第94話 最初からあなたのメイドでいられたら良かったのにな
ミュエル視点
屋敷に帰ってきてからも、ご主人様はずっと放心状態のままだった。
幸い、緊張しきっていた体からは十分に力が抜けていた。
とりあえず部屋のソファに寝かせてはみたものの、目を開けたまま微動だにしない。
ご主人様は何も言葉を発してくれない。
時間だけが流れる。
時折、呼吸をしているのかだけは確認はしたけど話しかける気にはなれなかった。
言葉が耳に届きそうになかったから。
だから、私は自分の太ももを枕の代わりにした。
こうすればまた元気を取り戻してくれるんじゃないかって、そんな単純な思考力でご主人様を私の上で寝かせた。
それに、私がそうしたかったから、何よりも彼女の近くにいたかったから。
「……ご主人様、元気になるまでずっとここにいよう。二人で、ずっと」
撫で続ける。
頭を、髪を、背中を、肩を、お腹を。
青空は次第に茜色へと変わり始める。
黒い鳥が鳴いている。
沈んだ太陽。
陽の光を浴びている月が顔を出す。
夜が始まる。
料理は……しなくていいか。
多分、今のご主人様は何も食べてくれないだろうし。
馬鹿な私でも分かる。
あんな出来事があった直後に食欲なんて湧いてくる訳がない。
……この短期間で、ご主人様は多くの人間と再会しすぎたんだ。
後回しにしていた問題が一気に押し寄せてきたんだと思う。
後回しと言うよりは、どうにもできなかったと言う方が正しいか。
ご主人様が所属していた一つ目のパーティ。
幼馴染二人と一緒にギルド活動をしていたらしい。
『カトレア・ルナディスティニー』
長身で不良の様な見た目。
茶髪で毛先が金色に染められている。
だけど、見た目に反して喋り口調や性格は穏やかで慈愛に溢れていた。
とても優しく、ご主人様を心配し続けていた少女。
ただ、記憶に強く焼き付いているのは彼女の体だった。
右腕と左足の欠損、右目の負傷。
不治の傷らしく、それたの傷は塞がってすらいないらしい。
『シャウラ・カレンミーティア』
毛先が赤みがかった黒髪のロングストレートといった清楚満点の容姿だが、性格や口調は荒々しい。
それでも彼女はカトレアと同質の優しさを持っていた。
シャウラもカトレアと同じように、二人の前から姿を消したご主人様を心配し続けていたんだ。
彼女らとご主人様が抱える問題は『呪い』という厄介なもので、聖女のセレナでも治せないらしい。
加えて、あの日交わした会話の内容を断片的に整理すると、カトレアとシャウラの二人は互いに体が入れ替わっていることを察せた。
信じがたい現象だけど、これは確定で間違いないだろうな。
中身と外見がチグハグだったし。
……少しだけ気になることがある。
どういう状況か分からないから何とも言えないが、呪いを受けたのが二人だとすると、どうしてご主人様だけはそれを免れたのかが引っ掛かる。
あるいは、ご主人様も何らかの呪いを受けているのか……。
確証も持てない内に憶測を広げるのはやめよう。
またいつか、本人から聞けばいい。
ご主人様が話してくれるのを待とう。
二つ目のパーティ。
つい先ほど酒場で出会った胸糞悪い女共。
ここに関しては情報が無さすぎる。
あえて説明するなら、ご主人様が絶対に関わってはいけなかった者達。
『アヤイロ・エレジーショート』
クリーム色の髪をした小柄な女。
……女狐で、あざとくて、猫被り。
汚い手でご主人様の体をベタベタと穢していた不快な女。
こいつが現れた途端にご主人様は正気を失い、意識を途絶させていた。
私の目から見ても強い部類に入るご主人様を追い込む程の力を、この女は持っていない気がする。
憶測だけど、この女は人身掌握に長けているんだと思う。
心を壊すことができる……最低の女。
『メートゥナ』
水色の髪で褐色の女。
喋り口調はシャウラを彷彿とさせるが、この女の場合は言葉全てに悪意が詰まっていた。
シャウラと同一視するのはお門違いだな。
今のところ、私はこの女が一番憎い。
『ネイハ』
オレンジ髪の女。
こいつの印象は薄い。
二人の後ろに潜んで加虐に加勢していただけの存在。
アヤイロが二人を引っ張っている印象を受けた。
暴走気味の低俗な女共を、この女狐がまとめている。
二人が本能に従って考えなしの行動を起こせるのは、アヤイロが思考を張り巡らしているから……。
……駄目だ。
冷静でいられない。
酒場での惨状が脳裏に焼き付いて離れてくれない。
あの場面を思い出す度に焼けるような感情も蘇ってくる。
良心を微塵も感じさせない言動の数々。
飲み物を躊躇せずに人の頭にぶちまけ、喜びに満ちたあの顔。
体を震わせていたご主人様は、次第に反応するのをやめていた。
絶望を宿した表情を私は初めて見た。
あんな顔……見たくなかった。
させたくなかった。
全身が強張っている。
無意識に食いしばっていた歯はミシミシと音を立てていた。
落ち着け。
ご主人様が枕にしている太ももまで力が入ってしまうのは良くない。
両手に収まってしまうんじゃないかと錯覚しそうなほど小さな頭を撫でる。
ごめんなさい、ごめんなさいと、謝罪を込めて。
あの状況で行動するのが遅れたことを悔やみながら撫で続ける。
ここで思考を停止させてしまう訳にはいかない。
考え続けるんだ。
どうすれば問題が解決するか。
ご主人様の幸せのためにも、こいつらだけは何とかしないといけないから。
私はあなたを幸せにしたい。
私はあなたに幸せを貰ったから。
時間は流れ続ける。
黒が混じっていた黄昏の空は、既に星々が煌めく夜空へと成り果てている。
結局、思考を張り巡らせても不出来な私の脳みそでは、解決に導く案を出すことはできなかった。
……私が思っている以上に、ご主人様は壮絶な人生を歩んでいるらしい。
膝に乗せたご主人様はいつの間にか眠っていた。
綺麗で、誇らしくて、大好きな寝顔。
ああ、こんなことになるなら。
「私が誰よりも早くご主人様の側でいられたら良かったのに」
それはどこまでも単純で、自分勝手で、ミュエル・ドットハグラの過去を全否定する願いだった。
結局のところこれは私の本心ではなく、もしそうだったらな、なんていう陳腐な妄想。
もしも、私があなたと共に生きてこられたのなら、ずっと幸せにしてあげられたのに。
……流石に傲慢すぎるか。
戦う以外価値の無かった私じゃ、誰かを幸せにするなんて夢のまた夢だろうな。
多分、このタイミングで出会えたことに意味があるんだ。
だからこそご主人様を幸せにさせる努力だけは止めてはいけない。
灯りが点いていない薄暗い部屋。
ソファの上で、私は少女に膝枕をしている。
いつも通りなら、あなたは楽しい言葉を掛けてくれるのにな。
月明かりだけがこの部屋を照らしている。
少女の白い脚が月光を反射していた。
暗い青の髪。
毛先に進むほど鮮やかになるその髪の毛。
首の辺りで二つに結んでいるヘアゴムを優しく外す。
給仕服のポケットに備えてあった良質なクシを取り出して、少女の髪をとかしていく。
引っ掛からないように、優しく。
癖のついた結び目を整えるように、ゆっくりと。
そして、髪全体をとかし終えた頃。
少女はゆっくりと目を開けた。
眠気まなこは瞼を半分ほど閉じたままゆっくりと私を捉える。
力なく、優しく、微笑む。
「おはよう……みゅんみゅん……」
涙を溜めながら、最愛のあなたは呟いた。
「おはよう、ご主人様」
私は愛を込めてそう応えた。
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