関係」は終了していたのだった。


 「ねえ、菊池先輩、今夜さあ、これからなんだけど空いてない?」

 更衣室で私服に着替えていると、「総務課」の瀬戸山美樹がそう訊いてきた。

 美樹というのは、私より3年後輩の女子社員で、自分の脳みその95%を、男の事を考える為だけに使っている様な女だった。

 だから、私はこの女だけは「オフィス事務センター」に来て欲しく無いと思っている。

 独特の鼻にかかった甘え声が、私の癇に障ってしまうからだ。

 だが、残念ながら、周囲の人々は彼女が「ショムニ」へ異動に成るのは時間の問題だと思っている様だ。

 「最近さ、うちと取り引きを始めた日本物産の、ほら知ってるでしょう? 営業の山崎君、彼ってあたしのツボなのよね。」

 「ホントよね、山崎LOVEって感じよね~!それとさ、彼の先輩の柳沢さんも渋くない?」

 話に割って入ってきたのは、高卒だが私と同期に入社した「経理課」の塚本みどりだ。

 この女は美樹に比べるとまだマシな方で、多分70%位しか、男の事で脳みそを使っていないタイプだ。

 「うんうん、渋い渋い。柳沢さんって男の色気みないなものが有るのよね、もうどうにでもしてって感じ。彼、今日の合コンに来るのかな?」 

 「う~ん、それはビミョウかな。だって彼さあ、社内の昇格試験が有るって言ってたじゃない?」

 「あっ、そうかあ。でも今日みたいに合コンが急に決まると、誰を狙おうかって考えて、かえって興奮するね。」

 美樹は、人目も憚らずに熱心に厚化粧を始めた。

 ところで、うちの会社は中堅ながらも一応「化粧品メーカー」なのだが、彼女達は社員価格で安く手に入るにも関わらず自社製品は決して使わない。

 私は面倒臭くて化粧をしない女だから分からないが、彼女達に愛社精神が皆無なのは当然としても、やはりそれだけ、うちの化粧品は品質が落ちると云う訳か。

 営業が溜息をつきながら嘆く筈だ!

 「そうね でも戸川っちは絶対来るわね」

 みどりが楽しそうな声を上げた。

 「戸川っち来るの?嬉しい!彼って超スウィートよね!若しかしてあたしの好みかも~」

 「ふん 男は全部好みの癖に」と云いそうになったが、大人の私は、

 「一寸、貴女達、折角だけど、私は今日は忙しいの。合コンのお誘いなら、また別の日にして頂戴。」

 そう落ち着いた口調で、私はお局のように断定的に言った。

 「えっ 先輩行かないの? だって今日みたいに急に決まった時しか、先輩なんかにお誘いは無いのに。」

 「美樹!」

 流石に「脳みその70%が男の事で占領されてるだけ」のみどりは、残された30%の脳みそを使って、美樹を嗜めた。

 「ごめんね。今日は家で飼ってるサンショウウオが産卵する日なの。だから、これから帰って観察日記を付けなきゃ駄目なの。」

 「ええ~?うっそー!信じらんない!人間の男より両生類の方が良いなんて!」

 美樹は素っ頓狂な声を上げたが、

 「馬鹿ね。繁殖させて高く売り飛ばすに決まってるじゃない!」

 と訳知り顔のみどりに云われて、

 「そっかあ、先輩ってあったまイイ~!」 

 と納得した。

 私は「お先に」と云って、更衣室のドアを開けた時、

 「嘘に決まってるでしょ!アホ共が。」

 と二人を罵りたく成ったが、美樹が両生類という言葉を知っていた事の方に私は驚いていた。

 だが、きっと明日から、サンショウウオの繁殖のさせ方や売り捌き方について、しつこく二人から質問攻めに遭うことが予想された為に、「もう少しマシな嘘をつけば良かった」と後悔しながらバタンと強く更衣室のドアを閉めた。


 八木沢のマンションに着いた頃には、辺りはもうすっかり真っ暗になっていた。

 「おう、由佳か?こっちだ、こっち!あっ、靴履いたままで上がって来てくれ!危ないから。」

 「えっ?靴履いたままで良いの?」 

 「おう、まあこっちに来いよ!そしてこれ、一寸見てくれよ!」  

 「あっ!」

 普段から冷静沈着で、多少のことには動じない私も、この時ばかりは驚きの声を上げてしまった。

 八木沢の、寝る事以外の用事は全てここで済ます20畳ほどの広さの居間が、粉々に砕け散ったグラスや引きちぎられた本類等で、足の踏み場がない状態になっていた。

 「何なの これ?」

 「俺にも、何が何だか、さっぱり分からんのだ。」

 八木沢が腕組みをした。

 「空き巣?でも八木ちんの部屋に空き巣に入ったって、金目の物とか何にも無いしねえ。」

 「あのなあ。」

 私は、八木沢と親しく成ってからは、ずっと八木沢の事を八木ちんと呼んでいた。

 そして私は八木沢に捨てられてからは、一緒にお酒を飲みに行くと、決まって、

 「こら~ 八木、てめぇ、よくも私を捨てやがったな!お詫びにここでメェとお鳴き!」と命令するのだ。

 「お前、絶対、女王様入ってるよな」

 そうボヤきながらも、せめても罪滅ぼしという殊勝な気持ちが残っているとはとても思えないが、八木沢はおどけながらもメェと鳴くのだった。


 「あっ、分かった!下調べもしなかったドジな空き巣が、金目の物が無かったんで、ブチキレたんだ!」

 「お前ねえ。」

 久し振りに、八木沢が怒った顔と呆れた顔が入り混じった表情を私に見せたので、八木沢を愛していた昔を思い出して、私は少し胸が苦しくなった。

 「よく見ろよ!ブチキレた空き巣が、こんなに正確に右から左へ螺旋状に物を破壊するか?」

 「そう?」

 八木沢の言葉で、私は部屋全体をもう一度眺めてみて、八木沢が言うとおり、破片物が荒々しいが確かに規則的に散乱している事に気が付いた。

 「まるで、部屋の中で竜巻でも発生したみたい。」

 「だろ?」

 確かに、ただの空き巣が、ここまで几帳面にブチキレるとは考え難かった。

  「先刻、帰った警察の鑑識官のオッさんも、お前と同じことを言ってたよ。あっ由佳、それ 触っちゃ駄目!」

 散乱している本類を片付けようとした私を、八木沢の野太い声が遮った。

 「不審な点が多過ぎるだろ?だから今後の事も有って、明日また警察が現場検証をするんだってさ」 

 「何だ、私に後片付けをさせるために呼んだんじゃなかったんだ!」

 「うん、今日のところはな。そのうち後片付けをお願いするとは思うけど。ところで、」

 八木沢はそう云ってから、また怒った顔と呆れた顔が入り混じった表情に成った。

 私は、八木沢のこの表情に極端に弱かった。

 生まれつきと言っても良い位、弱くて、八木沢に捨てられてからも、姉のような役割を演じているのは、本当は、この表情を見たいだけなのかも知れなかった。

 自分でもつくづく情けないと思うのだが、これだけは如何ともし難くて、また八木沢が話の文脈に関係なく急にその表情をする為に、ふいを突かれて世話を焼いてしまう事に成るのだ。

 これって美樹が良く言う「ツボ」って事なのかな?

 「ところで?」

 私は八木沢に訊き返した。


 「実は、お前に、一寸訊きたい事が有ってな。」

 八木沢がそう切り出した時には、私はどうしても今夜、八木沢をメェと鳴かせたい欲望にかられていた。

 「あっそうだ!八木ちんはもう食事は済んじゃったの?それに明日もまた現場検証が有るんじゃ、今晩はどうすんのよ?」

 「ああ、飯は少し食ったけどな。でも警察からは、今夜はホテルにでも泊まって呉れって言われてるんだ」

 八木沢の言葉に、自分でも悲しいくらい顔を赤らめた私は、

 「八木ちん、やだよー!今更、私とよりを戻そうなんて!もう別れちゃったんだからね、私たち。お相手をして欲しいんだったら、ちゃんとお手当を払ってよね!」

 「ばーか!」

 私の言葉に八木沢はマッハで反応した。

 ジョークは半分だけなんだから、何もそこまで素早く反応しなくても。

 「由佳にもアストラルに一寸付き合って欲しいんだ。」

 アストラルと云う店の名前が出た事で、私は急に機嫌が良くなった。

 アストラルは私のワンルームから、ほど近いところにあるレストランバーだった。

 私が初めて、八木沢にメェと鳴けと命令した日、八木沢は、

 「分かったよ。お前には色々と世話に成っているしな。だが、俺がメェと鳴く店は一軒だけだ。そしてその店は俺が決める!」

 その店がアストラルだった。

 私は、アストラルに行く度に、八木沢に山羊の鳴き真似を強要し、そして泥人形になるくらい酔って、八木沢に介抱されながら家に帰るのが常だった。

 そして、私は決まって酔っ払っている事を口実に、本音をわめき散らかして、深夜に八木沢とアストラルのマスターに諭され慰められるのだ。

 二人は覚悟の上とは云え、その時だけは、実に優しく私を慰めて呉れて、そして私もその時だけ幸福な気分に成る。

 多分、本当は八木沢の事も、職場と同じように口では愚痴をこぼしても、私はきっと、捨てられた今でもそんなに嫌っていないのだと思う。

 「由佳、今日は山羊は無しだ!マジでお前に詳しい話を訊きたいんだ!」

 携帯でタクシーを呼びながら、八木沢が私に見せた真剣な表情に、私はこの表情も悪くないかもと内心思った。

 そしてそう思いながら、結局の所、男に関して私も美樹やみどりたちと余り変りが無いかも知れないとも考えた。

 「はい、分かりました。」

 と私が、まるで素直な女のように答えた為に、八木沢は一瞬眼を丸くしてから、ブルッと身を震わせた。


 今夜のアストラルは珍しく客が一杯で、入店するまでに初めて15分程待たされた。

 いつもはもっと遅い時間にバーとして利用するから、早い時間に客が多い事を初めて知った。

 アストラルはレストランバーで料理も美味しいから、考えて見ればそれも当然だった。

 そう言えば、この店でレストランとしてゆっくり八木沢と食事を摂るのも初めてで、今夜は初めて尽くしの夜だった。

 「あのさ、由佳、アレの事なんだけど。」

 八木沢は生ビールで乾杯すると、待ちきれないと言った表情で私に訊ねた。

 「アレって何よ?」

 「アレだよ、アレ。アレの名前何だったっけ?ほら変てこな笛みたいな。お前が俺に呉れただろ?」

 「ああ、モリヤの笛?」

 「そうそう、アレ、モリヤの笛って言ってたよな!」

 八木沢は妙に納得して、やがて神妙な顔付きになった。

 「モリヤの笛」と言うのは、私が小学生の頃、当時住んでいた群馬の山村で拾った、八木沢が言う通り、乳白色の不思議な物体の事だった。

 「モリヤの笛」は流線型をしていて、最初見た時はてっきり石だと思ったのだが、良く見ると金属のようでも有るし、半透明な部分も有るので「強化プラスティック」なのかも知れなかった。

 中央部には巻貝の貝殻にも似た深い窪みがあり、ほら貝のようにして吹くと結構良い音がしたので、私はそれを笛だと鑑定した。

 従って、本当は笛かどうかも疑わしい代物だったのだが、私はその笛に「モリヤの笛」と勝手に名前を付けた。

 その笛を拾った場所が、森と森に「守られた谷」のような場所で有った事と、その近くに「守谷さん」と言う名前のお爺さんが住んでいた事がその名前の由来だった。

 私は、この笛の事が大いに気に入り、家に持ち帰ってずっと大切に保管してきたのだが、私のワンルームに八木沢が泊まりにきた時、どうしても欲しいと言うので八木沢にあげたものだった。            

 「だから、あの笛がどうしたって言うのよ?」

 八木沢は、普段から何でも単刀直入な話し方をするので、それが別れ話の時には、とても薄情な印象を与えてしまうタイプだった。

 ところが、今日の八木沢は、会った時から奥歯に物が挟まったような話し方が多く、こんなに私の方が焦れて聞き返すことは稀だった。

 「ああ、実はな・・・」


 「やあ、いらっしゃい!」

 八木沢が話し始めようとした時、アストラルのマスターが私たちのテーブルに挨拶に来た。

 私はマスターにぴょこんとお辞儀をした。

 私はマスターが好きだ。

 と言うより彼を嫌う人は余りいないと思う。

 こんなに誰にでも優しくて、包容力があって、そして癒される人物を私は他に知らない。

 だから、私は、深夜にカウンターで飲む時は、八木沢にはつんつんと悪態の限りをついて、マスターにはでれでれと甘えまくる。

 普通、男だったら、そして八木沢の立場だったら、少しくらいヤキモチを焼きそうなものだが、八木沢は微塵もヤキモチを焼かない性格だった。

 八木沢が、余りにも完璧にヤキモチを焼かないものだから、私は段々と、女を否定されているような気分になって、更に過激に「つんつんとでれでれ」を演じてしまう。

 私は典型的なツンデレ女なのだ。

 何かの本に、ツンデレキャラにオタクは萌えると書いて有ったけど、残念ながら八木沢はオタクでは無いので、私に対しては全く萌えない。

 そして、私はヤキモチを焼かない八木沢に対する腹立たしさが限界に来た時、八木沢に対して山羊の鳴き真似をする事を命じるのだった。

 八木沢のメェと鳴く低い声を聞くと、まるで催眠術のトリガーを引いてしまったかのように、私はいつも酔い潰れる道を突き進む。

 この頃に成ると、私はもう、悪態を吐く事も甘える事もしなくなり、ただの良い聞き手に成っている。

 その状態に成ると、私には、八木沢の声は甘く諭されているように聞こえ、マスターの声は優しく慰められているように聞こえる。

 そして、その時が、私にとって最も至福を感じる時間でもあった。

 一次元の、単なる「点」に過ぎなかった私が、八木沢から影を、マスターから光を与えられ、一気に三次元の立体にまで昇華していく気分に成るのだ。

 その事を思い出して、改めてうっとりとしているとマスターは、

 「今日は、珍しく二人して早いお着きだね」

と爽やかな顔で笑った。

 マスターはそう言ってから、八木沢が妙に真剣な表情をしているので、

 「アレ?八木沢さん、今日はやけに静かだね。由佳ちゃんと何か有った?」

と努めて明るい口調で尋ねたが、八木沢から何の反応が得れずに、私の方を見ながら首をすくめてから

 「まあ、ゆっくりしていってね。後でまた来るから」

そう言い残して厨房の方に戻って行った。

 「ねえ、八木ちん、大丈夫?お部屋が荒されてショックなのは分かるけど、何も盗まれなかったんでしょう?」

 「いや、それが盗まれたんだ。」

 「何を?」

 「モリヤの笛!」

 えっ?と叫んでから、私は暫くして笑い出した。

 「まさか! 幾ら八木ちんの部屋に金目の物がないと言ったって、あんな変てこな物をわざわざ盗むなんて。」     

 「う~ん・・・」

 とまた八木沢は考え込み始めた。

 「あの笛、もしかしたら凄いお宝だったりして!」

 そう言って一緒に笑おうとしたが、八木沢が無反応だった為に、私は独りでアハッと小さく呟く様に笑った。

 「八木ちんさあ、あれがもし凄いお宝だったとしても私は全然平気だし、八木ちんにあげちゃった物だから、八木ちんが自由に処分して良いんだからね。」

 「そうじゃなくて!」

 八木沢は、珍しく語気を荒げた。

 一体どうしたのかしら?私がそう心配してしまうくらい、今日の八木沢は明らかにいつもと雰囲気が違っていた。


 ところで、八木沢が「モリヤの笛」を欲しいと言い出したのには訳があった。

 八木沢は大学時代に「空間デザイン」を学び、空間デザイナーとして小さな事務所を構えたが、全くと言って良い程、客が着かなかった為に、不本意だったとは思うが「雇われのインテリアデザイナー」に成った。

 そして、それもうまくいかず、今はデザイナーというよりデザイン関連の自営代理店のような仕事をしていた。

 或る日、未だ、私達が恋人関係に有った筈の頃、八木沢に大きな仕事が入ったようで、八木沢がそこのインテリアに「モリヤの笛」を使いたいと言い出したのだ。

 八木沢に惚れていた私は、ふたつ返事で八木沢に「モリヤの笛」を手渡した。

 ところが、クライアントがその笛を気に入らなかったらしく、「モリヤの笛」は八木沢の部屋を飾るインテリアのひとつに成ってしまっていた。

 そして、私たちが別れる時、八木沢は私に笛を返すと言ったが、私は八木沢に一度あげたものだから受け取らないと言い張って、結局、「モリヤの笛」は八木沢の部屋にそのまま置かれる事に成った。

 「警察だってこんな話、絶対信じる訳が無いから、先刻は由佳にも盗まれたと言ってしまったが、本当はモリヤの笛は盗まれたんじゃなくて、消えたんだ!」

 「消えた?」  

 「そう、消えたんだ。俺の眼の前で!おまけに消えながら竜巻に成りやがった!」


 私は自分の耳を疑うより、八木沢の精神面を心配した。

 笛が消えた事だけでも凄いのに、それが竜巻に成っただなんて。

 八木沢はこの種のジョークを徹底して嫌うリアリストだったので、ここまで言うからには、彼の眼には実際にそれが見えた筈だった。

 だから、私は余計に八木沢のメンタル面を心配した。

 と言うより、私は八木沢の頭が一時的にイカれてしまったと直感した。

 「由佳、お前知ってたんだろ?」

 「知ってたって、何を?」

 「とぼけるなよ!あの笛、消える前から時々色が変わったり、変な音が聞こえたりしてたんだ。」  

 「嘘?」

 「てっきり俺の気のせいだと思っていたんだが、今日みたいに眼の前でやられちゃなあ。」

 「本当に消えたんだ?」

 「ああ、あの笛、ゆっくりと消えて行ったからな。そしてその途中から竜巻になった。」

 八木沢はごくりと唾を飲み込んだ。

 私も八木沢につられる様に、両眼をぱちくりとさせた。

 「だけど、俺自身はその激しい竜巻を感じることが出来なかったんだ。風は全く吹いて無かった筈だ!」

 そう言ってから、八木沢はじろりと私を見据えた。

 「やがて、竜巻はゆっくり俺の部屋に有った本とかをバラバラにし始めた。俺が震えながら警察に連絡した時まで竜巻は続いていたんだ。お前、スローモーションの激しい竜巻って聞いた事が有る?」

 私もそんな話を聞くのは、当然、初めてだった。

 「八木ちん、あんた仕事とかで疲れてんだよ!」

 ここで初めて八木沢はふっと笑った。

 「明日、私と一緒に心療クリニックに行こう。」 

 八木沢は、お前はやはり何も知らなかったんだなと呟いて、また黙りこくった。

 それから私は、今日は朝から熱がなかったか?とか、変な薬を飲まなかったか?とか、八木沢に色々と質問した。

 八木沢はそれに何も答えなかったが、

 「じゃあ、由佳、一体誰が、俺の部屋をあんなに無茶苦茶にしたと言うんだ?」

 と言って、私を見つめた。

 「それは・・・」

 八木ちん、それはあんた自身以外に考えられないよと言おうとして、私は慌てて言葉を呑み込んだ、

 「あーあ、警察なんかに連絡しなきゃ良かったな。しくじったよ。警察は半分以上、俺の狂言だと思ってるみたいだし」

 「やっぱり?」

 と合鎚を打ってしまってから、私はアッと思ったが既に遅かった。

 「あのなあ、お前から変な物を貰ったばっかりに、俺がこんな目に遭っているんだから、もう少し真面目に考えて呉れよな」

 八木沢はムッとした表情でそう言ったが、私の次の言葉を待っているようにも思えた。

 「八木ちん、私はちゃんと真面目に考えてるよ。だから心配なの。明日、一緒に病院に行こうね」 

 「もういいよ!さあ、カウンターで飲み直そうぜ」

 そう言って八木沢は、料理を食べるのもそこそこにテーブル席を立ちかけたが、何かを思い付いた様にまた座り直した。

 「由佳、今度もし俺の部屋にモリヤの笛が現れたら、直ぐにお前に返すからな!」

 「うん、良いよ。だけど八木ちん、今日の事はマスターには云わない方が良いと思うよ。変な心配をかけてしまいそうだから。」  

 八木沢は私に何かを言おうとしたが、結局、肩を竦めて「そうだな、分かった」と小さく呟いた。

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