靴を買った。春だと思った。
もちもちおさる
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靴を買った。春だからとか四月だからとか、お金を消費したいからとか、今履いてるものがくたびれてきたからとか。理由はいろいろあって、でもそのいろいろは、私にとってはあまり関係の無いものだった。靴が欲しかったから、買ったのだ。
買ったのは三月の末だった。よくわからない、曖昧でぼんやりとした靴の影を求めて、亡霊のようにさまよっていた。一人で死にきれない亡霊。なんでもよかった。欲しいと思う靴が欲しかった。
「試着もできますよ」と、店員さんがニッコリ笑う。あぁ、とか、はい、とか、えぇ、とか。意味の無い言葉を返して、亡霊はふやけたように笑う。とっくにわかっていることを確認し合って、時間が過ぎていくことばかりが気になって。春らしい色が多かった。でも春らしいって何なのか、よくわからなかった。単に明るい色なら、明るい色でいいだろう。みんなが思う、ふんわりとした「春らしい」が積み重なって、目の前の靴になるんだろうか。じゃあ私が今履いてる靴は、何らしいんだ。鞄は、服は、髪は、私は。
何店舗か旅をして、店員さんがレジの一番奥に居る店に入った。新品の匂いがして、でも埃っぽい気もして。実際はそんなことないんだろうけど、それはたぶん、このお店が積み重ねてきたものというか、黙って並んでいる靴が抱えた、重たく沈みこんだもののことじゃないかって。私に似ているんじゃないかって。靴の亡霊。
ニューアライバル。一番目立つ場所に置かれた靴たちは、そんな文字を背負っている。やっぱり「春らしい」色と、デザイン。春らしいって、新しいってことなのかな。じゃあ新しくない靴は、とまで考えて、やめた。暖かくて眠たくて、どうでもよかった。どうでもいいことに気づいた。欲求だけが、ゆるく頭に満ちていた。本当になんでもよかった。無駄に自信だけはあって、なんでも欲しかった。だからちょっと脇の棚を見て、手を伸ばしたい所に手を伸ばした。このときばかりは、私の手は私以外の誰かが動かしていて、そう、神さまとか、悪魔とか。亡霊とか。私はそれをただただ、眺めているだけだった。こういうのを運命とか必然とか呼ぶ人もいるから、人って本当にいろいろだな、と。眺めているだけの私は思った。
思えば昔から優柔不断だった。迷っているうちに時間が急かしてきて、こちらはわかっているのに、早く早くとせっつかれるのだ。誰に助けてもらいたいわけではない。ただ、ほっといてほしい。考えてるんだからさ。集中しているのを邪魔されたら、誰だって嫌だろうに。
何度か試着をして、ショッパーに10円払って。消費するのは一瞬だから、ぼわぼわと気分が満ち満ちていく感覚と、店員さんの笑顔と。それだけの春で。街を走り抜けるような風に触れると、日はぱぁんと弾けてしまいそうに照り、春の匂いがした。春は、命の匂いがする。新しい匂いがする。
靴を買った。春だと思った。かぐや姫が降ってきそうな青空で、薄桃色がどんなに地を覆っても、愛憎渦巻くこの季節で。欲求と寂しさに突き動かされて、無意味に焦りたくないんだ。眠くて幸せで痛いんだ。
「私を履かないんですか」
玄関に置かれた新入りが言う。靴語がわからないフリをしていると、靴は淡々と続ける。
「私を履かないと後悔しますよ」
わかってるよ、と返すと、いいやわかってない、言葉如きで証明できるほど単純じゃない、と言う。失敗したかな、と思いつつも確かにその通りだと思う亡霊もいたので、次出かけるときが履く時だ、その時だ、と一人で呟いた。
その時が来たので履いてみると、ぶつぶつ呟いていた靴はすとんと大人しくなって、ただ黙ったまま足裏に寄り添った。外はもう四月のあれこれに溢れていて、四月になってしまったのだ、誰がどう見たって春で、覆せないほど春なのだと思った。相変わらず風は春の匂いをまとっていて、肌を悪戯に撫ぜたまま亡霊を攫っていく。靴が思い出したかのように告げる。
「ああそういえば」
「私を買った理由を聞いていませんでしたね」
春だから、と言いかけてやめた。いや、春を運ぶために買ったんだ。「新しい」の隣にあるようなものでも、春を運ぶことはできるから。私のとっての春は、そういうことではないから。そう告げると、靴はもう喋らなかった。
亡霊に足は無い。無いけれど、無いから靴を探すのだ。春にさまよう亡霊。
靴を履いた。生きていると思った。
靴を買った。春だと思った。 もちもちおさる @Nukosan_nerune
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