第95話 傷だらけのその体

 ミュエル視点



 月の輝きを頼りにしていたこの部屋に明かりを灯す。


 天井に設けられた灯りから放たれる人工の光は、瞬く間に屋敷の明度を綺麗に高めた。


 ぼやけていたご主人様の輪郭も鮮明に姿を現し始める


 太ももを枕にして寝転がる彼女は、私を見上げながら流れ星を見るように願った。



「……みゅんみゅん、お風呂入れてほしいな」



 鼓動が加速しているのが分かる。


 顔がジンジンと拍動している。


 冷え始めた気温がそれを余計に意識させている。


 髪の先からつま先に至るまで、私の体は熱を帯びていた。


 最低な想像しかできない私はゆっくりと固唾を吞む。


 喉の鳴りは、きっとご主人様にも聞こえてただろう。



「分かった、準備してくる」


「うん、お願い」



 でも、多分。


 私が想像しているような『誘い』ではないだろう。


 独りになりたくない、そんな単純な気持ちで発された言葉。


 ……だから、私は真摯に向き合わないといけない。


 太ももの上からご主人様をおろして、私は屋敷の中を移動した。


 脱衣所を抜けて温かさが心地良い浴場へと踏み入れる。


 二人で暮らしているこの屋敷に少しばかり広すぎる浴場。


 掃除を徹底しているおかげで、カビや汚れは一切存在していない。


 少しだけ自慢だ。


 苦手だった掃除も、料理も、お花も、全部全部人並みに上達した。

 ご主人様のおかげで。



「……よし、掃除は行き渡っている。洗髪剤も切れていない。完璧」



 入浴の準備といっても、今日は浴槽のお湯を抜いてないから特にすることないな。


 そう思い脱衣所の方へ振り向いたて、浴場の扉を開く。


 その先には、バスタオルを体に巻きつけたご主人様が立っていた。


 咄嗟に顔を伏す。


 な、なななな、なんでもういるのぉ!?



「あ、ご、ごめん! 驚かせちゃったかも!

 ……けど、今はみゅんみゅんの側にいたくて。迷惑だったかな?」



 興奮で脳が働かなかったせいで気付かなかった。


 独りになりたくない彼女は、そりゃ私の後ろを追ってくるだろうな。


 こんな簡単なことを見落としていたとは、不覚。


 とにかく、動揺を見せないように振る舞わないと。



「構わない。えと、じゃあもう入るか?」


「うん」



 そう言うと、ご主人様は髪を揺らしながら私の前を通過して浴場へ進んだ。


 通り過ぎる瞬間に、牛乳の匂いがかすかに鼻腔を刺した。


 帰ってきてすぐに、髪の毛ぐらいは洗ってあげるべきだったな。

 何してんだ、私……。


 脱衣所へと繋がる扉を閉め、小さな腰掛けに座したご主人様の後ろを辿る。


 私に比べて小さな背中の後ろに着く。


 真正面の壁には大きな鏡が埋め込まれている。


 それを確認しながら給仕服の袖を捲り上げ、ポケットに入っていたヘアゴムで長い髪の毛をまとめる。


 ……ってこのゴム、ご主人様の物じゃないか。


 粘膜と粘膜が間接的にキスするアレには達さないけど、どうしようこれ。

 私の汗とか染み込んだら価値が無くなってしまうのでは。


 いや、別にそこまで気にすることでもないか。

 意識しすぎだ。



「じゃ、お願い」



 ご主人様はバスタオルを外し、それを台座の上に置いた。


 肩甲骨、背中、うなじ、くびれ、腰……。


 余計なことは考えるな。

 騎士時代に女の体なんて散々目にしてきただろ。


 自分の頬を力一杯殴った。



「え!? な、なに!? 今凄い音したけど」


「なんでもない、足を滑らせかけただけだ。じゃあお湯かけるから」



 痛みと引き換えに煩悩を捨てた。


 桶にお湯を入れてご主人様の体へとかける。

 日焼けのない綺麗な肌はお湯を弾く。



「熱くないか?」


「うん、大丈夫。あったかい」


「そうか、なら良かった。髪の毛洗うから、目を瞑っててくれ」


「わかった」



 髪にお湯をかける。

 洗髪剤を手に取り、私はご主人様の髪を洗い始めた。


 緊張する。

 それは、目の前にご主人様がいるからじゃない。


 私が初めて人の体を洗うから。

 力加減を間違えれば、怪我をさせてしまう。


 慎重に指を動かす。


 傷つけないように、傷つけないように。



「みゅんみゅん、大丈夫だよ。わたし、普通の人より頑丈だから」



 ご主人様は私の心中を察して囁いてくれた。



「分かった、痛かったらすぐに言ってくれ」



 肩の力を抜いて再び手を動かし始める。


 こうして髪の毛を洗っていると、頭の輪郭や髪質を両手が勝手に記憶していくのが分かる。

 そっか……今私、ご主人様と一番近い距離に存在してるんだ。


 誰よりも近くて、誰よりも深い場所にいる。


 今、あなたは何を思っているんだろうか。

 苦しんでいないだろうか。


 私を、想ってくれてたりするのかな。


 髪を洗い終えると、次はその体へと移す。


 体を洗う用の泡を作り、優しく撫でるように彼女の体を洗ってく。


 丁寧に丁寧に洗い続ける。


 爪を立てないように、傷を付けないように、変な触り方をしないように。

 背中を、首の裏を、綺麗に洗う。



「みゅんみゅんの手、大きいね。大きくて、優しい。

 あ、前は自分で洗うね」


「ああ、頼む。これ受け取ってくれ」



 背中の上で余分になっている泡をかき集めてご主人様の両手へ運ぶ。


 ……人の体を洗う時って、こういうことして良いのか。

 ケチだと思われたらどうしよう。


 ご主人様は体の前面を洗い始めた。



 なんか、思ったより落ち着けているかも。

 好きな人の裸を目の当たりにしても、人って冷静でいられるものなんだ。



 そんなこと考えているとご主人様の左腕の肘、その内側が目に入った。


 ……。


 ご主人様は普段から長袖の服を着用している。


 暑い夏の日でも露出を隠すため、日焼けを防ぐため。

 そう言って上着を羽織っていた。


 だから、私は知らなかった。


 ご主人様に……その傷跡があることを。



 肘の内側に、注射をした痕跡のようなものが見えた。



 消えかけている薄いアザのようなそれは、私の賢くない脳でも何によるものなのかは察せてしまえる。


 その左腕は、深淵の遺跡での戦いにおいて僅かに残存していた体の一部。

 つまり、セレナの治癒術で再生した体ではなく、元々ご主人様に備わっていたもの。


 傷の治療を受けていない部分。


 過去に受けた傷を証明できる唯一の肉体。


 確証はない。


 分かりたくなんてなかった。


 だけど、それは……そんなのって……。


 ……。


 ……まさか、これもあいつらにやられたんじゃないのか。


 ……。


 嫌な想像だけは達者だな、私。


 最悪だ。


 こんなの……悔やみきれない。


 ……。


 服が濡れるのも構わずに、私はご主人様を背後から抱きしめた。



「わわっ!? ちょ、ちょっと、どうしたの!? 大切な服汚れちゃうよ!?」



 服なんて汚れてもいい。

 これであなたが綺麗になるなら、私は全てを差し出せる。



「ごめんなさい……私が、もっと強かったら……ご主人様を傷つけずに済んだのに……」



 堪え切れない自分勝手な涙が溢れてくる。


 それは、やがて少女の背中へと伝い泡を落としていく。



「……ううん、違うよ。みゅんみゅんは何も悪くない。

 悪いのは……弱いわたし。

 ……ごめんねみゅんみゅん。今日は恥ずかしいところ見せちゃった……たはは」


「恥ずかしくなんてない! ご主人様は、何も悪くないんだから……」



 悪いのはご主人様じゃない。


 何もできなかった私と、あの三人だ。



「……ありがとう」



 ずっとこの人に守られてばっかりだ。


 メイドらしいことはできているけど、私らしいことはしていない。



「……私はご主人様のメイドだ。だから、私が守らなきゃいけなかったのに……ごめん……」


「心配させてごめんね、みゅんみゅん」



 額を押しつけているその小さな背中から辛うじて聞こえる鼓動の音はやけに静かで、私のそれとは正反対の動きをしていた。

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