彼氏がハリネズミになってしまった。
もちもちおさる
1/1
彼氏がハリネズミになってしまった。今朝、ヘアーワックスで髪を逆立てて遊んでいたから、たぶんそれだと思う。何かのアニメキャラの真似をしていて、私はよく知らないけど、全く似てないことだけはわかった。朝ごはん冷蔵庫にあるからね、とか、洗濯物取り込んどいて、とか、パチンコ行くなよ、とか。じゃ競馬行くかー、と返ってきたあたりで私は出かけた。夕方、6時過ぎだったかな、私がバイトから帰ったら、小さなハリネズミだけが玄関にいた。
人間、本当に驚いたときって声が出ないんだなと知った。動物は嫌いじゃないよ、むしろ好きな方だけど、さすがにビックリしちゃうじゃん。ドアを閉めたり靴を脱いだり鞄を置いたり、いつも当たり前に順番が決まっていて呼吸同然にできてることが、そのハリネズミのせいで全てばらばらになってしまって、土足のまま踏み出して変な声をあげてしまったり、ドアを閉めてからしばらく振り向けなかったりするのだ。彼氏の名前を呼ぶ。どこで拾ってきたの、とあいつを呼ぶ。あんた動物嫌いでしょ、と呼ぶ。いつも、返事なんて返ってこないのに。
彼氏がハリネズミになってしまった。だって、呼んだら返事をした。それからそいつは駆け寄ってきて、早口で喋りだした。でも、声が小さくてよく聞こえない。なんだか、ハリネズミの喉が人間の言葉に合ってないみたいで「日本語っぽいハリネズミの鳴き声」にしか聞こえなかった。だから、もしアリが日本語を喋れたとしても、声が小さいから人間には何も聞こえなくて、アリは結局アリとしか見られないんだろうなと悟った。まだよかった方だと思う。ハリネズミで。人だろうが動物だろうが、あんたと私が本当にわかりあえることなんてないのに。
スマホを取り出して「ハリネズミ エサ」でググってみると、専用フードがあるらしく、とりあえずこれを与えて彼氏を死なせないようにしなければならない、と思った。ソファーまで連れていきクッションの上に乗せてやると、彼氏はピーピーと鳴いた。迷子になった小鳥みたいな声だ。これはちょっとかわいいかもしれない。でも、さらに調べると昆虫やミルワームも与える必要があるとわかった。その画像を見て、うわマジ無理、と声に出すと彼氏は鳴き止んだ。
子どもがかわいい、というのは他人の子どもだからかわいいのだ。命と責任を生涯背負う覚悟ができていないから。嫌なことからは目を背けていたいから。でもそれがわかっているだけ、賢明なんじゃないかと思う。彼氏がハリネズミになってしまった。誰も望んでいないのに。でも、もしかしたらあんたが望んだのかもしれない。私も望んだのかもしれない。目を背け続けたから、きっと。たぶんこれは、天罰とかいうやつじゃなかろうか。ほら、お話でよくあるでしょ、悪いことをした人間が、最後は虫とかカエルに変えられちゃうやつ。きっとそれだ。因果応報とか自業自得とかだ。でも、そんな勝手なことされてもな。私の知らない誰かが、私のことを勝手に理解した気になって、気持ちよくなるためだけにこうしたのなら、と想像すると腹の奥がむかついてしょうがない。もしかして、私への天罰なんだろうか。
ハリネズミのジレンマ。誰かが言っていた。互いを温め合うためには痛みが必要なんだ、って。だったら私もハリネズミになるべきなのに。たぶん、こういうことでしょ。
何かのドッキリだと思いたかったけど、一向にカメラも彼氏も見つからないし、嫌な汗が背中にじわじわと滲んできた。ハリネズミはおなかがすいたんですけど、という顔をしている。私の頭のどこかで、何かがグラグラと煮えている。だって、朝はあんなに元気そうだったじゃん。そういうことじゃないの。なんで、今、どうして。ずるいな。最悪だよおまえ。ハリネズミなら何でも許されると思うなよ。嘘だよ。かわいいなちくしょう。最悪だ。たまらず口を手で覆った。頭の中で渦巻いた言葉が溢れそうだった。ハリネズミは未だに、おなかがすいたんですけど、という顔をしていた。近くのペットショップを調べると、まだ営業していたので自転車をとばした。とりあえずご飯とケージを買って、明日にでも動物病院で調べてもらって、ずっとこのままだったらどうしよう、家族に相談して、もしかしたら警察とか、それから、それからそれから。夜風は何も冷ましてくれなかった。
家に帰ると、先ほどのように彼氏は玄関で私を待っていて、ピーピーと鳴いた。ハリネズミの身体に慣れてきたのかもしれない。ハリネズミ専用フードの袋が妙に重たく感じた。これはきっと、よくない重さなんだろう。この重さがきっと、ミルワームの気持ち悪さや排泄物の匂いをどうでもよくしてしまうのだろう。私を見上げる黒い瞳には、何も映っていないのに。がつがつとご飯を食べるあんたの背中に手を伸ばすと、ざらざらで硬い感触しかなかった。もっとさ、うさぎとかチンチラとかさ。ふわふわの柔らかい子になってほしかったのに。でも無理か。あんただもんね。ハリネズミは臆病だから、これぐらいの硬さが必要なんだ。そうだ、臆病で敏感で、頑固で。人間だったあんたのことを思い出した。ついでに、その頃の私のことも。ああそうだ。
全部が全部、初めてだった。こんなどうしようもないあんたにも親がいるんだから、それだけできっと、抱きしめられる資格が互いにあるはずなんだって、ベッドの中で思った。表面だけが冷たいシーツ。瞼の裏に白く光る蛍光灯。熱を持った、重たく溶けていく幸せな痛み。ハリネズミのジレンマ。たぶん、こういうことでしょ。
やっぱりまだ、これは全部夢で、誰かが勝手にどうにかして救ってくれないかと期待する自分もいて、スマホの連絡先の一覧を眺めて、家族にも親友にも電話をかけることはできたけど、それでも諦めきれなくてあんたの携帯を鳴らした。すぐ側にあった。着信音はお気に入りのインディーズバンド、5年ほど前の曲。一緒にライブに行った。涙が出た。あんた、個別に着信音を設定するタイプの人間だったんだ、初めて知った。いつの間にか食べ終えたあんたは、丸くなって眠る準備をしていた。用意したケージに入れてあげようと、両手でそっと持ち上げる。握りつぶしてしまいそうで、手がぶるぶる震えた。着信音はまだ続いている。このままケージに入れてあげることが、本当にそうするべきことなんだろうか。どうして私は、あんたを閉じ込めようとしているんだろう。ハリネズミだから? そんなことを考えている自分が嫌になった。だって、あんたはあんたじゃないか。棘だらけの小さな生き物、私の彼氏、私の。
不器用で下手くそで乱暴で理不尽で、いたいよ、辛いよってもっと言ってあげればよかった。さよならだけが人生だって、えらい作家さんが言っていたけれど、私は後悔だけが人生なんだと思う。そうじゃなかったらきっと、あんたはハリネズミになんてならなかった。ハリネズミのジレンマ。たぶん、こういうことでしょ。
買ったケージは無駄になってしまった。あんたはソファーのクッションの上で小さく寝息を立てていて、私はご飯とお風呂とその他のいろいろを一人で片付け、生き物が同じ空間にいる感覚ってこういうことなんだな、と思った。人間の頃もあんたは居たはずなのに、どうしてだろう。
私はとにかくハリネズミのことを調べた。あんたのことを知りたかった頃とおんなじだった。夜行性ということがわかったときには、あんたは目を覚ましていた。相変わらず、何かを言っても私には聞き取れなくて、もうこれはどうにもならないんだな、あんたがどんな文句や恨み言を言っていても、私にはもうわからないんだな、とその黒い瞳を見つめることしかできなかった。ずっと聞いてるだけなのもアレなので、さっき調べたことをなんとなく話してみる。ヤマアラシっているでしょ。あれも針があるけど、威嚇のために逆立てるんだって。だから、相手に針が刺さったら、自分の身体からは抜けちゃうの。ハリネズミの針は、相手に刺さっても自分の身体から抜けないんだって。身を守るために使うから。抜けちゃったら、柔らかいとこがむき出しになっちゃうでしょ。あんたが壁を殴るのは、自分の身を守るため? ハリネズミのジレンマ。たぶん、こういうことでしょ。
本当はもっと、話すべきことがあるのかもしれない。このアパートはペット不可なこととか、デザートに買ってきたアイスクリームが溶けていること、来月からバイトのシフトを増やすこと、あんたの部屋が汚いこと、私たちのこれから、とか。でもそんな気にはなれなくて、私も彼氏も現実逃避がしたいだけなんじゃないかと思ったり、明日の自分たちに全て任せたいだけなんだと思ったり、ああそういえば、あんたとこうしてマトモに話したのはいつぶりだっけ。ねぇ、これはきっと天罰なんだろうけど、私たちの神様はちょっと変わり者なんだろうね。あんたはピーピーと鳴いた。もっとこういう話をしておけばよかった、よくない言葉をぶつけ合うばかりで、ちっとも向き合えてなかったんだろうな。今更気づいてしまって、でも私じゃあ、だめなんだった。ハリネズミにはハリネズミの子がお似合いなように、私じゃあ、もうだめなんだった。これは紛れもなく天罰で、臆病な私とあんたの終わりだった。ごめんね。私も同類だった。許してね。許しても何が変わるってわけじゃないけど。ハリネズミのジレンマ。たぶん、こういうことでしょ。
私もハリネズミにしてくれればよかったのに、それならきっと、文字通りのハリネズミのジレンマで、あんたも私も完璧に孤独になれたのに、でも、だからこそ天罰なんだろうな、そう思いながら下唇を噛み締めていると、あんたはやたらと目を輝かせて、膝の上でもぞもぞと動いてた。たぶん、あれの真似をしている。私のよく知らない、何かのアニメキャラの真似をしている。私はたまらなくなって抱きしめた。記憶の中のあんたの顔が、次第にぼやけていってしまう気がした。忘れないように、ってたくさん写真を撮ったはずなのに、見返さないんじゃ意味ないね。でも、あんたにも、抱きしめられる資格がきっとあるんだよ。小さな身体の奥で、小さな心臓がドクドク動いている。私のよりもずっとずっと速くて激しい。動物はみんな、一生のうちの鼓動の回数が決まっているんだって、国語の教科書に載っていた。どうして、理科でも生物でもなく、国語の教科書だったんだろう。そう考えると涙が出た。私たちが寄り添うことだって、こうして誰かに決められているのだ。ハリネズミのジレンマ。あんたは私の知らないとこで、ずっと笑っていればよかったのに。たぶん、こういうことでしょ。
「ハリネズミってさ、ネズミじゃなくて、モグラの仲間なんだよ。私もきっとおんなじだよ、人なんかじゃなくて、きっと、きっと、」
言ってあげればよかった。全部嘘だよって。あんたは苦しがって、針が私の手に食い込む。いたた、いたいな、と思ったけど、あんたに殴られたときよりかは辛くなかったし、もっと早くこうしておけばよかったんだ。ハリネズミのジレンマ。たぶん、こういうことでしょ。あんたの針が私のすべてを貫いて、それで、
彼氏がハリネズミになってしまった。 もちもちおさる @Nukosan_nerune
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます